〈予告状〉 ― 発火点
時刻、深夜一時〇七分。
東京の中心にある警視庁・電脳防衛班のフロアは、
まるで無菌室のように静まり返っていた。
昼と夜の区別は、ここにはない。
天井の光は昼間と同じ強度で照射され、
白い壁と床は、時間の概念を拒絶するかのように均一だ。
人間の気配は薄い。
ほとんどの職員は仮眠モードに入り、
数名のオペレーターだけが残って、無言でモニターを監視している。
彼らの顔には表情がない。
光の反射が、目元の生気を奪っている。
音もほとんど存在しない。
唯一、空調の吐息と、LUXシステムの低周波音がかすかに響いている。
それはまるで――都市そのものの“呼吸”のようだった。
光が呼吸している。
まるで生きているように、天井の照明が微細なリズムで明滅する。
だが、それは人間のためのリズムではない。
都市の神経系――LUXの自己調整による“機械の呼吸”だった。
フロアの奥、ホログラムのパネル群が静かに浮遊し、
波形やコード列が淡い青で流れている。
その光の海に、人間たちはただ漂っているように見えた。
世界は安全すぎて、眠りすぎている。
その静けさの中で、唯一活動しているのは“光”だけだった。
異常は――音の欠落から始まった。
深夜一時〇八分。
誰もが気づかぬほどの一瞬、
フロア全体の空調が息を止めた。
風が止み、空気が“静止”する。
光の粒子さえ、呼吸を忘れたようだった。
次の瞬間、照明が波のように揺らいだ。
白い壁がわずかに歪み、机の縁が滲む。
まるで都市そのものが――深海の底で揺れているかのように。
音が戻ったとき、中央モニターの上部に一本の黒い線が走った。
焼け焦げのようなノイズ。
白い画面を裂くその線は、わずかに震えながら、形を変える。
やがて、警告が浮かび上がった。
――《外部暗号通信 検知》
――《CODE: BLACKOUT》
その文字は、静寂の中でゆっくりと明滅していた。
周囲の職員たちが一斉に顔を上げる。
端末に指を走らせ、データを確認し合う。
焦りはない。ただ、規則的な反応。
機械のような冷静さの中に、わずかな緊張の糸が走る。
中溝隆だけが――動かなかった。
彼は報告を待たない。
ただ、息を止めたまま、黒い線を見つめていた。
それは、光の世界に穿たれた“最初の影”だった。
異常信号の波が、制御網の奥で蠢いていた。
データではない。数値でもない。
“意味”のかたちを持った、何か。
中央モニターの光が一段落ち、白の中に影が滲む。
そして――一文字ずつ、文字が浮かび上がった。
まるで光の膜に、誰かが焼き付けていくように。
T。O。K。Y。O。――
その綴りが現れるたび、周囲の照明が微かに脈打った。
> 『東京を暗闇に。
> あの日の冗談を、現実にしてやる。』
古びた打刻のような文字。
電子フォントの均整ではなく、歪みと掠れを孕んだ質感。
まるで、遠い昔に使われたタイプライターのインクが、
時間を越えて画面に浮かんでいるかのようだった。
職員たちは息を呑んだまま動けない。
誰もが、その文章を「読む」のではなく、「見ていた」。
光の中に、過去が出現している――そんな錯覚。
そして、最後の行。
> SAKAI SHOGO
その名が表示された瞬間、
すべての照明が、音もなく――止まった。
光が消え、空気が重くなる。
沈黙が、金属のように硬質な圧を持って室内を満たす。
中溝の鼓動だけが、わずかに響いた。
胸の奥で、確かに刻まれている。
十数年前の記憶と、同じリズムで。
彼は、ただひとり、暗闇の中で目を開けていた。
――呼びかけられたのだ。
過去から。
そして、光の底に眠っていた“影”から。
暗闇が、落ちた。
光に慣れすぎた瞳孔が、初めて“震え”た。
中溝隆の目が、闇という未知にゆっくりと開かれていく。
彼の世界から、音が消える。
復旧に走る部下たちの声も、端末の警告音も、
すべてがガラスの向こう側に遠ざかっていく。
その代わりに――風の音が聞こえた。
十数年前、渋谷の夜。
雑居ビルの屋上で吹き抜けた風。
ネオンの熱と、汗の匂い。
そして、あの声。
> 「東京、真っ暗にしてやろうぜ!」
笑いながら叫んだ男。
その無邪気さの奥に、
何か取り返しのつかない“輝き”があった。
酒井翔吾。
名前を思い出すより早く、
中溝の指が無意識に動いていた。
暗闇に沈んだホログラムディスプレイへ――手を伸ばす。
だが、そこにはもう、何もない。
光は消え、文字も消えた。
ただ、自分の呼吸だけが残っている。
冷えた空気が肺を刺す。
現実がゆっくりと戻る。
職員たちの声が、遠くで交錯する。
照明の残光がわずかに戻り、LUXのシステムが再起動を始める。
だが、中溝の中では――
“過去”が再起動していた。
光の支配するこの都市の底で、
封印したはずの影が、静かに息を吹き返していた。
闇は、少しずつ後退していった。
天井の照明が順に明滅し、光が戻る。
だが、その光はどこか“遅れて”いた。
まるで、都市そのものが息を整えているように――
暗闇が、呼吸を覚えたように。
LUXのシステムが自動復旧を始める。
複数のウィンドウが立ち上がり、無機質な報告が連なる。
> 【受信ログ:存在せず】
> 【外部アクセス:未検知】
> 【異常通信記録:該当なし】
――“なにも起きていない”。
システム上では、すべてが“正常”として記録されていた。
だが、誰もその光景を“正常”だとは思えなかった。
中溝隆は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
指先がわずかに震えている。
眼前のモニターには、白い残光が微かに滲んでいた。
その残光の奥で、彼にはまだ見えていた。
浮かび上がる――あの署名。
> SAKAI SHOGO
視界の端で、警告灯が点滅する。
機械的なリズム。だが、その明滅は――心臓の鼓動に似ていた。
LUXの中枢サーバーから、自動生成されたアクセス要求。
ホログラムにタグが表示される。
> 【TRACE 002】
静かに、連鎖が始まる。
“BLACKOUT”は、一度目で終わらない。
中溝は光の中に立ちながら、
その光がすでに「侵されている」ことを悟っていた。
> (中溝・内心)
> 「……酒井。おまえ、本気なのか。」
都市の灯がすべて戻った瞬間、
世界のどこかで――再び、ひとつの光が消えた。




