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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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19/52

映像メッセージ:誘惑と決断の萌芽

映像が止まり、闇が画面を飲み込む。

一瞬の静寂――それは、音という概念さえ凍らせるほどの重さを持っていた。

モニターの残光が、部屋の誰の顔も均等に照らさない。

それぞれの表情が、わずかに異なる色温度の中で浮かび上がる。


リオの肩がわずかに震えている。

膝の上で握りしめた拳は、血の気を失い、硬質な影になっていた。

「……これが、あんたの仲間だったのか?」

彼の声はかすれていたが、そこには怒りと憧憬、そして抗いがたい渇望が混ざっていた。

その眼の奥には、**「この声に従いたい」**という衝動の炎が、危ういほど静かに燃えていた。


ケイは椅子にもたれ、黙って画面の停止フレーム――

ノイズの中に焼きついた、酒井の半ば崩れた笑顔――を凝視していた。

「命令に聞こえるな……」

その呟きは、誰に届くでもなく、

希望という名の刃物に指を触れた人間のような、怯えと理解の混ざった響きを持っていた。


ミカは泣いていた。

涙は頬をすべり、光を反射して微かに震える。

「この人……笑ってたね。最後のほう、少しだけ。」

その言葉は、祈りのように静かだった。

彼女だけが、あの映像を**“命令”ではなく、“別れの挨拶”**として受け取っていた。


誰も反論しない。

蝋燭の火がひときわ高く揺れ、天井の影が波打つ。

部屋の空気は二層に割れていた――

行動へと駆り立てられる者と、慎重に沈む者。


中溝は、その境界の中にいた。

呼吸を忘れたまま、胸の奥で何かが軋む。

あの声――

酒井の声は、データでも証拠でもなく、彼自身の中に残された何かを呼び起こす音だった。


その沈黙の只中で、

誰もが理解していた。

この瞬間から、もはや“見ていただけ”ではいられない。


酒井の声が、頭蓋の奥で何度も反響する。

「お前も“光の細胞”の一部なんだよ。」


それは単なる録音の再生ではなかった。

まるで誰かが、内側から耳元で囁いているかのような錯覚。

あの一文は命令でも、記憶でもない。

――洗礼。

中溝の内部に、見えないインクが滲むように染み込んでいく。


視界の端で、過去の光景が断片的に蘇る。

戦場の映像。

瓦礫の隙間で拾い上げたレコーダー。

冷たい画面越しに見てきた“事実”たち――

どれも、彼の心を通り抜けるだけで、決して触れることのなかった現実。


彼はいつからか、それを正義と呼んできた。

「記録する」こと。

感情を捨て、ただ観測すること。

そこに自分の居場所を築いてきた。


だが、いま――

この闇の中で聞いた酒井の声は、

その“距離”を壊してしまった。


記録とは、対象を遠ざけるための儀式だった。

だがこの声は、彼の手を掴み、

“記録者”の外へ引きずり出そうとしている。


「お前の手で、東京を止めろ。」


挑発か、信頼か、それとも遺言か。

中溝には、もう判別がつかない。

ただ、その言葉が胸の奥で、静かに脈打っている。


理性が警鐘を鳴らす。

しかし、その下で別の声が息を吹き返す――

**「伝えるだけでは足りない」**と。


それは危険な芽吹きだった。

けれど中溝は、もはや見て見ぬふりができなかった。

心のどこかで、すでに理解していた。


――この夜の果てで、自分は“記者”のままではいられない。


沈黙を切り裂いたのは、日野の声だった。


「……これを見せたのは、間違いかもしれない。」


その声音には、疲労ではなく、明確な恐怖が滲んでいた。

彼女は机の上のメモリをそっと掴む。

指先がわずかに震え、プラスチックの表面に爪が触れる音がやけに響く。


リオが息をのむ。

「どこで、これを――」


日野は顔を上げ、遮るように言った。

「聞かないで。答えたら、あなたたちが危険になる。」


その目には、長年記者として見てきた“報じてはいけない真実”の影が宿っていた。

恐怖の奥に、確信があった。

「この映像、途中で削除されてる。

 多分、“彼ら”が手を入れた。

 完全には消せなかったのは……酒井の意志かもしれない。」


中溝が低く問う。

「暗号化……?」


「ええ。部分的な自壊コードよ。」

日野は画面に残る破片のような文字列を指さした。

流れる数字の断片が、まるで傷口の縫い跡のように見えた。


「でもね、奇妙なの。」

日野は言葉を区切るように息をつき、続けた。

「最後の部分――“中溝、お前の手で、東京を止めろ”――そこだけが、完全に残ってたのよ。

 他は焼かれてるのに、そこだけが。」


静寂。

誰も動かない。

蝋燭の炎が、まるで何かを見透かすように震えた。


「まるで、あんたに届くように。」


その一言が落ちた瞬間、

中溝の背筋を、冷たい電流のようなものが走り抜けた。


――これは偶然じゃない。


酒井が残したのは情報ではない。

命令でも、警告でもない。

“呼びかけ”だ。


そしてその呼びかけは、

報道というフィルターを越えて、

中溝という「個人」そのものを狙っていた。


「東京を止めろ」――

その言葉が、今度は比喩ではなく、

現実の行為として、胸の奥で音を立て始めていた。


リオの声が、暗い部屋の中で鋭く響いた。


「もう答えは出てるじゃないか。

 LUXを止める。酒井が望んだ通りに。」


その言葉は、熱に浮かされたような確信を帯びていた。

リオの眼は、まるで闇の奥に光を見つけた者のそれだった。

拳を握る音が小さく鳴る――それは“行動”の前触れ。


対して、ケイは冷たい息を吐いた。

「待て。」

その声は、鉄のように硬い。

「これは、誰かに仕組まれた誘導かもしれない。

 酒井の言葉を利用して、俺たちを“動かす”ための。」


二人の視線が交錯する。

リオの衝動と、ケイの理性。

その間で、中溝はただ黙って画面を見つめていた。


再生を終えたモニターの黒い反射面に、

自分の顔がぼんやりと浮かんでいる。

その瞳の奥では、まだあの白い光が点滅していた。

――酒井の声が、残響のように繰り返される。


「お前も“光の細胞”の一部なんだよ。」


それは命令ではない。

だが、逃げられない。


頭では理解している。

記者は観測者であり、物語の外に立たねばならない。

だが今、自分の内側で何かが“反応”している。


心臓が、鼓動ではなく点滅を始めたような感覚。

そのリズムが――酒井の言葉と同期していく。


中溝はゆっくりと目を閉じ、息を吸う。

「選ぶしかない」と、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


それは職務でも使命でもなかった。

初めて、ひとりの人間としての応答だった。


そしてその瞬間、

“光の細胞”が――

確かに彼の中で、目を覚ました。


日野の声が、夜明け前の静けさを切り裂いた。


「……もし次に進むなら、戻れなくなる。

 あなたも、彼と同じ場所に立つことになるわ。」


その言葉は、警告であり――同時に、許しのようでもあった。

彼女の瞳は深く濁っていた。

報道という冷たい現実の底に沈みながらも、

その奥にはまだ、消えきらない光が揺らめいていた。


中溝は、ゆっくりと頷いた。

迷いではない。

ただ、重い選択の実感が、胸の奥に沈んでいく。


外では、LUXの街灯が夜明けのプログラムに従い、

徐々に明度を上げていた。

だがその光は――いつもの均質な白ではなかった。

まるで何かが干渉しているように、波のような脈動を繰り返す。

窓の外の世界そのものが、息をしているようだった。


そのとき、PCのモニターの隅が微かに光った。

赤いタグが、規則正しく点滅している。


TRACE_004 // ACTIVE CHANNEL


中溝の視線が、吸い寄せられる。

まるで酒井の声が、

再びその回路の奥から“呼んでいる”かのように。


彼は息を整え、低く呟いた。


「……行くよ。確かめる。

 “光の中枢”が、何を造っているのかを。」


その言葉が空気に落ちた瞬間、

部屋の中のすべての機器がわずかに震えた。

モニターの光が揺らぎ、壁の影がひとつ、ゆっくりと伸びていく。


LUXの光が、夜を完全に飲み込む直前――

彼らの物語は、次の層へと転位した。


その光の奥には、まだ誰も知らない“真実の構造”が待っている。




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