映像メッセージ:誘惑と決断の萌芽
映像が止まり、闇が画面を飲み込む。
一瞬の静寂――それは、音という概念さえ凍らせるほどの重さを持っていた。
モニターの残光が、部屋の誰の顔も均等に照らさない。
それぞれの表情が、わずかに異なる色温度の中で浮かび上がる。
リオの肩がわずかに震えている。
膝の上で握りしめた拳は、血の気を失い、硬質な影になっていた。
「……これが、あんたの仲間だったのか?」
彼の声はかすれていたが、そこには怒りと憧憬、そして抗いがたい渇望が混ざっていた。
その眼の奥には、**「この声に従いたい」**という衝動の炎が、危ういほど静かに燃えていた。
ケイは椅子にもたれ、黙って画面の停止フレーム――
ノイズの中に焼きついた、酒井の半ば崩れた笑顔――を凝視していた。
「命令に聞こえるな……」
その呟きは、誰に届くでもなく、
希望という名の刃物に指を触れた人間のような、怯えと理解の混ざった響きを持っていた。
ミカは泣いていた。
涙は頬をすべり、光を反射して微かに震える。
「この人……笑ってたね。最後のほう、少しだけ。」
その言葉は、祈りのように静かだった。
彼女だけが、あの映像を**“命令”ではなく、“別れの挨拶”**として受け取っていた。
誰も反論しない。
蝋燭の火がひときわ高く揺れ、天井の影が波打つ。
部屋の空気は二層に割れていた――
行動へと駆り立てられる者と、慎重に沈む者。
中溝は、その境界の中にいた。
呼吸を忘れたまま、胸の奥で何かが軋む。
あの声――
酒井の声は、データでも証拠でもなく、彼自身の中に残された何かを呼び起こす音だった。
その沈黙の只中で、
誰もが理解していた。
この瞬間から、もはや“見ていただけ”ではいられない。
酒井の声が、頭蓋の奥で何度も反響する。
「お前も“光の細胞”の一部なんだよ。」
それは単なる録音の再生ではなかった。
まるで誰かが、内側から耳元で囁いているかのような錯覚。
あの一文は命令でも、記憶でもない。
――洗礼。
中溝の内部に、見えないインクが滲むように染み込んでいく。
視界の端で、過去の光景が断片的に蘇る。
戦場の映像。
瓦礫の隙間で拾い上げたレコーダー。
冷たい画面越しに見てきた“事実”たち――
どれも、彼の心を通り抜けるだけで、決して触れることのなかった現実。
彼はいつからか、それを正義と呼んできた。
「記録する」こと。
感情を捨て、ただ観測すること。
そこに自分の居場所を築いてきた。
だが、いま――
この闇の中で聞いた酒井の声は、
その“距離”を壊してしまった。
記録とは、対象を遠ざけるための儀式だった。
だがこの声は、彼の手を掴み、
“記録者”の外へ引きずり出そうとしている。
「お前の手で、東京を止めろ。」
挑発か、信頼か、それとも遺言か。
中溝には、もう判別がつかない。
ただ、その言葉が胸の奥で、静かに脈打っている。
理性が警鐘を鳴らす。
しかし、その下で別の声が息を吹き返す――
**「伝えるだけでは足りない」**と。
それは危険な芽吹きだった。
けれど中溝は、もはや見て見ぬふりができなかった。
心のどこかで、すでに理解していた。
――この夜の果てで、自分は“記者”のままではいられない。
沈黙を切り裂いたのは、日野の声だった。
「……これを見せたのは、間違いかもしれない。」
その声音には、疲労ではなく、明確な恐怖が滲んでいた。
彼女は机の上のメモリをそっと掴む。
指先がわずかに震え、プラスチックの表面に爪が触れる音がやけに響く。
リオが息をのむ。
「どこで、これを――」
日野は顔を上げ、遮るように言った。
「聞かないで。答えたら、あなたたちが危険になる。」
その目には、長年記者として見てきた“報じてはいけない真実”の影が宿っていた。
恐怖の奥に、確信があった。
「この映像、途中で削除されてる。
多分、“彼ら”が手を入れた。
完全には消せなかったのは……酒井の意志かもしれない。」
中溝が低く問う。
「暗号化……?」
「ええ。部分的な自壊コードよ。」
日野は画面に残る破片のような文字列を指さした。
流れる数字の断片が、まるで傷口の縫い跡のように見えた。
「でもね、奇妙なの。」
日野は言葉を区切るように息をつき、続けた。
「最後の部分――“中溝、お前の手で、東京を止めろ”――そこだけが、完全に残ってたのよ。
他は焼かれてるのに、そこだけが。」
静寂。
誰も動かない。
蝋燭の炎が、まるで何かを見透かすように震えた。
「まるで、あんたに届くように。」
その一言が落ちた瞬間、
中溝の背筋を、冷たい電流のようなものが走り抜けた。
――これは偶然じゃない。
酒井が残したのは情報ではない。
命令でも、警告でもない。
“呼びかけ”だ。
そしてその呼びかけは、
報道というフィルターを越えて、
中溝という「個人」そのものを狙っていた。
「東京を止めろ」――
その言葉が、今度は比喩ではなく、
現実の行為として、胸の奥で音を立て始めていた。
リオの声が、暗い部屋の中で鋭く響いた。
「もう答えは出てるじゃないか。
LUXを止める。酒井が望んだ通りに。」
その言葉は、熱に浮かされたような確信を帯びていた。
リオの眼は、まるで闇の奥に光を見つけた者のそれだった。
拳を握る音が小さく鳴る――それは“行動”の前触れ。
対して、ケイは冷たい息を吐いた。
「待て。」
その声は、鉄のように硬い。
「これは、誰かに仕組まれた誘導かもしれない。
酒井の言葉を利用して、俺たちを“動かす”ための。」
二人の視線が交錯する。
リオの衝動と、ケイの理性。
その間で、中溝はただ黙って画面を見つめていた。
再生を終えたモニターの黒い反射面に、
自分の顔がぼんやりと浮かんでいる。
その瞳の奥では、まだあの白い光が点滅していた。
――酒井の声が、残響のように繰り返される。
「お前も“光の細胞”の一部なんだよ。」
それは命令ではない。
だが、逃げられない。
頭では理解している。
記者は観測者であり、物語の外に立たねばならない。
だが今、自分の内側で何かが“反応”している。
心臓が、鼓動ではなく点滅を始めたような感覚。
そのリズムが――酒井の言葉と同期していく。
中溝はゆっくりと目を閉じ、息を吸う。
「選ぶしかない」と、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
それは職務でも使命でもなかった。
初めて、ひとりの人間としての応答だった。
そしてその瞬間、
“光の細胞”が――
確かに彼の中で、目を覚ました。
日野の声が、夜明け前の静けさを切り裂いた。
「……もし次に進むなら、戻れなくなる。
あなたも、彼と同じ場所に立つことになるわ。」
その言葉は、警告であり――同時に、許しのようでもあった。
彼女の瞳は深く濁っていた。
報道という冷たい現実の底に沈みながらも、
その奥にはまだ、消えきらない光が揺らめいていた。
中溝は、ゆっくりと頷いた。
迷いではない。
ただ、重い選択の実感が、胸の奥に沈んでいく。
外では、LUXの街灯が夜明けのプログラムに従い、
徐々に明度を上げていた。
だがその光は――いつもの均質な白ではなかった。
まるで何かが干渉しているように、波のような脈動を繰り返す。
窓の外の世界そのものが、息をしているようだった。
そのとき、PCのモニターの隅が微かに光った。
赤いタグが、規則正しく点滅している。
TRACE_004 // ACTIVE CHANNEL
中溝の視線が、吸い寄せられる。
まるで酒井の声が、
再びその回路の奥から“呼んでいる”かのように。
彼は息を整え、低く呟いた。
「……行くよ。確かめる。
“光の中枢”が、何を造っているのかを。」
その言葉が空気に落ちた瞬間、
部屋の中のすべての機器がわずかに震えた。
モニターの光が揺らぎ、壁の影がひとつ、ゆっくりと伸びていく。
LUXの光が、夜を完全に飲み込む直前――
彼らの物語は、次の層へと転位した。
その光の奥には、まだ誰も知らない“真実の構造”が待っている。




