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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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18/52

発見 ― “光の細胞”

灰色の明け方。

LUXの街灯が規則的に減光をはじめ、

窓辺の影が、まるで生き物のようにゆっくりと伸びていく。

壁に映るその影の呼吸だけが、

沈黙の部屋の唯一の時間だった。


中溝は、誰も動かない空気の中で、

日野の横顔を見つめていた。

彼女はずっと黙っていた。

指先で机の端をなぞり、何かを決めかねているような――

その沈黙自体が、言葉よりも重たかった。


やがて、

彼女の手が引き出しの奥へとゆっくり伸びる。

指先が何かに触れた瞬間、

その仕草には、長い年月を封じてきた者の確信と恐れが同時に滲んでいた。


金属がかすかに触れ合う音。

彼女が取り出したのは、親指ほどの黒いメモリスティック。

表面には無数の擦り傷。

端のコネクタには、熱で溶けたような痕がある。


日野はそれを、掌の上でひとつ転がして、

静かに言った。


「――見せるよ。」


その声には、もう報道の冷静さも、取材の構えもなかった。

ひとりの人間が、

“これ以上、隠すことをやめた”瞬間の声だった。


中溝は息をのむ。

そのわずかな震えに、

彼女が何を見て、何を失ってここまで来たのかを悟った気がした。


部屋の空気が、ゆっくりと温度を変える。

明け方の光が窓を透けて滲み、

蝋燭の炎がその明滅に応えるように揺れた。


まるで、何かが――

長い時間を経て、いま再び“語り出そう”としているかのようだった。


メモリは、掌の上で鈍く光を吸い込んでいた。

その小さな黒い樹脂片は、まるで焼け残った遺骨のように冷たく、

表面には長年の摩耗と、指の油の痕が刻まれている。


中溝がPCのポートにそれを挿し込む。

瞬間――モニターが閃光のように白く点滅し、

一拍遅れて、低いノイズが空気を震わせた。


「……これは、映像?」

誰かの声がかすかに漏れる。


画面がゆっくりと明るみ、

やがてそこに現れたのは、古びた実験室の光景だった。


コンクリートむき出しの壁。

無数のケーブルが床を這い、

蛍光灯の一部が周期的に点滅している。


壁の奥には、かつての「LUX」の旧ロゴ。

現行の滑らかな銀色の意匠ではなく、

粗いフォントで刻まれた、黎明期のその印。

光の帝国がまだ“希望”と呼ばれていた時代の痕跡。


そして――

中央に、ひとりの男が立っていた。


白衣の襟は皺だらけ、

髪は乱れ、眼の下には深い影。

だがその眼の奥には、

なお消しきれない“信じる者”の光がわずかに残っていた。


酒井だった。


中溝の呼吸が止まる。

その姿をスクリーン越しに見た瞬間、

彼の胸の奥で何かが、

ゆっくりと過去を呼び覚ますように軋みはじめた。


映像の中の酒井は、

ゆっくりとカメラの方へ顔を上げた。

まるで、その視線が時を超えて、

いまこの暗い地下室の彼らを見つめ返しているようだった。

映像が震えた。

ノイズが血のように流れ、

音声の断片が、誰かの息づかいと共に這い寄ってくる。


「……LUXは、照らすことで……制御する。」

低い声。電子のざらつきの向こうから、確かな人間の響きが届く。


「感情の波を、光の波で……“平準化”する。」

その言葉の途中で、画面がわずかに明滅する。

光の明滅が、彼自身の脈動と同期しているようだった。


「――だが、それだけじゃない。光は記憶にも作用する。」

酒井の目が、レンズの奥で細く光る。

その瞬間、背景の蛍光灯が一つ、ぱちんと弾けた。


ノイズ。

白い線が画面を横切り、映像が一瞬ブラックアウトする。


次に現れた酒井の顔は、

照明の片側だけが照らされ、もう片方は闇に沈んでいた。

その陰影が、まるで彼の内部を割り裂いた境界線のようだった。


「中溝……聞いてるか。」


その名を呼ぶ声が、部屋の空気を凍らせる。

日野も、リオも、誰も息をしていなかった。


「お前も“光の細胞”の一部なんだよ。」

酒井の声は、告発でも命令でもなく、

祈りのように、静かで切実だった。


「――だから、お前の手で、東京を止めろ。」


その言葉が終わると同時に、

音声が崩壊し、画面に無数の破片のようなデータコードが流れ出す。


〈SEQ ERR_004 // UNREADABLE BLOCK〉

〈DATA FRAGMENT: TRACE_004〉


そして、映像は音もなく消えた。


モニターに映るのは、ただの黒。

だがその黒の奥には、

都市全体が潜ませていた“何か”の呼吸が、

確かにまだ続いているように思えた。


部屋の温度が、ゆっくりと沈んでいった。

誰も動かない。誰も、息をしていないようだった。


リオは指を宙に浮かせたまま、画面の残光を凝視していた。

ケイは膝の上のスケッチブックを閉じようともしない。

ミカの瞳だけが、蝋燭の炎を見つめ続けていた。

その小さな光が、いまや唯一の“現実”のように、かすかに揺れている。


日野が無言でメモリを引き抜く。

端子から、小さく“チッ”という音がした。

彼女はそれを掌に包み込み、テーブルの上にそっと置く。

まるで遺灰を納めるような仕草だった。


「……彼は、最後の内部告発者。」

日野の声はかすれていた。

「“光の中に、心の設計図を埋めた”って言ってたの。

 LUXの照明は、ただの光じゃない。

 “意識の配列”を読み取る――そう信じてた。」


誰も返事をしない。

沈黙の中で、データの残響だけが耳の奥にこびりついている。

中溝はゆっくりと両手を見つめた。

指先が、かすかに震えていた。


――なぜ自分の名前を、彼は知っていたのか。

――いつから自分は、“光の細胞”と呼ばれる存在になったのか。


答えは、まだどこにもなかった。

ただ、胸の奥でひとつの確信が静かに芽生えていた。


――酒井の言葉は、命令ではない。

  それは、自分に託された“問い”だ。


蝋燭の炎が、ふっと揺らめいた。

その一瞬の暗闇の中で、中溝は悟る。

この夜が終わる時、

彼の“記者”としての生は、もう戻れない場所へ踏み出すのだと。


中溝の内部で、二つの波がぶつかり合っていた。


ひとつは、記者として鍛え上げてきた理性の声。

「落ち着け。これは編集された映像だ。

 本人確認も、発信時期も不明。感情的反応は、判断を曇らせるだけだ。」


その声は冷たく、正確だった。

まるで長年付き添ってきた編集ソフトのフィルターのように、

どんな情動も、均一なグレイに整えてしまう。


だが、もうひとつの声が――

その静けさの下から、ゆっくりと滲み出してくる。


「違う。これは“呼びかけ”だ。

 お前が見ないふりをしてきた現実が、今、名を呼んでいる。」


その声には温度があった。

怒りでも恐怖でもない。

もっと深い、原始的な“共鳴”のような熱。


映像の中で発せられた「中溝」という名が、

まだ耳の奥で反響している。

音ではなく、脈拍として。


“光の細胞”――その語が、思考の底で燐光のように揺れていた。

脳裏の暗闇に、見えないコードが走る。

それはまるで、彼自身の網膜の裏に刻まれた信号のようだった。


――もし本当に、自分が“光”の一部だとしたら?

その問いが、恐怖と同時に、奇妙な安堵を伴っていた。


彼は初めて、自分の内部にも“光”が侵入していることを、

無意識に――受け入れ始めていた。

PCの画面が、静かな電子の呼吸を漏らすように点滅していた。

再生を終えた映像ウィンドウの下、

黒い背景に、白い文字列がじわりと浮かび上がる。


DECRYPT SUGGESTION: TRACE_004

LINK VALID: ACTIVE SOURCE DETECTED


その瞬間――空気が変わった。


TRACE_004。

また、そのタグだ。

まるで酒井の映像が、何かを“呼び覚ました”かのように。


中溝は画面を凝視したまま、

自分の指が微かに震えていることに気づく。

呼吸が浅くなる。

脳裏のどこかで、電子音のような記憶のざわめきが走る。


――これは偶然じゃない。

“中”から何かが応答している。


喉の奥が乾く。

言葉を発すると同時に、

それが自分の決意になることを彼は理解していた。


「……酒井は、まだ“中”にいる。」


その声に、日野がはっと顔を上げる。

ミカの手が、無意識に蝋燭の火を庇うように揺れた。

リオは何も言わず、ただ目を細める。


部屋の照明が一瞬だけ点滅した。

遅れて、外の街でも同じように光が脈打つ。

LUXのネットが、朝の照度補正を開始したのだ。


けれど、その光はもう、ただの“朝”ではなかった。

窓の向こうに広がる淡い輝きの下、

中溝の中で、何かが静かに“反応”している。


まるで都市そのものが、彼の決意を待っているように――。


そして彼は悟る。

この瞬間から先は、記者としてではなく、

“光の細胞”として進むことになるのだと。


都市の中心、真実の中枢への扉が、

確かに、今――開き始めていた。



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