発見 ― “光の細胞”
灰色の明け方。
LUXの街灯が規則的に減光をはじめ、
窓辺の影が、まるで生き物のようにゆっくりと伸びていく。
壁に映るその影の呼吸だけが、
沈黙の部屋の唯一の時間だった。
中溝は、誰も動かない空気の中で、
日野の横顔を見つめていた。
彼女はずっと黙っていた。
指先で机の端をなぞり、何かを決めかねているような――
その沈黙自体が、言葉よりも重たかった。
やがて、
彼女の手が引き出しの奥へとゆっくり伸びる。
指先が何かに触れた瞬間、
その仕草には、長い年月を封じてきた者の確信と恐れが同時に滲んでいた。
金属がかすかに触れ合う音。
彼女が取り出したのは、親指ほどの黒いメモリスティック。
表面には無数の擦り傷。
端のコネクタには、熱で溶けたような痕がある。
日野はそれを、掌の上でひとつ転がして、
静かに言った。
「――見せるよ。」
その声には、もう報道の冷静さも、取材の構えもなかった。
ひとりの人間が、
“これ以上、隠すことをやめた”瞬間の声だった。
中溝は息をのむ。
そのわずかな震えに、
彼女が何を見て、何を失ってここまで来たのかを悟った気がした。
部屋の空気が、ゆっくりと温度を変える。
明け方の光が窓を透けて滲み、
蝋燭の炎がその明滅に応えるように揺れた。
まるで、何かが――
長い時間を経て、いま再び“語り出そう”としているかのようだった。
メモリは、掌の上で鈍く光を吸い込んでいた。
その小さな黒い樹脂片は、まるで焼け残った遺骨のように冷たく、
表面には長年の摩耗と、指の油の痕が刻まれている。
中溝がPCのポートにそれを挿し込む。
瞬間――モニターが閃光のように白く点滅し、
一拍遅れて、低いノイズが空気を震わせた。
「……これは、映像?」
誰かの声がかすかに漏れる。
画面がゆっくりと明るみ、
やがてそこに現れたのは、古びた実験室の光景だった。
コンクリートむき出しの壁。
無数のケーブルが床を這い、
蛍光灯の一部が周期的に点滅している。
壁の奥には、かつての「LUX」の旧ロゴ。
現行の滑らかな銀色の意匠ではなく、
粗いフォントで刻まれた、黎明期のその印。
光の帝国がまだ“希望”と呼ばれていた時代の痕跡。
そして――
中央に、ひとりの男が立っていた。
白衣の襟は皺だらけ、
髪は乱れ、眼の下には深い影。
だがその眼の奥には、
なお消しきれない“信じる者”の光がわずかに残っていた。
酒井だった。
中溝の呼吸が止まる。
その姿をスクリーン越しに見た瞬間、
彼の胸の奥で何かが、
ゆっくりと過去を呼び覚ますように軋みはじめた。
映像の中の酒井は、
ゆっくりとカメラの方へ顔を上げた。
まるで、その視線が時を超えて、
いまこの暗い地下室の彼らを見つめ返しているようだった。
映像が震えた。
ノイズが血のように流れ、
音声の断片が、誰かの息づかいと共に這い寄ってくる。
「……LUXは、照らすことで……制御する。」
低い声。電子のざらつきの向こうから、確かな人間の響きが届く。
「感情の波を、光の波で……“平準化”する。」
その言葉の途中で、画面がわずかに明滅する。
光の明滅が、彼自身の脈動と同期しているようだった。
「――だが、それだけじゃない。光は記憶にも作用する。」
酒井の目が、レンズの奥で細く光る。
その瞬間、背景の蛍光灯が一つ、ぱちんと弾けた。
ノイズ。
白い線が画面を横切り、映像が一瞬ブラックアウトする。
次に現れた酒井の顔は、
照明の片側だけが照らされ、もう片方は闇に沈んでいた。
その陰影が、まるで彼の内部を割り裂いた境界線のようだった。
「中溝……聞いてるか。」
その名を呼ぶ声が、部屋の空気を凍らせる。
日野も、リオも、誰も息をしていなかった。
「お前も“光の細胞”の一部なんだよ。」
酒井の声は、告発でも命令でもなく、
祈りのように、静かで切実だった。
「――だから、お前の手で、東京を止めろ。」
その言葉が終わると同時に、
音声が崩壊し、画面に無数の破片のようなデータコードが流れ出す。
〈SEQ ERR_004 // UNREADABLE BLOCK〉
〈DATA FRAGMENT: TRACE_004〉
そして、映像は音もなく消えた。
モニターに映るのは、ただの黒。
だがその黒の奥には、
都市全体が潜ませていた“何か”の呼吸が、
確かにまだ続いているように思えた。
部屋の温度が、ゆっくりと沈んでいった。
誰も動かない。誰も、息をしていないようだった。
リオは指を宙に浮かせたまま、画面の残光を凝視していた。
ケイは膝の上のスケッチブックを閉じようともしない。
ミカの瞳だけが、蝋燭の炎を見つめ続けていた。
その小さな光が、いまや唯一の“現実”のように、かすかに揺れている。
日野が無言でメモリを引き抜く。
端子から、小さく“チッ”という音がした。
彼女はそれを掌に包み込み、テーブルの上にそっと置く。
まるで遺灰を納めるような仕草だった。
「……彼は、最後の内部告発者。」
日野の声はかすれていた。
「“光の中に、心の設計図を埋めた”って言ってたの。
LUXの照明は、ただの光じゃない。
“意識の配列”を読み取る――そう信じてた。」
誰も返事をしない。
沈黙の中で、データの残響だけが耳の奥にこびりついている。
中溝はゆっくりと両手を見つめた。
指先が、かすかに震えていた。
――なぜ自分の名前を、彼は知っていたのか。
――いつから自分は、“光の細胞”と呼ばれる存在になったのか。
答えは、まだどこにもなかった。
ただ、胸の奥でひとつの確信が静かに芽生えていた。
――酒井の言葉は、命令ではない。
それは、自分に託された“問い”だ。
蝋燭の炎が、ふっと揺らめいた。
その一瞬の暗闇の中で、中溝は悟る。
この夜が終わる時、
彼の“記者”としての生は、もう戻れない場所へ踏み出すのだと。
中溝の内部で、二つの波がぶつかり合っていた。
ひとつは、記者として鍛え上げてきた理性の声。
「落ち着け。これは編集された映像だ。
本人確認も、発信時期も不明。感情的反応は、判断を曇らせるだけだ。」
その声は冷たく、正確だった。
まるで長年付き添ってきた編集ソフトのフィルターのように、
どんな情動も、均一なグレイに整えてしまう。
だが、もうひとつの声が――
その静けさの下から、ゆっくりと滲み出してくる。
「違う。これは“呼びかけ”だ。
お前が見ないふりをしてきた現実が、今、名を呼んでいる。」
その声には温度があった。
怒りでも恐怖でもない。
もっと深い、原始的な“共鳴”のような熱。
映像の中で発せられた「中溝」という名が、
まだ耳の奥で反響している。
音ではなく、脈拍として。
“光の細胞”――その語が、思考の底で燐光のように揺れていた。
脳裏の暗闇に、見えないコードが走る。
それはまるで、彼自身の網膜の裏に刻まれた信号のようだった。
――もし本当に、自分が“光”の一部だとしたら?
その問いが、恐怖と同時に、奇妙な安堵を伴っていた。
彼は初めて、自分の内部にも“光”が侵入していることを、
無意識に――受け入れ始めていた。
PCの画面が、静かな電子の呼吸を漏らすように点滅していた。
再生を終えた映像ウィンドウの下、
黒い背景に、白い文字列がじわりと浮かび上がる。
DECRYPT SUGGESTION: TRACE_004
LINK VALID: ACTIVE SOURCE DETECTED
その瞬間――空気が変わった。
TRACE_004。
また、そのタグだ。
まるで酒井の映像が、何かを“呼び覚ました”かのように。
中溝は画面を凝視したまま、
自分の指が微かに震えていることに気づく。
呼吸が浅くなる。
脳裏のどこかで、電子音のような記憶のざわめきが走る。
――これは偶然じゃない。
“中”から何かが応答している。
喉の奥が乾く。
言葉を発すると同時に、
それが自分の決意になることを彼は理解していた。
「……酒井は、まだ“中”にいる。」
その声に、日野がはっと顔を上げる。
ミカの手が、無意識に蝋燭の火を庇うように揺れた。
リオは何も言わず、ただ目を細める。
部屋の照明が一瞬だけ点滅した。
遅れて、外の街でも同じように光が脈打つ。
LUXのネットが、朝の照度補正を開始したのだ。
けれど、その光はもう、ただの“朝”ではなかった。
窓の向こうに広がる淡い輝きの下、
中溝の中で、何かが静かに“反応”している。
まるで都市そのものが、彼の決意を待っているように――。
そして彼は悟る。
この瞬間から先は、記者としてではなく、
“光の細胞”として進むことになるのだと。
都市の中心、真実の中枢への扉が、
確かに、今――開き始めていた。




