小さな衝突:メディア倫理 vs 住民の切実さ(対立)
蝋燭の炎が、かすかに揺れた。
解析を終えた部屋には、静寂が沈殿していた。
誰もが言葉を失い、数字の余韻だけが空気を占めている。
それは、真実を掴んだ者にしか訪れない一瞬の静けさ――祝福にも似た沈黙だった。
だが、その静寂を切り裂くように、
リオが立ち上がった。
暗がりの中で、手首のケーブルリングが鈍い金属光を放つ。
その光は、まるで自らの決意を映すように脈打っていた。
「もう“待つ”時間は終わった。」
少年の声は、冷たく、けれどどこか震えていた。
「次は、街に返す番だ。」
日野が、ゆっくりと顔を上げる。
低い声で、しかし確かに問う。
「返す? 何を?」
リオの唇が、わずかに動く。
「ノイズだよ。」
一拍の間を置いて、彼は言葉を継いだ。
「あの光に、俺たちの“逆拍”を。」
彼の背後で、モニターの片隅がちらつく。
そこには、書きかけのコードが流れていた。
白い文字列が走り、次第にひとつの構造を結びはじめている。
――都市照明ネットへの侵入準備スクリプト。
淡い光がリオの頬を照らし、
その目に宿るものが、怒りなのか祈りなのか、中溝には判別できなかった。
室内の空気が、ひと呼吸分だけ重くなる。
誰も動かない。
蝋燭の炎だけが、細い呼吸を繰り返していた。
ミカが、静かにその炎を見つめていた。
指先を組み、唇を噛みしめる。
その視線は、まるで「光を信じること」を最後にやめた人のもののようだった。
蝋燭の炎が、かすかに長く伸びた。
誰も言葉を継がない。
湿った空気の中で、地下の呼吸が少しずつ乱れていく。
日野が、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
声は低く、しかし刃のように鋭かった。
「それを実行した瞬間、君たちは“テロリスト”になるのよ。」
その言葉には、恐怖ではなく、哀しみが混じっていた。
「光を壊すより、光の仕組みを暴く方が意味がある。
破壊は、証明を台無しにする。」
リオが即座に言葉を返す。
「暴く?」
少年の笑いは、ひどく乾いていた。
「あなたの“記事”で? 読者は一瞬ざわついて、
明日にはまたLUXの下を歩く。
俺たちには時間がないんだ。次の更新で、完全に上書きされる。」
中溝は二人の間に立とうとするが、言葉が出ない。
倫理と切実さ――どちらも正しいのに、
交わることを拒む二つの線のようだった。
ケイが、静かに筆を置く。
「どっちも正しいさ。」
目を伏せ、かすかに笑う。
「でも、夜を“取り戻す”方法が違うだけ。」
その言葉が、微妙な均衡を一瞬保つ。
だが、ミカの声がそれを破った。
「私たちは、もう壊れてるの。」
炎の光に照らされた横顔は、まるで別の時代から来た亡霊のようだった。
「壊したって、これ以上失うものはない。」
沈黙。
蝋燭の炎が、音もなく震える。
まるで、部屋全体の呼吸が乱れているように。
その小さな光が、誰の言葉にも寄り添えず、
ただ、壁に滲む影を揺らしていた。
中溝は、ただ黙っていた。
手の中のマグカップがぬるく冷えていく感触だけが、時間の経過を教えてくれる。
脳裏に、遠い編集部の光景がよみがえる。
蛍光灯の下、資料の山。締め切りの警告音。
そして、上司の声。
「事実は刃物だ。振るうなら、切る覚悟を持て。」
その言葉は、今も刃のように心の奥で錆びずに残っている。
だが――今、目の前にいるのは記事の中の“登場人物”ではない。
呼吸をし、震え、何かを守ろうとしている、生身の人間だ。
彼らの絶望は、数値では測れない。
解析も、統計も、その“重さ”を表せない。
リオの拳。
ミカの声。
日野の瞳の奥の、冷たい決意。
それぞれが正しく、同時に痛ましい。
中溝は、唇の裏を噛む。
暴露が真実を照らすとしても、その光はあまりに眩しい。
誰かの目を焼く。誰かの居場所を失わせる。
――報道は、いつから“安全な暴力”になったのか。
胸の奥で、その問いが鈍く響く。
正義の名を借りた光は、いつだって残酷だ。
そして彼は、まだその光のスイッチを握ったままだった。
リオの指先が、端末のタッチパネルに触れかけた瞬間――
日野の手がそれを掴んだ。鋭い衝突音。金属の擦れるような呼吸。
「やめなさい、リオ! これはもう実験じゃない!」
日野の声は、抑えていた恐怖と怒りが混じる。
リオは振りほどくように叫ぶ。
「だからこそだ! これは現実だ! もう、光に支配されて黙っていられるか!」
二人の腕が絡み合い、ケーブルが引き千切れ、端末が床に落ちる。
ケイが間に割って入る。
「落ち着け! 二人とも――!」
だが遅かった。
小さな蝋燭が倒れ、芯が布の端を焦がす。
パッと炎が立ち、部屋を一瞬だけ昼のように照らした。
その一瞬――
日野の強い眼差し、リオの剥き出しの怒り、ケイの焦燥、
そしてミカの震える肩。
炎はやがて小さくなり、暗闇が再び戻る。
誰もが息を止めたまま、音のない余韻の中にいる。
ミカが、泣きそうな声で囁いた。
「お願い……争わないで。
夜を壊したのは、私たちじゃない。」
その言葉は、火の残り香のように静かに漂い、
四人の胸の奥に、焼け跡を残した。
日野は、燃え残った蝋燭を見つめたまま、しばらく動かなかった。
指先には、まだリオの手の熱が残っている。
静寂が、まるで深海のように部屋を満たす。
やがて彼女は、深く息を吐いた。
その声は、疲れと覚悟のあいだで揺れていた。
「……やるなら、私の目の前でやりなさい。」
一拍の沈黙。
「その代わり、全て記録する。逃げ場はない。」
リオは視線を伏せ、ゆっくりと頷いた。
挑むようでもなく、敗れるようでもない――
ただ、現実の重さを受け止めるような頷きだった。
ケイが小さく肩を落とし、ミカが静かに蝋燭を立て直す。
炎が再び灯ると、その揺らぎは、さっきよりも柔らかかった。
中溝は黙ったまま、ノート端末の画面を閉じた。
反射した光が、彼の頬をかすかに照らす。
――この瞬間、自分はもう“記者”ではないかもしれない。
そう思いながら、彼は息を整える。
夜の底で、わずかな和解が生まれた。
それは脆く、小さな火種のようだったが、
確かに、まだ“人の温度”を残していた。
外では、まだ夜の名残を引きずったような微光が、
地上のビル群の隙間から静かに滲みはじめていた。
“夜の終わり”――その言葉が、誰の口からともなく、
部屋の空気に染み込んでいく。
BLACK ZONEの空気は冷たく、乾いていた。
けれど、先ほどまでの緊張の熱だけが、
どこかの壁の内側にまだ残っているようだった。
中溝はノートPCを閉じかけた。
自動保存のアイコンが点滅し、ファイル名が無機質に更新される。
一連の会話、照明ログ、録音、映像――
全てが「記録」という名の静かな檻に収まろうとしていた。
そのときだ。
画面の隅で、赤い点がひとつ、瞬いた。
〈TRACE_004 // LINK TO SAKAI〉
中溝は眉を寄せる。
先ほど一度だけ見たタグ。
解析中に現れ、すぐ消えたはずの“亡霊のようなリンク”。
今度は、消えない。
点滅は規則的で、どこか呼吸のように見えた。
――SAKAI。
LUXの中枢開発部門にいたはずの技術者。
消息不明になった内部告発者。
まさか、彼が……
PCの冷たい光が、中溝の頬を照らす。
蝋燭の炎が小さく揺れ、外では朝の風が吹き抜けた。
夜は、終わりかけていた。
だがその光は、
新しい闇の入口を――確かに、示していた。




