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東京暗転(Tokyo Blackout)  作者: 南蛇井


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15/52

停電思想の若者たち ― “闇に棲む声”

午前四時二十分。

 BLACK ZONEの奥、旧貨物線トンネルの中腹に広がる空間。

 かつて信号管制室だったその場所は、今では若者たちの共同区画となっていた。


 壁一面に貼られたのは、剥がれかけた星の写真。

 かつて誰かが撮った東京の夜空――もう誰も肉眼で見たことのない、遠い記憶の断片。

 その間には、割れた地球儀の破片が吊るされ、錆びた鉄骨に触れるたび、かすかな金属音を立てて揺れている。


 床には薄い寝袋がいくつも並び、中央では小さなキャンドルが灯されていた。

 ほの暗い炎が、周囲に置かれた旧型端末の銀色をかすかに撫でる。

 光は弱く、そして不規則に震えた。

 そのたびに、人々の顔が“現れたり消えたり”する。


 誰かが笑うと、影が壁を伝ってゆらめき、まるで星座のように形を変えた。

 煙草の煙がゆっくりと漂い、闇の中に消えていく。


 ここでは時間の流れが、地上とは違っていた。

 夜の残響がまだ息をしており、明け方の匂いは届かない。

 ――この場所だけが、光の支配を逃れた“もうひとつの世界”だった。


 中溝は立ち止まり、耳を澄ませた。

 微かな電子音と、キャンドルの燃える音。

 それらが混じり合い、まるで生き物の呼吸のように空間を満たしていた。


中溝と日野が共同区画に入ると、そこには円を描くように座る十数人の若者たちがいた。

 床の中央――ケイが慎重に広げたのは、黄ばんだ写真の束だった。

 写真には、夜空。

 今の東京では二度と見られない、無数の星の瞬き。

 《LUX》がまだ存在しなかった頃、闇が“夜”として生きていた時代の記録。


 空気は湿り、蝋燭の炎が小さく震えていた。

 彼らの顔を照らす光は、人工照明とは違い、揺らぎの中で輪郭を変え続ける。

 影が寄り添い、離れ、また重なってゆく。


 神父と呼ばれる老いた男が、ゆっくりと写真に手を伸ばした。

 皺の刻まれた指先が、光の届かない星をなぞる。


 「これが“空”だ。」

 その声は低く、そして静かだった。

 「我々が最後に見た、“本当の夜”の記憶。」


 リオが端末を起動する。

 旧式のプロジェクタが唸りを上げ、かすかな光粒が天井に散る。

 古いデータに残された星々が、淡く、揺らめきながら甦った。


 誰も言葉を発さない。

 ただ、蝋燭の炎と、再生された星の光が、互いを映し合っている。

 人工の光が作る“夜”の模倣。

 だがその揺らぎの中に、誰もが“ほんもの”を見ていた。


 中溝は息を呑んだ。

 それは祈りにも似た静けさだった。

 ――忘れられた空を、記憶が呼び戻している。


ケイは、膝の上に一枚のキャンバスを置いていた。

 その表面は、一見するとただの黒。

 だが、蝋燭の炎が揺れるたびに、黒の奥から淡い線が浮かび上がる。

 夜だけに現れる絵――光を拒む絵。


 ケイは筆を持ちながら、小さく笑った。

 「昼は色が死ぬんだ。」

 低い声でそう言うと、絵に指を滑らせる。

 「夜の中でだけ、線が呼吸する。

  《LUX》の光は“完全”すぎる――だから、影が死ぬ。」


 その絵には、見覚えのある星座のような粒が散っていた。

 だが、よく見るとそれは星ではない。

 街灯に照らされて消えかけた人影の残光、

 ビルの窓に焼きついた“夜”の記憶。


 闇に馴染むにつれ、絵の中の線が微かに動いて見えた。

 それは、過去の呼吸の残滓のようでもあり、

 まだ見ぬ夜の胎動のようでもあった。


 中溝は、言葉を失ってその絵を見つめる。

 光が現実を描き出すなら、

 闇は――記憶を描くのかもしれない。


 キャンドルの火が、ひときわ強く揺れた。

 その瞬間、絵の中の“星”が、ほんの一瞬、生きたように光った。

リオは円の外れに座っていた。

 細い体、無造作に伸びた髪――その中に、錆びた電線の切れ端が編み込まれている。

 手首には、銅線と古い基板で作られたリング。指先に触れるたび、微かなノイズが空気を震わせた。


 彼の膝の上には、小さなノートPC。

 画面には黒地に白い文字が次々と流れ、断続的な光が彼の顔を照らしている。

 まるで闇の中で、思考そのものが発光しているかのようだった。


 「光は、俺たちを作り直す。」

 リオは画面から目を離さずに言った。

 その声は乾いて、均一な響きを持っていた。

 「テンプレートが通れば、心は平坦化する。

  笑うリズムも、悲しむ間合いも、プログラム通りになる。」


 中溝は、静かに問い返す。

 「君は、それを壊そうとしてるのか?」


 リオの口元が、かすかに動いた。

 笑いとも、ため息ともつかぬ音。

 「違う。」

 彼は指先でリングを回し、ノイズの波を立ち上げた。

 「“聴かせる”んだ。LUXに。

  俺たちの雑音を。」


 画面上で、LUXの制御波形にノイズが重なっていく。

 赤い脈動の中に、不規則な青の波――それは、まるで心臓の鼓動が“逆打ち”しているようだった。


 日野が息を呑む。

 中溝の視線がその波に引き込まれる。

 人工知能の完璧な律動に、たった一拍の乱れが生まれる瞬間。


 リオは言葉を足さない。

 ただ、静かに画面を見つめ続ける。

 その波形は、のちに“逆呼吸(Reverse Pulse)”と呼ばれることになる――

 闇が光に対して発した、最初の反応だった。

ミカは輪の少し外、壁際の蝋燭のそばにいた。

 背を丸め、両膝を抱え、炎のゆらめきをじっと見つめている。

 光が彼女の頬をかすめるたび、その肌の下で青白い静脈が透けて見えた。

 まるで、光そのものが血の中に入り込んでいるようだった。


 彼女の目の下には、深い隈。

 眠れぬ夜を何度越えてきたのか、その影が語っていた。


 「わたし、LUXの広告部門にいたの。」

 静かな声。だが、響きは澄んでいる。

 「“幸福度を可視化する”っていうキャンペーンを担当してた。

  照度を少し上げるだけで、人々の“いいね率”が上がる。

  それが仕事だった。」


 蝋燭の炎が揺れ、彼女の瞳の奥で光が分裂する。


 「でも、ある日、夢を見なくなったの。

  街に帰るたび、胸の奥が……静まりすぎて。

  “満たされる”ことと、“感じなくなる”ことの違いが、

  分からなくなった。」


 その声には、痛みというよりも“欠落の透明さ”があった。

 中溝は言葉を探したが、何も出てこない。

 理屈も倫理も、この沈黙の中では意味を失っていた。


 ミカはふと顔を上げ、微笑のようなものを浮かべた。

 「暗いの、怖くないのよ。

  だってここには……まだ、夢の残り香がある。」


 蝋燭の炎がまたひとつ、短く瞬いた。

 その淡い光の中で、彼女のまぶたがゆっくりと閉じられる。

 ――まるで、ようやく眠りに落ちる誰かのように。

年老いた男が、トンネルの鉄骨にもたれていた。

 白い髭は煤にまみれ、瞳だけが蝋燭の光を受けて、かすかに揺れている。

 煙草をくわえた唇の端から、ゆっくりと煙が立ちのぼった。

 煙は天井へと昇り、古びたコンクリートに溶けて消える。

 この場所の“夜”を、誰よりも長く吸いこんできた男――皆は彼を“神父”と呼んでいた。


 「星はな、暗闇の記憶だ。」

 低く、くぐもった声が響く。

 「人は光を造ったとき、自分の闇を忘れた。

  街を照らし、夜を追い出して、星を殺した。

  だから今、私たちは……“記憶を造り直している”。」


 蝋燭の炎が、彼の皺の奥をゆっくり照らす。

 言葉の一つ一つが、火の粉のように宙に漂った。


 若者たちは黙って聞いていた。

 ケイは膝の上の絵筆を握りしめ、リオは端末のモニターを閉じ、

 ミカは静かに煙の筋を目で追う。


 神父は煙草を床に落とし、靴で静かに踏み消した。

 「光は上書きする。だが、闇は覚えている。

  人間が忘れたものは、いつも夜が拾っていくんだ。」


 その言葉が、ゆっくりと沈黙の中に染み込んでいく。

 中溝は無意識に膝に手を置き、背筋を伸ばした。

 記者としてではなく、一人の“記憶する者”として、

 ただ、その声を聴いていた。


沈黙が降りた。

 蝋燭の火が小さく揺れ、誰もが言葉を失っていた。

 その中で、ミカがぽつりと呟いた。


 「……一晩だけでいい。夜空を返して。」


 その声はかすれて、しかし確かだった。

 空気がわずかに震え、リオが端末に手を伸ばす。

 クリック音。

 次の瞬間――すべての光が消えた。


 世界が、息を止めた。


 音も、映像も、データの粒子さえも存在しない。

 残ったのは、闇だけ。

 完全な、純粋な闇。

 照明の制御も、監視のセンサーも届かない、

 “誰のものでもない夜”がそこにあった。


 中溝は、ゆっくりと目を閉じた。

 闇は冷たく、だが優しかった。

 ――こんな夜を、最後に感じたのはいつだっただろう。

 少年の頃、停電の夜に見上げた黒い空。

 あのとき聞こえた、雨の匂いと心臓の鼓動。

 それが、今ここに戻ってきた気がした。


 闇の中で、誰かが小さく笑う。

 乾いた、だが確かな笑い。


 日野の声が闇の奥から溶け出した。

 「ねえ、中溝。

  この闇を、“犯罪”って呼ぶのかしら?」


 答えはなかった。

 彼はただ、暗闇に息を合わせるように呼吸した。

 それは言葉ではなく――

 人間が光の支配から取り戻した、

 “生のリズム”そのものだった。



 「光に焼かれた者たちは、

  闇の中で、もう一度“呼吸”を覚えようとしていた。」




 沈黙が、地下を満たしていた。

 誰も動かず、蝋燭の炎だけが小刻みに震えている。

 その震えの向こうで、ミカが唇を開いた。


 「……一晩だけでいい。夜空を返して。」


 その言葉は、祈りのように静かだった。

 まるで彼女の声そのものが、夜を呼び戻そうとしているかのようだった。


 次の瞬間――

 パチ、と小さな音。

 誰かが端末のスイッチを切った。


 光が、すべて消えた。


 闇が、落ちる。

 蝋燭の残光が滲んで、空気の粒が黒に沈む。

 音も、光も、記録もない。

 ここにはただ、呼吸だけがある。


 完全な夜。

 純粋な、無垢の暗闇。


 中溝は思う。

 ――こんな闇を、最後に感じたのはいつだっただろう。

 あの夜、停電した街で見た、母の影。

 街のどこからか聞こえた、犬の遠吠え。

 何も見えないのに、すべてが“在る”と分かった。

 あの確信。

 それを、思い出していた。


 誰かが、笑った。

 ほんの短い、かすかな笑い。

 その笑いが、空気を震わせ、

 沈黙が少しだけ柔らかくなる。


 日野の声が闇の中から浮かぶ。

 「ねえ、中溝。

  この闇を、“犯罪”って呼ぶのかしら?」


 彼は答えられなかった。

 ただ、息を吸った。

 そして吐いた。

 それだけで、胸の奥に“何か”が戻ってきた気がした。



 「光に焼かれた者たちは、

  闇の中で、もう一度“呼吸”を覚えようとしていた。」

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