秘密導入:地下「BLACK ZONE」へ潜入
深夜四時過ぎ。
都市はまだ眠っていない――だが、夢も見ていない。
都心の外縁、旧貨物線の跡地。
高架の影の下に、誰も使わなくなった倉庫群が沈んでいる。
夜明け前の街灯が、わずかに点滅を繰り返す。
その明滅はまるで、機械が眠気を装っているようだった。
倉庫の奥には、鉄扉。
扉の先は、地下へと続く古いトンネル。
そこでは、光が絶え、電波が途切れ、人の輪郭が暗闇に溶けていく。
誰も記録されず、何も照らされない世界――
それでも、誰かの声が確かに響いていた。
“闇の共同体”。
上層で生きづらくなった者たちが集まり、
照らされないことで、ようやく息をしている場所。
中溝は、湿った空気を吸い込みながら立ち止まった。
胸の奥で、微かな感情がざわめく。
――地上の光は、あまりにも正確だった。
だから、誰も夢を見られなくなった。
その言葉が、彼の中でゆっくりと沈殿する。
光が真実を暴く時代に、
暗闇だけが、人の想像をまだ許しているのだった。
線路脇のフェンスを抜けた瞬間、夜気が変わった。
街の呼吸が遠ざかり、代わりに湿った静寂が忍び寄ってくる。
崩れかけた倉庫の裏口。
日野は手袋越しに錆びた取っ手を引く。鈍い軋みが響き、内部の冷気が頬を撫でた。
階段が、暗闇の底へと続いている。
中溝は一歩、足を踏み入れる。
上方で、街灯の残照が揺れた。人工の白光が、階段の一段目で途切れる。
――下へ行くほどに、世界の輪郭が薄くなる。
壁面から水滴が落ちる音。
コンクリートの肌が呼吸するように湿っている。
金属の匂いと、遠くで鳴る水の反響が、かすかなリズムを刻む。
彼は振り返った。
階段の上には、かすかな光の霧。
だがその光は、もう届かない。
日野の声が、後ろから静かに落ちてきた。
「上では、眠れなかった人たちが集まるの」
息のように細い声。
「――闇に戻るために。」
その言葉が、湿気を帯びた空気に溶けていく。
中溝の鼓膜に残るのは、都市のノイズではなく、
水滴と呼吸の混ざる音――“生きている静寂”だった。
彼は気づく。
光の届かないこの場所こそが、人の意識が“まだ自由でいられる”
最後の深度なのかもしれないと。
トンネルの入口には、錆びた鉄扉が立ちはだかっていた。
上層の整然とした都市光とは無縁の、鈍い黒。
扉の前には二人の若者――どちらも二十歳前後、
髪には白いペイントを走らせ、手首にはケーブルを巻きつけている。
まるで“接続を断った回路”の証のように。
彼らの目は伏せられ、光を拒むように曇っていた。
声をかけるよりも先に、湿った空気が三人の間を流れる。
日野はゆっくりとポケットから古い懐中ライトを取り出した。
最新のデバイスではない、金属の擦れる音がするアナログ。
そして、闇の中に点滅を送る。
三回短く、ひとつ長く、また二度短く。
鉄扉の前で、若者の一人が短く頷いた。
「……コードを。」
その声には、抑制された緊張があった。
この場所では、言葉のひとつが命の境界を決める。
日野はためらわずに答えた。
「――“夜が目を閉じるとき”。」
短い沈黙。
若者は軽く顎を引き、扉のロックを解除した。
厚い金属が軋みながら開く。
中溝は何も言わない。
彼の身分証は封印され、端末は電源を落としたまま。
ここでは、“光を持ち込む”ことが罪に等しい。
彼の胸ポケットの奥で、微かな通信端子が沈黙している。
――この闇の中では、誰も“見られていない”ということが、
ようやく、自由に近い意味を持っていた。
鉄扉を抜けた瞬間、空気の質が変わった。
酸素の粒が重く、湿り気を帯びている。
ここは、かつて貨物列車が走っていた旧トンネル――
今は、光の届かぬ人々が呼吸を取り戻す場所。
天井は高く、闇の中に消えている。
壁には黒い布が垂れ、スプレーの痕跡が幾重にも重なっていた。
かすかに揺れる蝋燭の炎が、それらを照らすたび、
赤や白の文字が生き物のように蠢く。
TURN OFF.
REMEMBER THE NIGHT.
WE WERE HERE.
文字は主張ではなく、呟きのようにそこにあった。
誰かの心の残響が、壁面に焼きついたまま呼吸している。
照明の代わりに、ルミナストーン――
光を“吐く”鉱石が、通路の端に並んでいる。
青白い息のような光が漂い、
それが揺れるたびに、空間全体がゆっくりと脈打つ。
十数人の若者たちが、黙々と手を動かしていた。
配線を切り、ケーブルを繋ぎ、旧式バッテリーの端子を検査する。
誰も声を発しないが、互いの呼吸のリズムが作業の合図になっている。
その中の一角では、
金属とガラスを組み合わせた奇妙な装置が組み上がりつつあった。
耳を澄ますと、かすかに高周波の“ざらつき”が漂っている。
――LUXの信号をノイズ化するための共振装置。
日野は静かに歩み寄り、短く言った。
「新しい“観測者”よ。」
誰も頷かない。
だが、手を止めた若者たちが、一斉に中溝の方を見た。
その目には、光を拒む者の静かな誇りがあった。
視線の奥には、焼かれた記憶――
かつて“明るさ”の下で見失ったものたちへの、無言の哀悼が灯っていた。
蝋燭の火がわずかに揺れる。
それは、地下にだけ存在する“呼吸”の証だった。
トンネルの最奥――そこだけ、風の流れが止まっていた。
空気は湿り、蝋の匂いが濃い。
壁面には、巨大な白線が一筆で描かれている。
それは心電図のような波形――しかし中央が反転していた。
S字を描く“逆呼吸”。
上昇と下降が裏返り、息を吸うたびに世界が沈み、
吐くたびに暗闇が広がるような形。
中溝は、その線を見上げて息を止めた。
かつて防衛局のデータベースで何度も見た《LUX》の心拍波形。
だが、これは違う。
生の反対――“眠り”のリズムで描かれている。
日野が静かに言った。
「彼らは信じてるの。
“光”が記憶を上書きするなら、
“闇”はそれを保存するって。
――だからここは“BLACK ZONE”。
記憶の避難所よ。」
彼女の声は低く、空気を震わせるように響いた。
周囲の若者たちは作業を止め、
波形の下に蝋燭をひとつずつ置いていく。
その小さな炎が、S字の輪郭をなぞるように灯る。
中溝は何も言えず、ただ立ち尽くした。
蝋燭の光が彼の瞳に二重に映り、
その反射が、まるで《LUX》の残光のように揺れる。
「記録を拒む闇だけが、記憶を守る。
彼らはそれを、祈りのように信じていた。」
そのとき――奥のトンネルの闇を裂くように声が響いた。
「LUXの波、また変わった!」
若者の叫びと同時に、モニターのひとつが青白く閃いた。
地下の湿気を切り裂くような光。
暗闇に馴れた瞳には、それがまるで“警告”の閃光のように見えた。
画面には、脈動する波形。
《LUX/URBAN SIGNAL RESPONSE》――
その数値が急速に跳ね上がり、周期が乱れ、
そして、都市のどこかで何かが“目を覚ます”ように揺れ始める。
中溝は無意識に一歩、前へ出た。
息が詰まり、鼓動の音が耳の奥で膨らむ。
――あのリズム。
十年前、研究室で酒井と共に聞いた、初期稼働テストの鼓動音。
まるで、都市そのものが再び呼吸を取り戻す瞬間だった。
蝋燭の炎が小刻みに揺れる。
壁の“逆呼吸”のS字が、青白い残光に照らされて、
一瞬、反転した。
日野が低く呟く。
「……始まったわ。」
中溝は画面を見つめたまま、
自分の胸の奥にも同じリズムが脈打っていることに気づいた。
――都市が呼吸を再開した。
そして、その呼吸は、彼の中にも続いていた。




