光に溶ける職場
光が、空気を支配していた。
夜の概念はもう、過去の遺物だ。
かつての闇は、街から完全に駆逐された。
照明、広告、ドローンの走査灯、ビル壁面に走るデータのライン。
それらすべてが、ひとつの呼吸のように明滅している。
東京は、光の中で眠ることを忘れた都市になっていた。
上空。無人のドローン群が隊列を組み、無音のまま都市を縫う。
その航跡は、まるで神経系のシナプスのように青白く瞬く。
人々の頭上では、雲の代わりに光の粒子が漂っている。
街灯も看板も、AI《LUX》が調律する統一波長で点滅していた。
眩しすぎるほどの秩序。
そして、あまりにも静かな監視。
歩行者の顔に、薄く格子模様の光が浮かんでは消える。
LUXの認証照射だ。
誰がどこにいるか、どんな感情を抱いているか――
そのすべてが光に読み取られ、都市の“安全”という回路に記録されていく。
ここにはもう「影」が存在しない。
影が消えた街では、嘘をつくことさえ難しい。
ひとりの子どもが、スマートガラスに映る自分の顔を覗き込み、
その輪郭の周りに漂う薄い光を指でなぞる。
指先が発光データを乱すと、瞬時にLUXが補正をかけ、
まるで「見えない手」が整えるように光が戻った。
街が、呼吸をしている――
だが、それは人間の呼吸ではない。
遠景。
摩天楼群の中央に、都庁の塔がそびえている。
光の支配者たるLUXの中枢が埋め込まれた場所。
地上からの光がそこに収束し、塔の頂で脈動していた。
誰もがそれを、天気のように自然なものとして受け入れている。
「暗い」という言葉が、死語になった世界。
街を照らす光の下で、表情を失った群衆だけが淡々と動く。
安全。
正確。
整然。
――そのすべてが、どこか息苦しい。
ビルの壁面に貼りついたホログラム広告が、
無感情な声で囁くように言う。
「LUXが照らす限り、東京は眠らない。」
その声が消えると同時に、カメラはゆっくりと引いていく。
都市の光が網膜を灼き、輪郭を失う。
やがて映像は、白に溶け――
警視庁の内部、冷たい蛍光の光の下へと切り替わる。
警視庁――電脳防衛班。
そこには、夜も昼もなかった。
天井から放たれるガラス繊維光が、空間を一様に満たしている。
壁も床も机も、反射率九十八パーセントの白。
光は跳ね返りながら混じり合い、影という現象を完全に殺していた。
ここでは、明るさが圧力になっている。
誰もが、光に押し潰されるような姿勢で端末に向かっている。
音は少ない。
キーボードを叩く音もなければ、紙をめくる音もない。
響くのは、LUX端末が発する微細な同期音だけ――
低く、規則的に、まるで呼吸のように。
機械の呼吸に合わせて、室内の空気がわずかに揺れる。
光が呼吸している。
人間のほうが、それに合わせて黙り込む。
職員たちは白い机を囲み、無表情でデータを見つめている。
光に照らされた顔は、輪郭が曖昧だ。
瞳に反射するのは、LUXの青い制御光。
その瞳孔の奥に、もはや「個」の意志は見えない。
ひとりが画面に手を伸ばし、別の職員が短く頷く。
言葉は交わさない。
この部署では、必要な指示のすべてをLUXが代弁してくれる。
《安全。安定。異常なし。》
天井スピーカーが淡々と報告を繰り返す。
光が均一である限り、世界は正しい――
そう信じることが、この場所での“常識”だった。
誰もが、光の中に溶けていく。
表情も、呼吸も、体温さえも。
ただ、机の表面に置かれたひとつのコーヒーカップだけが、
わずかに“影”を持っていた。
その中で、ひとりだけ――光に馴染まない男がいた。
中溝隆。三十五歳。
黒髪は短く整えているが、無精髭の剃り跡が青く残る。
背筋は真っすぐだが、姿勢の奥にどこかしら疲労が滲んでいた。
白い照明に照らされた顔は、理知的というより、静かに摩耗している印象を与える。
警察官というより、実験室を出られなくなった研究者――そんな風情だった。
彼の机の前には、半透明のホログラフィック・ディスプレイが幾層にも浮かび、
空中に数字とグリッドを編み上げている。
中溝はそれらを、ほとんど瞬きもせずに見つめ、
報告データを淡々と整理していく。
指先が光のパネルを滑るたび、文字列が消え、また現れる。
動きに無駄がない。
そこには意志の力よりも、訓練された習慣の正確さだけがあった。
仕事をしているというより、光の流れに身体を預けているようでもあった。
淡々と処理を続けながら、中溝はふと息をつく。
視線を落とした先、デスクの端に置かれた冷めたコーヒー。
液面に、天井の照明が揺らめく。
その揺れが、どこか“呼吸”のように見える。
「事件が減るほど、息苦しくなる――皮肉なものだ。」
声に出したわけではない。
ただ、心の中でそう呟いた。
それは誰に向けた言葉でもなく、
この白すぎる空間に対する、反射的な抵抗のようなものだった。
彼の眼差しには、微かに疲労と諦観が滲んでいる。
LUXが創り上げた“完全な秩序”の中で、彼だけがわずかなノイズを抱えていた。
机上のコーヒーが光を反射し、その表面にLUXのマークが浮かび上がる。
そのマークが液面の揺らぎで歪むたび、
まるで誰かが、静かに微笑んでいるようにも見えた。
それは、ほとんど“呼吸”のように短い瞬間だった。
無音の室内。
LUXの監視波形が並ぶ巨大スクリーンが、一瞬だけ――脈を止めた。
白光の海の中で、誰もが気づかないほどの一拍。
だが、その一拍が、空気の密度を変えた。
どこかで、機械のファンが一段低い音を立てる。
部屋の奥で、若い女性技官が小さく息を呑んだ。
「……主任、グリッド西端が一瞬、落ちました。
0.3秒のスパイクです。」
中溝は、書類のデータをスクロールさせたまま答える。
声には抑揚がない。
「気象要因?」
「いいえ。自然波形とは一致しません。……人工信号の可能性が高いです。」
中溝の指先が止まる。
静かに、視線だけを上げた。
正面のモニターには、波形が一列に並んでいる。
その中のひとつが、不自然なリズムで跳ねていた。
不規則に見えて――どこかに“整った”律動がある。
偶然ではあり得ない、何かの“手”の跡。
光が一瞬だけ弱まり、部屋の白が微かに沈む。
誰も声を発しない。
音もないまま、波形だけが呼吸する。
部下「……誰かが、電流を“叩いた”ようです。」
その言葉に、中溝の瞳がわずかに揺れた。
まるで遠い記憶の断片が、光の底から浮かび上がったかのように。
ディスプレイの波形を見つめながら、
彼は心のどこかで――懐かしい“リズム”を感じていた。
それは十数年前、渋谷の屋上で仲間と笑い合った夜の、
あの無軌道な鼓動と、どこか似ていた。
中溝は、無言のまま指を動かした。
ホログラフィック・パネルの中央、乱れた波形が拡大される。
規則的なようで、どこか狂っている――。
けれど、その“狂い”には、意図のようなものが宿っていた。
電子の脈が、まるで誰かの鼓動を真似ているかのように。
見つめているうちに、視界が微かに霞んだ。
ディスプレイの白光が滲み、波形の線が揺らめいていく。
――その線が、別の記憶の中にあった。
十数年前。
高校の理科室。
ガラス管と電極、試験管に反射する放課後の光。
彼らは笑っていた。
実験の端末に触れ、電流の波をモニターに走らせながら、
まるで音楽でも作るように遊んでいた。
「電気だって、リズムがあるんだよ。生きてるんだ。」
――酒井翔吾の声。
ふざけながらも、どこか真剣な響きを持っていた。
その瞬間、現実の波形がふっと消える。
視界の焦点が戻り、静まり返った室内の音が耳に戻る。
LUXの光が再び均一に広がり、異常は跡形もなく消えていた。
「……解析ログを保存。」
中溝は淡々と告げた。
声にわずかな硬さがある。
「発信源は?」
「特定不能です。LUXの遮断層を……迂回しています。」
若い技官の声が震えた。
“迂回”――その単語が、この部屋の空気をわずかに冷やす。
LUXの遮断層を越えることは、理論上あり得ない。
それは、国家の“光”の防壁であり、
外部からの電流も、通信も、思想すら通さないはずの壁だった。
職員たちが一瞬、視線を交わす。
光だけが動かない部屋の中で、
人間だけが、わずかに影を宿していた。
中溝はもう一度、モニターに目を向ける。
波形は穏やかに戻っている。
だが、そのリズムのどこかに、まだ“酒井の笑い声”が残っている気がした。
異常は消えた。
波形は再び平坦になり、室内の光が均一に戻る。
誰もが、先ほどの乱れを“誤作動”として処理しようとしていた。
だが――中溝の視界の隅で、何かがまだ“呼吸”していた。
ディスプレイの端。
“異常検知”のランプが、規則正しく点滅を続けている。
それは機械的な間隔ではない。
まるで、心臓の鼓動のように――一定のリズムで光と闇を繰り返していた。
「……まるで、誰かが息をしているみたいだ。」
心の中でそう呟く。
声にはならなかった。
この部屋の中では、言葉よりも光の方が支配的だからだ。
中溝の瞳に、モニターの光が映り込む。
それは純白ではない。
わずかに青みを帯びた光――LUXの制御光。
都市のすべてを照らし、記録し、裁く“神の視線”の色だった。
彼は無言でカップを手に取る。
冷えきったコーヒーを口に含む。
味がしない。
光が強すぎるせいで、味覚までもが洗い流されてしまったように感じた。
視線をモニターに戻す。
点滅は、まだ続いている。
そのリズムが、かすかに――十数年前の笑い声と重なる気がした。
“電気だって、生きてるんだよ。”
酒井翔吾の声が、光の奥底で微かに脈打つ。
中溝は、呼吸をひとつ置いて、ただ見つめていた。
彼の瞳だけが、光の海の中で黒く沈んでいく。
――カメラがゆっくりと後退する。
白すぎる部屋の中央、
光に包まれながら、黒い点のように浮かぶ中溝の瞳。
まるで光そのものが、彼の存在を拒絶しているかのようだった。
電子音が一瞬だけ低下する。
その直後、画面が切り替わる。
LUXのサーバーログ画面。
無数のアクセス記録が流れる中、
ひとつだけ異質な行。
── BLACKOUT-TRACE.001
冷たい青の文字が、ゆっくりと点滅する。
まるで都市の“呼吸”が、そこから始まったかのように。
そして、光が静かに――途切れた。




