NASAゲーム
基本的に研修のグループワークの会話イメージなので、あまり動きがない話です。
主人公の記憶によるものなので、実際のNASAゲームとは一部表現が異なるアイテムもあります。
空を見上げれば、どこまでも広く、深い黒。何の物音も聞こえない。
見渡す範囲において自分一人しかいない孤独と絶望の中にあった。
人の脳とは不思議なものだ。
どうすればいいのかわからない状況になって、今まですっかり忘れていた記憶……自分がまだ若かったころ、当時勤めていた職場で受けた集合研修を記憶の底から掘り起こしてきたのだから。
その研修では、外部の講師を招へいして、近隣支社の30歳前後の若手~中堅職員を集めていた。
基本的には講義を聞きながら、要所要所でグループワークもあった。
メンバーは、僕を含めて、男性ばかり5人。
名前は……一人は思い出せるな。同じ事業所にいた井上くん。僕より4歳くらい若かった。
参加者に顔見知りは少なく、お互いに同じグループでホッとしたと笑い合ったっけ。
研修の内容はどれも面白かったが、最後に行ったグループワークの、コンセンサスゲーム……NASAゲームが特に興味深かった。
もし月面を航行する自分の宇宙船が、月面基地の200kmだか300kmだか手前で墜落したらどうやって生存するかという状況設定で、手元にある15個のアイテムの優先順位を決める。
まずは個人で考え、ついでグループワークで順位を決定する。
この際、意見が異なると多数決になりがちだが、このゲームはコンセンサス……グループメンバーの合意によって決定しないとならない。
15のアイテムは何だったか。
酸素、水、食料、注射器入りの救急セットと……コンパス、救命ボート、照明弾……に、月面の地図だったか?あぁ、あとはたしかナイロン製のテープと、45口径の拳銃、パラシュート。それとソーラー発電式のヒーター、同じくソーラー電池のFMラジオ受信機で……何個だ?13か。
えっと……そうだ、粉ミルク。で、14。あとひとつは何だっけ。
まぁ、きっと考えているうちに思い出せるだろう。
優先順位にはNASAが考えた模範解答がある。
自分が考える15のアイテム(うち一つはド忘れしたが)の優先順位を出し、グループワークでの優先順位を出し、NASAの模範解答と比較する。
講師は、自分の優先順位のほうがグループで出した優先順位よりNASAの回答に近ければ、もっと議論で発言したほうがよかったね……というようなことを言っていたな。
逆に自分のほうがNASAの回答から遠かったら、グループの意見をもっと聞く必要があったとか……いや、逆か。ちゃんとグループの意見を聞けたからこそ、グループの判断が良いものになっているのだろうから。
あのときの自分はどんな順位付けにしたか忘れてしまったけれど、グループではどんな順位になったんだったか。
研修のはじめのころはみんな静かだったけど、少しずつ意見交換するようになって……あぁ、だんだん思い出してきた。
「そうですね、とりあえず優先順位の一番高いものから決めていきましょう。皆さん1位は何にしました?私は酸素です」
穏やかながらも、しっかりとした口調で木村さんが言う。
この研修で初めて会った、他事業所の人だった。
「僕も酸素です。というか、正直みんな酸素じゃないですか?ないと、死ぬし」
と、言った澤田さんの容姿は忘れてしまったが、からかいを含みながらも若干強引な口調だった。人は声から忘れるというが、僕は声と話しかただけをいつまでも覚えている。
「コンセンサスを得なくてはなりませんから、全員に聞く必要はありますね。酸素以外のかたはいますか?……いないかな。皆さん酸素のようですね。じゃあ1位は酸素、と」
木村さんがレジュメにメモをする。
「あ、俺がメモしますよ。木村さんはそのまま議論を引っ張ってってください」
すかさず井上くんが木村さんに声をかけた。
そうだ。彼は人懐こくて、気の利く後輩だったな。
「ありがとう。でも、あんまりファシリは柄じゃないから皆さんに協力してもらって……。2位はどうしました?私は水です」
「自分、ちょっと思ったんですが、水って飲めるんですかね?宇宙服着てるでしょ?」
野口さんが言った。太くて、硬質な声だった。
「僕は飲めると思いますが……。月面に個人が不時着するくらいの技術力があるなら、宇宙服を脱がないと水分補給できないというのは……考えにくい気がして。僕も水を2位に据えました」
僕の言葉に、澤田さんと井上くんが、私も、俺もと続いた。
「そうかぁ、じゃあ食料も食べられるか。いや、ね。自分はできないと思って、食料と水を下位にしてしまって」
「あぁ~。じゃあきっとスコア高く出ちゃいますねぇ。これ、得点が高いほどNASAの想定解と離れて生存確率低くなっちゃうんですよね」
澤田さんが笑うと、野口さんは恥ずかしそうに笑った。
「じゃっ、2位は水でいいとして。3位どうします?僕は食料にしました」
澤田さんがメンバーを見回す。井上くんが首肯した。僕はちょっと迷ったところだった。
「自分はそもそも食料を下位にいれてしまったこともありますが、月面用星座表を地図みたいなものかと考え、これにしました」
「私も星座表です。目的を基地への到達と考えたとき、現在地を把握する必要があります」
「僕も……えっと、地図?ですね。食料も大切ですが、水に比べると若干猶予はあるように思いますし……」
「んー、なるほど。たしかに?井上さんも僕と同じで食料でしたよね。どう思います?」
いつの間にかファシリテーターが澤田さんに変わっていた。
井上くんはちょっと首を傾けて考えるそぶりを見せてから、納得したように頷いた。
「みんなの意見聞いたら、俺も地図でいいかなと思いました」
4位が携帯食、5位が救急セットはあまり議論しないで、すんなりと決まった。
「次は6位ですね~。僕はロープにしました。命綱にも止血帯にも使えるので。救急セット同様、ケガはこわいですからねぇ」
「自分は救命ボートです。荷物の運搬には必要ではないでしょうか」
「私はFMラジオですね。過酷な条件下では情報の重要度が高くなりますから」
「野口さんと同様の理由で、僕も救命ボートにしましたが……。木村さんが挙げていたFMラジオって、月面で使えるんでしょうか?」
「おっと、急に意見が割れましたねぇ。木村さんのFMラジオは、僕も使えそうなら必須と思ったんですが、ソーラー電池というのが難しいですよねぇ。太陽光の届かない場所に不時着してたら使えないかな〜と」
「私は月面でも問題なく太陽光が使えるという判断でしたが……。井上さんの意見も聞きたいですね。井上さんは何にしましたか?」
「俺はマッチですね。燃やせるの、強くないですか?」
あぁ、そうだ。僕が忘れていた15個目。マッチだ。
意見の食い違いで議論が白熱しかけたが、この井上くんの発言で若干時が止まったようになったんだ。
少し抜けている様子が井上くんらしくて、僕は少し笑ってしまった。
「たぶん、マッチは……使えないんじゃないかな。月面じゃ燃えないから」
「マジすか!……あ、そいや月って空気ないな?」
「折ったら爪楊枝代わりにはなるかもしれないけど」
「いらねぇ〜!」
楽しそうに笑いながら、井上くんはレジュメのマッチに大きな✕マークをつけていた。
「正直マッチは最下位争いですよね~。じゃっ、6位以降は停滞しそうだし、下から行きますか。15位はマッチで決定ですか?井上さんもバツをつけてましたし。コンパスと迷ったんですが」
「えっ、コンパスも使えないんですか?俺コンパス結構上位っした」
井上くんの疑問に、澤田さんが虚を突かれたような顔をした。
「自分もコンパスは中位くらいにしましたが……下位なんですか」
澤田さんの表情を見て、やや気まずそうに言う野口さん。
あくまで冷静に、穏やかな様子で木村さんが説明した。
「月の磁力は非常に弱いか、ほぼ無いので、コンパスは機能しないと思います。私は解体すれば使える部品があるかもしれないので、最下位をマッチ、14位をコンパスとしました」
「ですねぇ。皆さんもそれで良いです?」
僕も木村さんと同じ考えだったので、頷く。
井上くんと野口さんはお互いの顔を見て少し笑い、澤田さんはそれを了承と取ったらしかった。
「じゃっ、13位は拳銃で良いです?これも月面じゃ使えないでしょうし」
「そうなんすか、俺ドンパチすんのかなと思って8位にいれたっすけど」
「いや、拳銃は月面でも使えますよ。とはいえ、自分も優先順位は低いですが」
野口さんの発言に、僕は少し驚く。
「空気がなくても拳銃って使えるんですか?」
「火薬に酸化剤を含むので、外気の酸素がなくても燃焼します。真空でも機能しますよ」
「そうなんですか。私も拳銃は使えないと思って13位にしていましたが……。そうすると、野口さん。重力の低い月面では、射出の反動を推進力にして進むこともできそうですか?」
木村さんが少し考え込むように言った。
野口さんが、自分にはその発想はなかったと木村さんをほめていたことが印象に残っている。
結局13位はヒーターになった。12位はFMラジオだ。木村さんは情報の重要性を説いていたが、僕たちの知識では太陽を動力源にするこれらのアイテムが、月面で問題なく使えるのかわからなかった。拳銃は11位になった。
「10位は粉ミルクあたりでいいですか?食料は別にあるし」
「あの……僕は粉ミルクを8位にしました。栄養価が高いですし、物資が限られる中、食料の不足は精神によくない影響を与えると思うんです。極限の状況では精神の安定って大事だと思うので……お守り代わりにと思って」
僕がそう言って、結局粉ミルクはどういう順位になったんだったか。
澤田さんが笑いながらなにかを言っていた気がするが、思い出そうとしても、記憶のなかの彼らの表情は逆光のなかにあって見えない。
これ以降のやり取りはあまり覚えていないが、グループのスコアはそんなに悪くはなかったと思う。
「最後まで覚えていなかったとはいえ、40年も前のことだ。よくもまぁここまで思い出せたものだ」
そして、いま。
あれから宇宙開発技術は急速な発展を見せ、一定の訓練を行えば、個人でも宇宙に行けるようになった。
僕も何回か宇宙にひとりで旅行するうち、今回の事態。
つまり、銀河系のとある星で、基地から離れたところに墜落。
広大な宇宙に、ひとりぼっちの自分。僕から見える範囲においては。
あのときのNASAゲームを思い出したのも、必然なんだろう。
初めての不時着だった。
高齢になり、体力も昔ほどあるわけじゃない。
不安が呼び起こした記憶。絶対に使わないだろうと思っていた知識。
はるか遠くにある基地まで、無事に到達するための道筋を考える。
ただ順位付けをすればよかったゲームとは違い、優先順位が低い物品はここに置いていかなければならない。
くじけそうになる心を、独り言で紛らわせながら物品の選抜を行っていく。
「酸素は当然最優先だ。不足したらどうにもならない。過剰でも、できるだけ持っていく」
「水は重いが……やや多めに持ったほうがいいだろうな」
「星座表は……タブレット端末に入っているが、軽いから紙媒体も持っていこう」
「食料も必要だが……なるべく携帯食の中でもよりカロリーが高いものを選別しよう」
そうして物品を選ぶ中で、粉ミルクで手が止まった。
「粉ミルクは……僕はあのときお守りと思って優先順位を高くしたけど、こんなにかさばるものは持っていけないかな……」
ふと倉庫の隅に眠っていた、小さな箱が目について、手を伸ばす。未開封のマッチ箱だった。
「いまはわざわざマッチを使う人なんて居ないだろうに、こんなものも宇宙船に積んであったのか」
掌にのるサイズのそれをしげしげと眺めて、船外に出る。
箱を開けて、マッチ棒を1本擦った。点かない。
マッチ棒の先を真っ暗な空に向ける。
「これがちゃんと点く場所まで行かないとなぁ。井上くん。40年ぶりに、君の意見に同意するよ。僕の優先順位6位も、マッチだ」
まぶたの裏に、マッチの炎の揺らぎを思い出す。
そのやわらかな光が灯台となって果てなく暗い宇宙への恐怖が和らぎ、無音は静けさとなって、荒れた心に凪をもたらす。
僕は大丈夫だ、と思った。
友人からこの研修の話を聞き、(実際のところ、非常事態でも自分が研修で決めた優先順位のとおりに考えられるのだろうか?)という疑問から。
私は心の拠り所をなにかに求める気がしました。




