示現流と虎と、お風呂の悲劇
その日、僕は一人、剣を握っていた。
示現流――それがガイルからもらった剣術書に記されていた流派の名だった。
表紙の裏には、太く力強い筆でこう記されていた。
「一撃必勝。一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」
「二の太刀いらず」――つまり、最初の一撃で全てを決める剣。
その心得と共に、「立木打ち」という修練法が載っていた。
土に埋めた丸太を相手に見立て、左右から斬り込む。
間合い、手の内、腰の据わり、俊敏な動き。すべてを一度に鍛える、超実戦型の修行だ。
僕は見よう見まねで立木を作り、剣を振るった。
その瞬間――刀から何かが流れ込んできた。
(っ!? ……これは、記憶……いや、経験?)
頭じゃなくて、体に直接染み込んでくるような感覚。まるで自分が熟練の剣士になったかのような錯覚。
「これ……もしかして、前の持ち主の経験?」
手の中の刀が、妙にしっくりくる。
試しに埋め木へ刀を振り下ろすと――
ズバンッ!
木が真っ二つに裂け、刀の切っ先が地面に突き刺さった。
「す、すご……っ! でも、手ぇ痛っ!」
力が入りすぎて、手の皮が剥けそうになっていた。
僕の体じゃ、この技術についていけない。だったら――鍛えるしかない。
「よっし、筋トレ開始だ!」
そうして僕は、まゆにゃんと一緒に最初に飛ばされたあの草原へと戻った。
人目を気にせず鍛錬できる、静かな場所だ。
木を切り、丸太や石を使って自作のトレーニング器具を作る。
まだ体はボロボロだけど、心は妙に前向きだった。
……そのときだった。
ガサッ……
視線を感じて顔を上げると、そこには――虎。
いや、虎にしてはデカすぎる。熊かと思うほどの巨体に、牙が唇から突き出ている。
(っやばい……ッ!!)
目を逸らさず、ゆっくり後退する。けど、相手は一気に距離を詰めてきた。
――咆哮と共に、突進。
本能的に体が動いた。
さっき流れ込んだ“経験”が、僕の手足を勝手に動かす。
ギリギリで一撃を回避――でも、このままじゃジリ貧だ。
(……そうだ、指南書の言葉……)
「示現流とは、最初の一撃で相手を沈める剣である」
「斬ることに迷うな。考えるな。ただ斬れ」
目の前の虎に、僕は剣を振り下ろした。
ズバッ!
斜めに切り下ろした一撃が、虎の左肩から前足を切断する。
虎は倒れた。でも、まだ息がある。
苦しげな呼吸。痛そうな眼差し。僕は小さく呟いた。
「……ごめんな」
そう言って、トドメを刺した。
その後、虎の亡骸を街まで運ぶため、マヒャトさんに馬車を借りた。
「この虎を……一人で仕留めたのかい?」
「はい。刀に宿っていた前の使い手の“経験”が、体を動かしてくれたんです」
「なるほどね。じゃあ、その剣は間違いなく君のものだよ。持つべくして持ったんだろうね」
「それと、この虎……もしよければ、買い取ってもらえませんか?」
「もちろん、相場で買い取るよ。……200,000Gってとこかな」
(……日本円と価値変わらないこの世界で、20万円……!)
「ありがとうございます……」
ヘトヘトの体を引きずり、帰宅。
だけど全身返り血まみれで、まずは風呂に入りたかった。
(……まゆにゃん、まだ帰ってないみたいだな)
そう思いながら風呂場の戸を開けると――
「きゃあああああああああああっ!!」
そこには、湯上がりで体を拭いていたまゆにゃんが立っていた。
濡れ髪、火照った頬、バスタオル姿――
(ヤバッ……見とれてしまった……!)
「ご、ごめんなさいいいいいいい!!」
慌てて戸を閉めて飛び出す僕。
少しして、バタバタと足音がして、まゆにゃんが出てきた。
頬を膨らませながら、顔を赤らめて言った。
「……さっきのことは、忘れて!」
「ご、ごめん……」
「……えっち」
「っっっ」
でもその後、彼女は僕の返り血に気づいて真顔になる。
「えっ……この血、どうしたの!?」
「あ、あぁ……草原で虎に襲われて……」
「虎!? ちゃんと説明して!その前に、お風呂入ってきて!!」
ひとまず風呂で返り血を洗い落としてから、全てを話した。
すると、まゆにゃんは少し呆れたように、でも優しく笑って言った。
「……もう。無理しすぎないでよ。焦ってもしょうがないよ。なるようになるって!」
「でも……まゆにゃんが、またステージに立つ姿、見たいんだ。だから焦らず、でも全力で帰る方法を探すよ」
「……ふふっ、ありがとう…そだね。じゃあ、今日の晩ごはんは、私が作ってあげる!」
そう言ってまゆは、得意げに腕まくりした。
その夜、僕たちは夕食を囲みながら、互いのことを語り合った。
エリザさんが優しいとか、貴族が来たとか、まゆはすっかり街に馴染んでるみたいだった。
僕は示現流の修行のこと、虎との戦いのこと、これからの旅のことを話した。
「帰ろうね、元の世界に。絶対」
「……うん。信じてるよ」
その日から、僕たちはそれぞれの役割を決めて動き始めた。
まゆは商会を通じて人脈を広げ帰還の道を探す、僕は未開の地で帰還の手がかりを探す。
そして、呼び方も少し変わっていった。
僕は彼女を「まゆ」と呼ぶようになり、彼女は僕のことを「元くん」と呼んでくれた。
高嶺の花だったアイドルとの距離が、少しずつ、でも確実に近づいていく――
そんなある日、マヒャトさんから呼び出しの手紙が届いた。
(……なんだろ、急用かな?)
また、新たな物語が動き出そうとしていた。