馬車と波と、彼女の唇
やらしくなってきました!
「この間は……急にいなくなってごめんね」
そう言って微笑んだのは、エリザさんだった。
昨日の件を詫びる意味も込めて、今日はみんなで海へ行こうという話になった。僕とまゆ、そしてエリザさんとシルヴァの四人――馬車に揺られながら、海へと向かう。
けれど――その道中の馬車の中は、正直、地獄だった。
エリザさんとまゆは、パドゥを身にまとっていた。露出が多く、風が吹けば素肌がちらりと見えるような――いかにも、リゾート地で着るものだ。
馬車の座席は向かい合わせで、僕の正面にはエリザさんとシルヴァが並んでいた。
そして、そのエリザさんが……まるで僕たちの存在など忘れたかのように、シルヴァの腕を自分の肩にまわさせたのだ。
「……ねぇ、シルヴァ。もうちょっと……触って」
そう囁いたかと思うと、エリザさんはシルヴァの右手を自分の胸元へと導いた。
薄い布越しではない――素肌に、直接。
「あ……っ、ん……」
指がわずかに動くだけで、彼女は吐息を漏らす。
生々しい音と、甘く濡れた声。
僕は思わず視線を逸らしかけたが、反対に固まってしまって、動けなかった。
「うわ……すごいな、これ……」
思わず呟いた僕に、隣のまゆがぼそっと答えた。
「……ね。こっちの世界って、性に関しては……かなり寛容みたいだよ」
まゆも顔を赤らめていて、視線が泳いでいる。
こんな状況で冷静でいられる方がおかしい……そう思っていた矢先。
「なぁ、お前ら――まだ付き合ってないのか?」
突然、シルヴァが口を開いた。
「……え?」
「いや、だってさ、どう見ても、まゆちゃんの方、お前に惚れてるだろ?」
「つ、付き合ってないよ!!」
即答した僕に、シルヴァは目を丸くした。驚きのあまり、反射的に手に力が入ったのだろう――
「あんっ……♡」
エリザさんが甘い声を上げる。
僕はというと、言葉を失ってまゆの方を見た。
彼女は、顔を真っ赤に染めて、膝の上で拳を握りしめていた。目を逸らし、ただ黙っていた。
(……まさか、本当に……?)
僕は思わず視線を外し、馬車の窓の外を眺めた。
流れていく異世界の風景が、妙に遠く感じた。
そして、そのまま馬車はビーチに到着した。
⸻
浜辺に出ると、まゆとエリザさんが腰の布――パレオのようなものを外し、完全な水着姿へと変わった。
まゆの黒い水着は、彼女の大人びた雰囲気と絶妙にマッチしていて、言葉を失うほど似合っていた。
エリザさんは白の水着で、まるで神殿の女神のような迫力があった。ビーチ中の男たちが彼女たちに視線を奪われるのも当然だ。
エリザさんはシルヴァの腕にしっかりとしがみついているので、ナンパされる心配はなさそうだった。
けれど、まゆには、明らかに興味を示す男たちの視線が集まっていた。
僕は内心、焦っていた。
気がつけば、まゆの手を握って、そのまま歩き出していた。
「……あ」
まゆが小さく声を上げたが、拒む様子はなかった。
むしろ、手を握り返してきたような気さえする。
そのあとは、波打ち際で水遊びをしたり、砂の城を作ったりと、まるで子どものような時間を過ごした。
この世界に来てから、こんなに穏やかな時間は久しぶりだった。
⸻
夕暮れ、僕たちはレンタルしたヨットに乗った。
操舵席は階段を上がった上部にあり、僕はその下のソファに腰を下ろして、赤く染まりつつある水平線を眺めていた。
しばらくして、まゆがシャンパングラスを片手に、僕の隣にそっと腰を下ろしてきた。
「ねぇ、元くん」
「うん?」
「なんだかんだ、私たち……この世界に馴染んできちゃったね」
「もう、三ヶ月経つしね。しょうがないよ」
「でも、悪くないよ。こっちの生活も。アイドルの頃みたいにキラキラしてないけど、それでも……ちゃんと、充実してる」
「……まゆ、本当にそう思ってるの?」
「本当だよ」
彼女の目は、夕陽を反射して、どこか切なげだった。
「元くんは……どうなの?」
「僕は……正直、戻りたくない。戻ってもブラック企業で働くだけだし、左目も……なくなっちゃったし、ね」
「……そっか」
まゆは、しばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「でもね、私は、元の世界に帰る方法……まだ諦めてないよ」
「うん。まゆは帰らなきゃいけない。でも、僕がその手段を見つけるから」
「……でも、元くんは残るんでしょ?」
「……そうなるかな」
「――なら、言ってほしかったな。『そばにいろ』って」
「……え?」
その言葉に戸惑う僕に、まゆは何も言わず、ゆっくりと顔を近づけてきた。
そして、彼女の柔らかな唇が、僕の唇に触れた。
ふわりと香る風。
遠くから聞こえる波の音。
夕陽に照らされた二人の影が、甲板に優しく揺れていた。
(……夢みたいだ)
そう思った。
キスが終わり、顔を離すと、まゆは微笑んで僕を見つめていた。
「このキスは……本当のキス?」
僕が問うと、まゆは静かに頷いた。
「うん。馬車でシルヴァくんが言ったこと、正解だった。私……ずっと元くんが好きだったよ」
「でも……どうして。まゆはすごく可愛くて、人気者で……僕は何の取り柄もない、ただの一般人だったのに」
「そう思ってるの、元くんだけだよ。私は――剣も使えないのに私を守ろうとしてくれた元くんを、何度も見てきた。
そんなの、好きにならないわけないじゃない」
「……ありがとう」
「私ね、もし元くんがそばにいてくれるなら、この世界にいてもいいって……最近思ってるの」
「まゆ……」
「元くんが、そばにいてくれるだけで、私は幸せだよ」
胸が締めつけられるようだった。
嬉しくて、切なくて、でも――何よりも、まゆが愛しくて。
「……僕も、まゆと一緒にいたい。恋人として。……でも、元の世界に帰る方法も、ちゃんと探す。欲張りかもしれないけど、僕は……どっちも諦めたくない」
「うん、いいよ。私も、ずっとそばにいる。恋人として」
「……夢みたいだな。憧れのアイドルと、異世界で付き合うなんて」
「夢じゃないよ。キスして、確かめてみる?」
「……うん」
何度も、僕たちは唇を重ねた。
夕焼けの中、波音が静かに響く――
それは、僕が異世界で見つけた、本物の幸福の音だった。