橋の下の怜
梅雨明けからはじめての降雨の日は、陰気でひどく気怠い、憂鬱な気分がする。
からりと晴れた昨日からは一転して、今は傘を差しても耳朶に雨水がかかるくらいには激しい、横殴りの雨が降っている。
「こんなんでも注意報だぜ」
「休校になれよなー」
友人と共に愚痴をこぼしていた俺は、ちょうど地元では有名な大きな川の上を渡っていた。
「川やべー」
「もう休校にしようぜ」
「でも俺んち、獣臭いからなぁ」
「雨の日とかは特にな」
「なー」
何気なく川を覗き込み、そんなことを話していた矢先、俺は橋の下に、水浸しの女が佇んでいることに気が付いた。
見たところ自分達と同じ高校の制服だが、ひどくぼろぼろで、泥の汚れ、血の跡のようなものさえ点々と着いているらしい。長い黒髪をすっかり水に濡らしており、顔を見ることもできないが、その異質な佇まいは、何か恐ろしいものに映った。
俺は指を指して、友人に彼女のことを知らせる。曇った眼鏡を持ち上げて、目を細めた友人が彼女を認めると、彼は一言「やば・・・」と呟いた。
顔面蒼白で俺の顔を見る友人が、腕を強引に引っ張ってくる。抵抗しようと引っ張り返すと、友人は血相を変えて怒鳴った。
「橋の下の霊だよ!!聞いたことあるだろっ!」
友人がそう叫ぶと、橋の下の霊がしっとりと濡れた顔を持ち上げて、こちらを睨みつけていた。その目は完全に充血しており、全く正気とは思えない。友人は震え上がり、俺から手を離して学校の方へと逃げ出してしまった。
俺は睨みつけられて身動きが取れなかった。
橋の下の霊。最近学校で噂になっている恐ろしい女の霊である。
黒髪、セーラー服姿で、雨の日に、傘も差さずに橋の下に現れる。恨めし気に橋の上を見上げて、「助けて・・・」とか、「死ぬ・・・」とか、橋の上を睨みつけながら呟くのだという。
彼女に声を掛けられたという学生は呪われて、『死ぬ』ことはないのだが、原因不明の高熱が出て寝込んだり、しばらく休学したりするらしい。学生によくある噂話の類で、正直俺は信じてもいなかったのだが、今まさに睨み上げてくる女の姿を前にして、それをひどく悔んだのだった。
やばい。呪われる。本能がそう訴えてくる。俺は傘を放り投げてその場から逃げ出そうとした。女が真っ赤に充血した目で睨み上げて、水分を含んで浮腫んだ唇を開いた。
「たすけて」
終わった。俺の体が硬直する。雨を溜め込んだ傘が、橋の歩道を転がっていく。俺はその場に立ち止まって、恐る恐る橋の下を見おろした。
雨水をふんだんに吸い込んだ、長い黒髪の隙間から、充血した目が睨み上げている。唇は白く浮腫み、わずかに震えていた。俺は「呪われてしまった」。
しかし、その瞬間、俺は何を考えたのか不思議な勇気が湧きだしたのである。怨霊退治とか格好良くね?とかいう妙な蛮勇も湧き出した。熱の時に見る夢のような、殆ど正気を失ったような蛮勇である。
その蛮勇に任せて、俺は橋の下へ降っていく。女の近くに歩み寄ると、その女は僅かに口角を持ち上げていた。
「あの・・・」
女は俺にそう声を掛け、橋の下を指差す。橋の下には、小さな段ボールがあり、水分を吸ってひしゃげていた。
俺は恐る恐る橋の下をくぐり、段ボールの中を覗き込む。
「あっ・・・」
橋の下には、体温を失った仔犬がいる。金色の毛並みでひどく痩せてはいるが体格は大柄である。恐らく大型犬の子だろうと分かった。俺は女の顔を覗き込む。女は目を真っ赤に充血させながら、上目遣いで俺を見つめてきた。
「この子を助けてください・・・」
「あの、え?」
素っ頓狂な声を上げると、女はぐっしょりと濡れた髪を真っすぐに地面に垂らして悲痛な声を上げた。
「この子を飼って下さい!!!」
えぇ・・・。
「えぇ・・・」
とりあえず、俺は上着を脱いで仔犬を包んでみる。体温はひどく低くなっていたが、まだわずかに息はあるようだ。
俺が橋の下に座ると、女も追従してその隣に屈み込んだ。
その時にはじめて気づいたのだが、彼女にはしっかり人肌の体温がある。少し雨で体が冷えていたのだが、別に霊というわけではないようすだった。
「この子、ずっと家の駐車場で捨てられていて・・・。近所のおばさんが箒で追い払ってて・・・。あ、私の家、賃貸だから飼ってあげられなくて・・・。それで・・・ここに移したんだけど、ミルクだけじゃ弱ってきちゃって・・・どうしようって・・・」
彼女は鞄の中から犬用のミルクを取り出すと、それを仔犬の口元に運ぼうとした。俺はそれを静止し、犬を抱き上げた後、鞄の中から水筒を取り出して蓋を開けた。蓋を彼女に差し出すと、彼女も察してその中にミルクを注ぐ。
「いつから?」
「先週くらいから・・・」
彼女の浮腫んだ唇が開く。子犬はようやく落ち着き始めたのか、水筒から少しずつミルクを飲み始めた。
「前は公園に避難させたんですけど、カラスが襲ってきてて、怪我もしちゃって・・・。最後にここに連れてきたんですけど、水はけが悪くて・・・」
そういって、彼女は再びひしゃげた段ボールを指差す。大人しそうな彼女の声は、今にも泣きだしそうに震えている。俺は子犬の足を覗き込み、右前肢にひどい傷があるのを確認した。
迷った末、鞄の中から取り敢えずハンカチを取り出して固まった血を拭き取ってやる。子犬は驚いて跳ね上がり、痛みに声を上げた。俺は傷口を一目見て、実家のことを思い出した。
「名前は?」
「え・・・飼ってないから」
「君の名前!」
「あ、怜です・・・」
「えぇ・・・?」
俺は妙に合点がいってしまい、子犬を丁寧に抱き上げながら彼女の黒髪をかき分けた。充血した目は路頭に迷った仔犬のような、困り果てた大きな目で、浮腫んだ唇は雨を吸ってしまって冷えただけの唇であった。髪の毛も雨露でてかてかと光っており特段怨霊らしいということはない。俺は一度呼吸を整えて、困惑した様子の彼女に声を掛けた。
「あの・・・髪、切ったら?」
「・・・へ?」
俺は照れ隠しに犬を抱きかかえる。彼女に携帯取ってと声を掛けると、慌てて自分の鞄の中から携帯を取り出した。俺は可愛らしい色の携帯で実家の電話番号を打ち込む。愛想のいい母の声を聞いた後、「今ちょっと行ってもいいか?」と開口一番に告げた。その声を聞いて母親声のトーンは目に見えて低くなったが、俺は構わずに「ちょっと急患なんだけど」と告げる。すぐに仕事のモードに戻ったらしい母に、子犬の病状をつらつらと伝えて、電話を切った。
俺は携帯を彼女に返し、きょとんとした様子の彼女に伝える。
「ちょっと母さん迎えに来るから、しばらく待ってようか」
「え?はい・・・」
困惑気味の彼女に少し活発になった仔犬を返す。俺は濡れた腕を払い落とし、横目で様子をうかがった。
怜は仔犬を慈しみ深い眼差しで抱き、優しく声を掛けている。子犬は高い声で甘えて、彼女の鎖骨に鼻を擦り付けていた。
暫くして、橋の上に自動車が停まる。傘から水を振り落とす激しい音がしたかと思うと、母さんが橋の袂から無遠慮に声を張り上げた。
「傘壊れんだろうが!!」
「うるせえ!ほら、この子!電話の!」
「1000円弁償しなさいよね!」
そう叫びながら、母さんが橋の下へと駆け下りてくる。
「まだ差せんだろうが!」
俺をひと睨みしたかと思うと、怜によそ行きの声で語り掛けつつ、仔犬を優しく抱き上げる。傷の具合を確かめると、母さんは仔犬をあやすように語り掛けた。
「痛いねー、すぐに良くしてあげるからねー」
そう言って、傘を差し、車へと戻っていく。そうかと思うと、階段の半ばで振り返り、
「治療代はあんた持ちだかんね」
と険しい表情で俺に言ってきた。
「はぁ!?なんで!?」
「当たり前だろうがあんたの依頼なんだから」
「ほら、財布もって来い」
「低評価爆撃してやる!」
「うちは常連さんしか来ないから良いでーす」
余裕綽々といいながら、俺に傘を差しだす。俺は渋々それを受け取り、仔犬をあやす母さんに付き添って、車までついて行った。
最後に、母さんは怜を車内に連れていくと、よそ行きの声で彼女を褒めそやす。自宅へ戻るまでの間、母さんの止まらない雑談が恥ずかしくて、ひどく体が火照ったのだった。
結局、仔犬はうちで預かることになり、我が家はさらに獣臭くなった。そして、しっかり雨で体を冷やされた俺は、翌日から風邪で寝込んだのだった。