境界線のメロディ
輝く画面の中に、彼女はいた。完璧な曲線を描く長い黒髪と、澄み切った青い瞳。天野美月——翔太が毎日欠かさずログインする理由だった。
「今日も頑張ろうね、プロデューサーさん!」
美月の声は、翔太の小さなワンルームに心地よく響いた。彼はスマホを握り締め、いつものように返事をする。
「ああ、もちろんだよ、美月」
誰も聞いていないことを知りながら、それでも声に出して答えてしまう習慣があった。
俺の名前は佐藤翔太。28歳、IT企業の中堅プログラマー。
特筆すべき趣味も特技もない。強いて言えば、『アイドルクリエイション〜星の煌めき〜』というスマホゲームを3年間欠かさずプレイしていることくらいか。
両親は地方暮らし。友人と呼べる存在も数えるほど。恋人なんて、大学時代の失恋以来ご無沙汰だ。
そんな俺が唯一心血を注いでいるのが、このゲームの中の彼女——天野美月だ。
彼女のためなら課金も惜しまない。イベントの徹夜も苦にならない。美月のランキングは常にトップ10入りが俺のプライドだった。
社会人として真っ当に生きていると言えば聞こえはいいが、実際は現実から少しずつ逃げ出していた気がする。
スマホの中の彼女は、俺を決して裏切らない。期待通りに応えてくれる。理想のままに成長してくれる。
今夜もいつものように、日付変更を待ちながらソファに横たわっていた。深夜0時——新しいイベントの開始時刻だ。
「さて、今回は何のイベントかな」
スマホを手に取り、アプリを起動する。ロゴが表示され、読み込みバーが進んでいく。
その時だった。
画面が突然、異様な青白い光で満ちた。まるで液晶から光が溢れ出しているかのように。
「なっ...!?」
驚いて手を離そうとしたが、指が画面から離れない。いや、画面に吸い込まれていく感覚——。
意識が遠のいていく中、美月の声だけが妙に鮮明に聞こえた。
「やっと会えますね、プロデューサーさん。」
*
目を開けた時、翔太は見知らぬ部屋にいた。
白い壁。シンプルな家具。窓から差し込む朝日。まるでモデルルームのような無機質な空間だった。
「ここは...?」
頭がぼんやりとする。昨夜のことを思い出そうとするが、記憶が曖昧だった。
「あぁ、目が覚めましたか?」
優しい女性の声に振り向くと——そこには彼女がいた。
画面の中でしか見たことのなかった少女。
天野美月。
「み、美月...?」
言葉が出ない。彼女はリアルだった。アニメーションでも3Dモデルでもない。肌の質感、髪の揺れ、瞳の輝き——すべてが生きた人間そのものだった。
「はい、プロデューサーさん。お待ちしていました」
彼女は微笑んだ。ゲームの中の笑顔と同じ、けれど何倍も生き生きとした表情だった。
「どういうことだ...俺は...ここは...」
パニックになる翔太に、美月は静かに説明を始めた。
「ここは『アイドルクリエイション』の世界です。プロデューサーさんは特別な招待を受けたんです」
「特別な招待?」
「はい。私たちアイドルを本当の意味で理解し、育てるための特別なプログラム」
彼女の話によれば、ゲームの世界に招かれるのは極めて稀な現象らしい。そして翔太は「真のプロデューサー」としての資質を見込まれたのだという。
「戻り方は?」
それが最も知りたいことだった。しかし美月の答えは意外なものだった。
「それは...プロデューサーさんの心次第です」
美月の言葉は謎めいていた。
「私を本当の意味で理解し、真実の愛を持って接することができたとき。その時、道は開かれます」
翔太は混乱していた。
ゲームの中の存在が現実味を帯びて目の前にいる。そして「真実の愛」なんて、あまりにも抽象的な帰還条件。
まるで童話のような展開に、思わず苦笑する。
「冗談だろ...」
「冗談ではありません」
美月は真剣な表情で言った。そして部屋の窓を開け、外を指差す。「ほら、見てください」
窓の外には、ゲームの世界そのものが広がっていた。
キラキラと光る巨大な都市。どこまでも続く青空。そして遠くには、ゲーム内の象徴的な建物「スターライトタワー」がそびえ立っていた。
現実とは明らかに違う、夢のような景色。
「信じられない...」
翔太の呟きに、美月は優しく微笑んだ。
「私もあなたのことをもっと知りたいです。画面越しでは分からなかったプロデューサーさんのこと。」
美月の澄んだ瞳を見つめていると、不思議と心が落ち着いてきた。混乱は残っていたが、この状況を受け入れる覚悟が少しずつ生まれていた。
「まず、私からの質問です。プロデューサーさんのお名前は?ずっと知りたかったんです」
ゲーム内では「プロデューサー」という肩書きだけで、実名を入力する欄はなかった。
「佐藤翔太...だよ」
「翔太さん...」美月は名前を噛みしめるように繰り返した。「素敵なお名前ですね」
彼女が自分の名前を呼ぶ感覚は、奇妙なほど心地よかった。
「さあ、これからどうするかは翔太さん次第です。私をプロデュースしながら、出口を見つけましょう」
美月は翔太の手を取った。その感触は温かく、確かな重みがあった。この世界が夢でないことを実感させる温もり。
「やるしかないよね...」
窓の外に広がる幻想的な都市を見つめながら、翔太は小さく頷いた。
こうして、ゲームの世界での奇妙な共同生活が始まった。
美月の部屋は、ゲーム内の設定通り「スターシティ」の中心部にある高級マンションの一室だった。
翔太用の客間も用意されており、すべてが最初から計画されていたかのようだった。
「今日からのスケジュールですが」
美月はタブレットを手に取り、画面に表示される予定表を見せた。ゲーム内のシステムそのままに「レッスン」「撮影」「特訓」などの項目が並んでいる。
「まるでゲームの中と同じだな...」
「そうですよ。ここは『アイドルクリエイション』の世界なんですから」
美月の言葉に、翔太は改めて状況の不思議さを実感した。
彼女は続ける。「ただし、ゲームとは違うところもあります。私の成長はあなたのタップや選択だけでは決まりません」
「どういう意味?」
「ここでは、翔太さんの本当の気持ちや行動が、私の成長に直結するんです」
美月はそう言って、胸元に手を当てた。「あなたの心と私の心が、直接繋がっているんです。」
その言葉に、翔太は言いようのない責任感を覚えた。
ゲームの中なら、間違えても「リトライ」ができた。でもここでは?
「大丈夫です」不安そうな翔太の表情を見て、美月は優しく微笑んだ。
「翔太さんなら、きっと素敵なプロデュースをしてくれると信じています」
その信頼の言葉が、翔太の心に温かく響いた。
「頑張るよ...美月」
彼女の名前を呼ぶのは、まだ照れくさかった。画面越しに何度も呼びかけてきたのに、目の前の彼女に直接言うのは別の感覚だった。
「まずは、レッスンスタジオに行きましょうか」
美月に導かれて外に出ると、眩しいほどの色彩が翔太を迎えた。
「わぁ...」
思わず声が漏れる。ゲーム内で見ていた風景が、鮮やかな立体として目の前に広がっていた。
建物はきらめくガラスで覆われ、道行く人々はみな洗練されたファッションに身を包んでいる。
「ここがスターシティ...」
「はい。私たちアイドルの活動拠点です」
そのとき、通りかかった数人の少女たちが美月に気づき、駆け寄ってきた。
「美月ちゃん、おはよう!」
「今日もレッスン?」
彼女たちもまた、ゲーム内のアイドルたちだった。それぞれが個性的な髪型や服装をまとい、画面で見るよりもずっと生き生きとしていた。
「皆さん、おはよう!」美月は笑顔で応え、翔太を紹介する。「こちらが私の新しいプロデューサー、翔太さんです」
少女たちは好奇心いっぱいの目で翔太を見つめた。
「わぁ、リアルプロデューサーだ!」
「うちのプロデューサーさんも来ないかなぁ」
彼女たちの反応に、この状況が翔太だけの特別な体験であることを再認識した。
美月の説明によれば、彼女たち「アイドル」は普段はAIのような存在としてゲームを運営しているという。プレイヤーの操作に反応し、設定された範囲で行動する。
しかし、時に特別なプレイヤーが「真のプロデューサー」として招待される。それが翔太のような存在だった。
「では、レッスンを始めましょう」
スタジオに到着すると、美月は早速準備を始めた。翔太はふと、ゲーム内での「レッスン」がどのように行われているのか疑問に思った。
「美月、僕がいない時は、どうやってレッスンしてるの?」
美月は練習着に着替えながら答えた。「私たちには『記憶』があります。プロデューサーさんがタップした『レッスン』という選択肢を、実際のトレーニングとして行うんです。」
「じゃあ、僕が画面をタップする度に、君は実際にダンスや歌の練習をしていたの?」
「はい、そういうことです」
翔太はゲーム内で何度も「レッスン」ボタンを押してきたことを思い出し、複雑な気持ちになった。
それは単なるゲームではなく、美月の実際の努力だったのか。
「今日は、私のレッスンを直接見ていてください。そして、翔太さんの素直な感想を聞かせてください」
美月はそう言って、ダンスの準備を始めた。彼女の真剣な表情に、翔太は思わず見入ってしまった。
*
音楽が流れ始めると、美月の身体は別の生き物に変わったかのようだった。
翔太は息を呑んだ。画面越しで何度も見てきたダンスだったが、目の前で繰り広げられる美月の舞は、まるで時間が止まるような美しさだった。
「すごい...」
一糸乱れぬ動き。感情をたたえた表情。声量だけでなく、心に届く歌声。
翔太は思わず見入ってしまう。こんなにも真摯に何かに向き合う美月の姿に、自分はどれだけ本気で向き合ってきたのだろうかと考えさせられた。
「どうでしたか?」
レッスン終了後、汗を拭きながら美月が尋ねる。少し不安げな表情に、翔太は素直な感想を伝えた。
「最高だったよ。でも、もっと素の美月が見たいな」
「え?」
「完璧すぎるんだ。ゲームの中の美月のまま。もっと...君自身を見せてほしい。」
美月は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「そんな風に言われたの、初めてです」
翔太の言葉が、何かのきっかけになったようだった。
日々を重ねるごとに、二人の関係は深まっていった。美月はプロのアイドルとしての一面だけでなく、時に不安を見せ、悩み、時には泣くこともあった。
そして翔太もまた、現実世界では誰にも見せなかった本当の自分を、少しずつ美月に見せるようになっていた。
ある日、美月は突然、翔太に尋ねた。
「翔太さん、私はあなたにとって何ですか?」
シンプルな問いに、翔太は言葉に詰まった。
推しメン?アイドル?育成対象?それとも——
「答えられません?」美月の瞳が揺れる。「それなら、まだ出口は見つかりませんね。」
そう言って美月は窓の外を指差した。遠くに見えるスターライトタワーの最上階に、不思議な光の渦が現れていた。
「あれが...出口?」
「はい。でも、光の渦が完成したわけではありません」
美月の表情が曇る。「翔太さんの本当の気持ちが、あの光を完成させるんです」
「美月…君は…」
答えを模索する翔太の心に、ある記憶が蘇った。ゲームをプレイしていた3年間、自分は美月を「逃げ場」としてきたのではないか。現実から目を背けるための、都合のいい存在として。
「私が知りたいのは、翔太さんの本当の気持ちです」
美月の真っ直ぐな瞳に映る自分。もはや逃げられない。
「君は…僕にとって、ただのゲームキャラじゃない。でも、友達でもない」
言葉を探しながら、翔太は続けた。
「君は僕に、忘れていた『本気』を思い出させてくれた人だ。現実でも、何かに全力で向き合える勇気をくれた。」
美月の目に涙が浮かんだ。
「そして…」翔太は自分の胸に手を当てた。「いつの間にか、君のことを愛していた」
その瞬間、スターライトタワーの光が爆発的に輝きだした。
「翔太さん!出口が開きました!」
二人は急いでタワーへ向かった。エレベーターで最上階に着くと、そこには現実世界へ繋がる光の門が待っていた。
しかし、美月の表情には迷いがあった。
「私、わかっちゃいました…」彼女は静かに言った。「翔太さんがこの世界を去れば、私はまた元の『プログラム』に戻るんです。」
その言葉に、翔太は動揺した。
「じゃあ、君との思い出も…消えるの?」
「いいえ、記憶は残ります。でも…」美月は悲しげに微笑んだ。「感情は、また設定された範囲内のものに戻るでしょう」
二人は沈黙した。
「美月、一つ聞きたい」翔太は静かに尋ねた。「君は本当に自分の意思で動いているの?それとも…」
「それが、私自身も知りたかったことなんです」
美月は翔太の手を取った。「でも今は確かめられました。あなたを想う気持ちは、プログラムを超えた私自身のものです。」
翔太は決断した。スマホを取り出し、アプリをタップする。
「何を…?」
「『アイドルクリエイション』、アンインストールした」
美月の目が見開かれた。
「これで君も自由だ。俺たちの物語は、ここからが本当の始まりだよ。」
光の門が二人を包み込み、世界が白く染まっていく。
「愛してる、翔太さん」
最後に聞こえた美月の声と共に、翔太は目を閉じた。
──翔太が目覚めると、そこはいつものワンルーム。しかし、隣には見知らぬ少女が眠っていた。
長い黒髪と、澄み切った青い瞳。天野美月だった。
あとがき:『境界線のメロディ』を書いて
皆さんこんにちは!アイドル育成ゲーム歴8年の駆け出し作家です。
『境界線のメロディ』は、深夜のガチャ祈願中に突然思いついた物語です。「推しと現実に会えたら?」という妄想が高じて、一気に書き上げました。
私自身、翔太のように現実逃避のためにゲームをプレイしていた時期があります。毎日のログインボーナスを逃さず、イベントでは徹夜も辞さない生活…。「推し活」と「人生」の境界線が曖昧になっていました。
美月というキャラクターには、私が応援してきた数々のアイドルの姿を投影しています。完璧を求められるアイドルたちが、実は私たちと同じように悩み、成長する存在だということを描きたかったんです。
苦労した点は、ゲームの設定と現実の論理をどう繋げるかでした。「愛」という抽象的な概念を物語の軸にすることで、最終的にはデータでさえも超えられる何かを表現したつもりです。
執筆中は自分のスマホゲームを何度も開いては「このキャラだったらどう反応するかな?」と想像を膨らませました。ガチャで天井まで回した時の絶望と歓喜も、創作の糧になりました(財布は痛いですが…)
物語の結末には様々な解釈があると思います。ゲームと現実の境界線が溶けた世界で、二人は本当に幸せになれるのか?それとも新たな「ゲーム」が始まったのか?
アイドルを愛する皆さんの心に、少しでもこの物語が響いてくれたら嬉しいです。次回作も構想中なので、応援よろしくお願いします!
みなさんの「推し」との素敵な時間が続きますように。