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雑学百夜

雑学百夜 蛍火

作者: taka

 私は煙草を吸わない。

 だけど、あなたの煙草を吸っている姿は好きだった。

 まだ田舎に二人で住んでいた頃、あなたはいつも夜空の下、ベランダで煙草を吸っていた。

 私が隣でそれを見ていると

「部屋おれや」

 とあなたは言ってくる。だけど私は意地でも傍を離れない。暫くするとあなたは根負けしたように

「癌なっても知らんからな」

 と呆れたように笑い、それでも煙が私の方に流れないように気を付けながらポツリポツリと話してくれた。

 今日の現場であった面白いこと、地元の噂に、新しく出たバイクの話……。

 その中でも私はあなたが時々教えてくれる雑学の話が好きだった。どこで仕入れたのかも分からない。Yシャツの由来とか、お侍さんの荷物持ちをしていた中間って人達の話とか。

 私にはいっとうお気に入りのお話がある。

 ——のう、沙耶知っとるか?

 あなたはいつもそんな風に話を切り出した。

「蛍っておるやろ。あいつらにも方言ってのがあるらしいで」

「方言?」

「おう。西と東で光り方が違うらしいわ」

「えー知らんかった」

「ほうやろ。しかもな……その蛍ってな……」

 ——私が目を丸くして驚くとニヤリと笑って満足そうにフィルターを噛むあなた。

 あの悪戯っぽい横顔が、私は本当に好きやった。



 煙草の煙は一筋に高く夜空に昇っていく。

 そんな風に故郷でのあなたとの日々はただ当たり前に続くんだって思ってた。

 だけどそれは私だけだったらしい。

 ある夜、あなたは苛立たしげに煙草を吸いながら言ってきた。

「こがな町もう知らん。東京行くわ」

 何となく、予感はしてた。

 季節と共にあなたの話す話も移ろい変わってきていたから。

 現場の監督とそりが合わない、新しく入った奴が使えない、金がない、金が足りない……雑学はもう随分と聞いてない。

「世話になった先輩が誘ってくれとるけん」「小銭ばっか稼いどってもしょうがないやろ」

 ダラダラと煙草を吸いながらあなたは自分に言い聞かすように話し続けていた。

 私は笑っていた。

 東京に行ってどうするの? これからの二人のことどう考えているの?

 聞きたいことは山ほどあったけど

 あなたが何て答えるのか分からんかったから、怖かったから、だからあの時私は煙に包まれながらただ笑ってた。



 東京の冬は故郷よりずっと寒い。

 前に住んでたあの町は一年中だって暖かかった。名物の蜜柑は黄色を通り越して夕焼けみたいな色をしてた。果実を噛めば、薄皮のほんの少しの抵抗の後、弾ける食感と共に甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がっていく。タルトよりジュースよりあの町の蜜柑だけはそのまま食べるのが間違いなく一番美味しい食べ方だった。

 また食べたいなぁ。

 一度私がそんなことを話した時、あなたは一瞬懐かしそうに目を細めた後、

「あんなんよりもっとええもん食わせたるけん待っとけよ」

 と少し怖い顔に戻って言っていた。

 少し怖い顔。

 東京に移り住んでからあなたはずっとそんな顔だった。

「先輩に仕立ててもらったんや。格好ええやろ」

 と上京して直ぐの時に黒のスーツを笑顔で見せびらかしてくれたあの日々はもう嘘みたい。

 仕事は何をしているのかも、雑学ももう教えてくれない。

 携帯電話の呼び出し一つであなたは昼も夜も家を飛び出した。時々携帯の向こう側にひそひそ声で「もう勘弁して下さい」と言っている時もあった。何となく憚られて私はいつも気付いていないフリをしていた。

 生活が落ち着いた頃、私は近所のスーパーでパートを始めた。

 そのことを伝えるとあなたはやっぱり少し怖い顔で

「勝手にせぇや」

 と吐き捨てた。でも私が持ち帰る割引になった惣菜やパンはいつもむしゃむしゃしっかり食べる。

 周りの人はあなたみたいな人を何て言うのか分からない。親も友達もいないから聞ける人もいない。

 ただ私はそんな少し怖くなったあなたから離れる気は無かった。

 好きやけんね、ってもう随分口に出しては言ってないけど。



 舐められるから、らしい。

「もう家でも方言使わんといてくれ」

 ある日、あなたはそう言ってきた。

「田舎から来た奴って思われたら格好悪いけん」

 言った側から直ぐに訛ってるのが何だかとってもあなたらしい。

 怒っている時、方言で怒鳴り散らすあなたは標準語の時よりよっぽど怖いし、誰にもきっと舐められないと思う。

 だけどあなたは「とにかく社長に言われてるから、方言は禁止な」と念を押すとそそくさと風呂に入ってしまった。

 最近あなたは特にそうだ。

 二言目には社長が、社長がと言い訳めいたことを言う。

 帰りが遅いのも社長に呼ばれていたから。

 私の給料を勝手に使い込んでいたのも社長に言われたから。

 紙煙草から電子タバコに変えたのは社長にプレゼントして貰ったから。「これ、良いだろ」と誇らしそうに言うあなたはちっとも良くなかった。

 先に橙が灯る白い煙草を咥えたあなたが好きだった。方言交じりに私の知らない事を教えてくれるあなたが好きだった。

 名刺入れの化け物みたいな四角くて黒い電子タバコを大事そうに握りしめるあなた。溜息混じりの白い煙をベランダで一人きり吐き出すあなた。

 背中に何度か「好きだよ」って語りかけてみたけど、慣れない標準語のせいかな、何だかそれはとても空々しく響いた。



 恨むなら彼氏にしてくれって言われた。こっちだって仕事なんだから、とも。

 ある日、パートから帰ると三人の黒いスーツの男の人に囲まれた。部屋の片隅にはあなたがボロ雑巾のように横たわっていた。

 黒スーツの内の一人が憐れみの顔を浮かべながら教えてくれた。

 あなたは多額の借金を背負う羽目になったのだという。返済するには私を会社の系列の“お店”で働かせるしかないって……なのにあなたは嫌だ嫌だなんて世間知らずなことを言うからこんなことになってしまったんだと。

 床から呻き声を挙げながらあなたは言った。

「……先輩……勘弁してくれませんか? 沙耶は関係ないんです……お願いします……なんしてでも金作りますから……」

 黒スーツ達は後ろ手に組み微動だにしない。

 あなたは床を這いながら「勘弁して下さい……もうほんまに……」と何度も呟く。

「光輝、お前って本当……」

 男は呆れたように呟くと、足元に寄り縋るあなたを蹴飛ばした。

 血反吐を吐いた後、あなたは目まで真っ赤に充血させながら言った。

 ——沙耶、逃げてくれ……もうどうもならんわ……ほんますまん……許さんでええけん、こんなんもう忘れてくれてええけん、お前だけは——

 後ろに控えていた黒スーツ二人は仕方なさそうにあなたに掴みかかろうとした。

 その瞬間、私はあなたに覆い被さり叫んだ。

「もうどこでも行くけん! なんでもするけん! やけんもうこの人に関わらんで! 」

 私の大声に黒スーツ達は立ち止まる。

 家の中に久しぶりに響いた故郷の言葉。

 ……格好悪くなんかないけん。

 そう呟いて、私は小さく震えるあなたの背中をそっと撫でた。



 東京の冬は故郷よりもずっと寒い。

 そして私は温もりに飢える人を相手に昼も夜も仕事をしてきた。

 時々本当に苦しくて、殆ど毎日死にたくなった。

 だけど家に帰ればあなたがいた。

 紙煙草も電子タバコも吸わなくなったあなた。

 下らない話も雑学も自慢も愚痴も何も話してくれなくなって、口を開けば「ごめん」ばかりのあなただけど、今まで一緒に生きてきて、今が一番愛おしい。そんな気がする。

 やけん、謝らんでいい。やけん、別れようとか言わんといて。

 悲しくなるけん、怖くなるけん。

 ねぇ、お願い。



 幾つかの季節が巡ったある日の午後、店長に声を掛けられた。

「ノアさん、もうお店に来なくていいよ」

「えっ、まだ借金……」

「まぁ、もういいみたいだから」

 店長は困ったようにそう言うと「これはお釣りだってさ」と少し膨らんだ茶封筒をくれた。

「お釣り?」

「頑張ってきたからね。これで君だけでももう田舎にお帰り」

 そう言って、店長はどこか憐れむような表情を浮かべながら店を送り出してくれた。

 訳の分からないままそれでも後から解放感が追いかけてきた。待機部屋にはお気に入りの櫛を忘れてきたけど、そんなんもうどうでも良い。

 やっとあなたとの本当の日々が始まる。

 晩秋の少し冷たい向かい風も気にしない。

 帰り道にコンビニでケーキを二つとあなたが好きだった銘柄の煙草を買った。

 今夜は久しぶりに煙草を吸うあなたの傍にいたい。

 そして、これからも、ずっと。



 家は真っ暗で誰もいなかった。

 あなたに電話を掛けたが繋がらない。メールも送ってみたが返事は無かった。

 家で待ちながら、ただ時間は過ぎていく。ケーキは冷蔵庫の奥にしまった。

 明るい内から何度もベランダに出てあなたを探していたのに、気付けばすっかり夜だった。

 溜息を吐きながらベランダの柵に頬杖を突く。

 ——そういえば、あなたはいつもここでこうして吸っていたな。

 ふと私も煙草を吸いたくなって、部屋の中からあなたのライターを探してきた。

 カチリ、カチリ。

 初めての煙草。思い出を手繰りながら見よう見まねに火を灯す。

 風防にした左手の内側。あなたのとはまるで真逆な薄く短い感情線が赤く仄かに照らされた。

 生命線すらも短くするほど煙を吸って、何度か咽せて、目尻には少し涙が滲んだ。

 ねぇ、お願いやけん……。

 夜空に独り呟く。

 その時、視界の端に煙草の火によく似た橙の灯が揺らめいた。

 灯は一匹の蛍だった。

 街中に迷い込んだ季節外れの蛍。

 私の隣で蛍は羽休めだろうか、ベランダの柵に留まった。

 いつかの雑学を思い出す。

 蛍にも方言があるって話。あれには続きがあった。

 方言の異なる地に迷い込んでしまった蛍は群れに混ざれず孤独に死んでしまうのだという。

 あなたはその話を悲しそうに話していたっけ、それとも哀れな蛍を馬鹿にするみたいに話していたっけ。

 ねぇ、あなたは独りなん?

 私の問いに答えるように柵の上で蛍は一度二度と瞬いた。

 そうなん。私はね——

 言葉にしながら、白い煙はゆらゆらと揺れて夜に滲む。

 待ち焦がれ煙草は幾本も灰になっていく。

 それでも私は、蛍みたいな淡い火をこの街の片隅にいつまでも灯し続けた。

雑学 関東と関西の蛍は光の点滅の間隔が微妙に違う。

関西の蛍は気忙しく点滅し、関東の蛍はゆったりとしたリズムで点滅を繰り返す。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  さすがtaka様ですね❗❗  一文一文が精密に描かれた絵画のように、正確で緻密で、美しいです。  とても雰囲気を大切に書かれていて、ほんの二三行読んだだけで、世界観に飲み込まれてしまいま…
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