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再生と変化の蝶 ~だいたい古代史~

作者: そらが

 古代のエジプト人はこの昆虫の美しさを認識していたようだ。蝶は古王朝の王妃ヘテプヘレス1世墓の出土品のアミュレットに彫られていた。

 ミツバチが太陽神ラーの使いの役割を持ち、スカラベが太陽を運ぶ役割を担うのに対して、蝶は少なくとも絵画に附属するエッセンスだった。ネブアメン墓の狩猟壁画に余白を埋めるようにして描かれた蝶は橙色の羽をしたタテハチョウの一種のように見える。ただし狩りのシーンは猫が鳥を襲うものであり、飛ぶものとして鳥と関連付けただけかもしれない。

 一方で蛹はオシリス神の象徴だった。死んだように見える姿から蝶が生まれることから再生を示していると考えられたという。



 古代ギリシャでは蝶の方にウェイトが置かれた。

 アリストテレスの動物誌によれば蝶(※モンシロチョウ)はキャベツの葉についた卵から芋虫になり、それから芋虫から死んでいるような状態に変わり、(プシュケ)が発生するという。

 プシュケはまたギリシャ神話に登場する女神でもある。少なくとも古代ローマ時代から彫刻や絵画においてこの女神の背中には蝶の羽が描かれていた。

 イソップ童話にはアリと蛹という寓話がある。アリが身動きの取れない蛹を蔑んだ数日後、蛹から羽化した蝶によってアリが蔑まれる話である。教訓的な話であるが、蛹の弱々しさに触れる一方で、蝶の羽の美しさや空を舞う自由は称えられた。

 また蝶と薔薇という寓話もあり、様々な花の蜜を吸う移り気な蝶が描写されている。



 ローマ帝国において蝶はか弱い存在だったようだ。例えばマルティアリスはエピグラムマタのLigurraへの書簡において、刺激的な詩を書くことについて批判的に「リビアのライオンは雄牛に押し寄せる。彼らは蝶を傷つけない」と記した。

またルキアノスは、車輪の上で休む蝶のように疲れるという言い回しを用いた。


 ラテン語の(パピリオ)は「ひらひら飛ぶ」が語源だという。

 プリニウスは蝶を春の訪れを示す生き物の一つとしている。蛹についての記述にはキャベツの葉についた朝露が芋虫となり、蛹になって蝶になると言う。また蛹は死んでいるような状態ではなく、厚い殻に覆われて蜘蛛の糸のようなものに支えられていて触った時にだけ動くと書いている。



 中世のイスラム教国では、蝶は情熱的で華やかな演出を表現していた。

 ルーダキーは「愛する者への涙」という詩で「あなたが顔を輝かせるとき、あなたの周りで千羽の蝶が燃え上がる」と詠む。

 またルーミーは春の祝いの詩で「私は炎であり、その周りを舞い飛ぶ蝶。私は薔薇、そして薔薇の熱情的な奴隷ナイチンゲール」と詠んだ。

 さらに蝶の幼虫の一種al-asariはアル・ダミリの動物辞典において女性の指に喩えられた。

 一方で、夢の中で見た蝶や蛾については脆弱で軽蔑すべき口の上手い敵を示し、農民にとっては仕事の不足を示しているという。


 パピリオという言葉がイタリアやフランスといったラテン語圏で継承される一方、イギリスやドイツでは牛の乳を搾ってバターを作る時期に現れる飛虫と呼ばれていた。

 中世のカンタベリ物語では「蝶一匹の価値も無い」といった慣用表現を用いている。

 中世写本の挿絵には鳥を狙うように蝶を射掛ける絵や衣類で蝶を捕まえようとするものなどがあり、それらは13世紀頃から描かれるようになったというが、蛾との区別ははっきりしない。

 シェイクスピアの「夏の夜の夢」には蝶の羽根で扇を作る妖精が登場している。少なくとも16世紀には蝶の羽は美しいと認識されていた。

 しかし17世紀にメーリアンの研究で蝶の繁殖や変態が分析されるまで、蝶の芋虫は自然発生することになっていた。

 妖精の羽への採用は19世紀のロマン主義に始まるもので、幻想小説の挿絵において妖精たちの背には最終幻想的な画風で蝶の羽根が描かれた。



 古代中国において蝶は軽やかなもの、そして姿を変えるものとして認識されていたようだ。

 列子には葉が蝶に変わる話があり、荘子には荘周が蝶に変じて舞う夢を見る話がある。後の晋代の捜神記では(他の多くの変化の例と共に)麦が蝶に変化するとし、異苑にも人が無数の蝶となって飛散する話がある。酉陽雜俎の怪術編では怪異が沢山の蝶になって消え去っている。

 蝶の字源は葉のようにひらひらするものだという。甲骨文字はないが、篆書体はある。

 蝶は説文解字によれば蛺蜨と言う。他にも胡蝶や野蛾、風蝶、胥と様々な呼び名がある。大型の蝶は鳳蝶、鳳子あるいは鬼車と呼ぶが、この鳳蝶はアゲハチョウを示す。遼東で見られる紺色の蝶は童幡や天鶏と呼ばれていたが、こちらの種は分からない。

 所有している画像石資料の中には蝶やその他の昆虫の絵を確認できなかった。漢代において基本的には絵画の対象ではなかったようだ。


 蝶の幼虫は稲を食す害虫とされ、史記や春秋においてイナゴと並ぶ虫害として記録されている。

 稲を食す蝶にはセセリチョウの幼虫がいる。葉を食べることによって食害を為す虫の類は螟と書くが、この幼虫は緑色なので晋代には青虫とも呼ばれていた。

 蛹は螝とも書く。甬という字は筒形の器を示すから見た目通りである。また鬼という字は屋内に葬られた屍を示すというから、死に近いものともされていたのだろう。


 魏晋南北朝の頃から詩の中に蝶が頻出する。玉台新詠集に見られる蝶の詩は特に梁代のものが多い。例えば「雑句春情」には「蝶は黄色、花は紫、燕は相追いかける」という。モンキチョウの類だろう。

 また「徐侍中が人の為に婦人に贈るに答える詩」には「(妓女たちは)俱に井戸に依る蝶を見て、共に庇へと落ちる花を見る」と詠む。少なくとも梁代には蝶を鑑賞する趣きがあったことが分かる。

 絵画の方は唐代からで、李元嬰(滕王嬰)が鮮やかな蝶の絵画を描いたことが知られる。蜂蝶画や蛺蝶画を描いたと言うが現存しない。



 神話上の蝶で最も代表的なものはアステカの神話である。アステカ神話において三つ目の時代が滅びを迎えたとき、人々は七面鳥と犬と蝶に変化したという。

 また戦場で死んだアステカの男の戦士たちは太陽へと去り、4年の後に蝶あるいはハチドリになって大地に帰り、永遠に花の蜜を啜って太陽の下で踊るといわれる。

 ハチドリが踊るように空を飛ぶのは勿論知られていたし、アメリカで見られるオオカバマダラの渡りには他の地域の蝶よりはるかに強い存在感があった。

 戦士たちは神々と同様に蝶の形状をした装飾を身に着け、魂の復活に備えた。蝶は神への捧げものとしても用いられ、その頭部を断たれた。

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