リュックの男
実話を元にした短編です。
気持ち悪い話なのでご注意ください。
「いやー、参ったよ」
帰宅するなり、夫が苦笑しながら私に言った。
「今日、えらいものと遭遇しちゃった」
含みを持たせたその言葉に、私は目をぱちぱちと瞬きした。
「なにかあったの?」
そう聞くと、待ってましたとばかりに夫が話し始めた。
「会社に向かう〇〇線の□□駅で男が乗って来たんだけれど、その人が臭いのなんの」
「くさい?」
私は思わず聞き返した。
「そう、ものすごく臭かったんだ」
夫の話はこうだ。
朝の八時。夫が通勤に使う電車に乗っているのは殆んどがサラリーマンかOLだ。
新宿副都心までつながるその線はラッシュで有名だが、夫の会社は都心とは反対方面にある為、殺人的なラッシュに遭うのは免れている。
そうは言っても、都内を走る通勤時間帯の電車が込んでいない筈がない。それに、東京のベッドタウンになっている千葉から電車一本で通勤できる便利な線だ。
夫の勤め先があるビジネス街に着くまでには、多くの勤め人が乗り降りしていた。
押し合いへし合いするほどぎゅうぎゅうではないが、肩がぶつからない程度には間隔を開けて立っていられる。
そんな乗客たちの真ん中に、大きなリュックを背負った男が突っ込むように乗車して、車両の中央を歩き出したらしい。
男が近寄って来た途端、息が止まるかと思うくらいの凄まじい臭気に夫は襲われたという。
「それで、慌てて自分の後ろにいる人を押すようにして、その男を避けたんだ。後ろの人には悪かったけど、男に触りたくなかったからね」
その車両にいる人は誰もが夫と同じ考えだったらしく、男が前を歩くと自然と空間が出来たらしい。
「乗客の全員が無言のまま左右に避けて道を開けていくんだ。すごかったよ、まるでモーゼの十戒で海が割れるシーンみたいな感じでさ。結構混んでいる車両だったのに、男の前に一瞬で広い空間が現れるんだから。そりゃそうだよな。まともに嗅いだら卒倒するぞ。あれは」
随分大げさだと思ったが、その例えで、夫の見た光景が頭の中で明確にイメージできた。
「それは災難だったね」
「うん。いやあ、ホント、びっくりしたよ」
そう言い残すと、夫はスーツを着替えようと二階にある自分の部屋へと上がっていった。
早くはない帰宅で、夕食もまだだ。いつもはさっさと二階に上がって行くのに、余程その話を私に聞かせたかったらしい。
私が変な話に食い付くタイプなので、夫は面白がって聞くと思ったようだ。
確かにそれは当たっていて、私は夫の夕食の準備も二の次で、ふむふむと興味深げに最後まで男の話を聞いたのだった。
「またあの男に会った」
ただいまのあとに、夫がこの間と同じような苦笑いを浮かべながら玄関ドアを閉めた。
「またって、この間話していた男の人のこと?」
「そう。あの男」
聞けば、やはり○○線の□□駅で乗車して来たとのことだ。
「今回も臭かったの?」
「うん…」
初めの時と同じように、男は恐ろしい臭気を発していたという。それでも二度目だったので、夫はある程度、心に余裕があったらしい。
「男が通り過ぎる時に、観察してみたんだよ」
なんと酔狂な。そう思ったけれど、私は興味津々で夫の話に耳を傾けた。
「よく見たら結構若い男だったよ。三十前後くらいかな」
「そんなに臭うって事は、長期間お風呂に入っていないのかな」
「身なりは普通だったよ。コットンのシャツとジーパンで、汚らしい感じは全くなかったな」
「じゃあ、何で周りの人が息できないくらいに臭うんだろう?」
私の疑問に夫は腕を組んで少しの間首を傾げてから、こう言った。
「男自身が臭っている訳じゃないんだな。今日も前回と同じ大きなリュックを背負っていたっけ。あれは多分、リュックの中身が臭いんだ」
「リュックに何が入っているんだろうね。生ごみでも入れてるのかな」
夫は数秒間、天井に目を泳がせてから私に言った。
「滅茶苦茶臭いんだけど、あれは生ごみの臭いとは違うな」
「滅茶苦茶臭いのかあ。私、小学生の時に行った海で、死んだヒトデのにおいを嗅いだことあるよ。鼻が曲がるかと思うくらい臭かったっけ」
私は、遠い昔の夏休みの思い出を記憶の中から引っ張り出して、夫に伝えた。
「俺もヒトデの死骸の臭いは嗅いだことあるけれど、あれとは違うんだよなあ」
頭がくらくらする程の凄まじい臭気の記憶は後にも先にもヒトデだけだ。それ以上、思い浮かぶものは何もなかった。
「一体、何のにおいなんだろう」
「とにかく、今迄に一度も嗅いだことのない激烈な臭さなんだよ」
夫の口調には何故か感動に似た響きがあったので、私は少しぎょっとした。
あまりにも強烈な臭気を吸い込んだせいで、夫の脳の嗅覚を司る部位が異常を来してしまったのだろうか。
「これからごはん食べるのには、あまり良い話題じゃないね」
私は話をそこで終わりにした。
以後、夫の口から男の話題が出ることはなくなった。
男の話を忘れかけた頃、夕方、テレビを見ていた私ははっとした。
テレビでは、都内にある学校の敷地に無断で入った男が警察に捕まったというニュースが流れていた。
その学校は夫が通勤に使う電車の沿線付近にあった。
学校の敷地をうろついていた男は大きなリュックを背負っていた。リュックから異臭がするので警察官が調べたところ、中から女の赤ちゃんの遺体がミイラ化して出てきたので、男を逮捕したとのことだった。
警察の取り調べに対して男はこう言ったそうだ。
昔付き合っていた女性が突然男の元を訪ねて来て、あなたの子供だと言って男に赤ちゃんを預けて行方をくらました。男は赤ちゃんの面倒を見ていたが、すぐに死んでしまった。それで赤ちゃんの死体をリュックに入れて持ち歩いていた、と。
私は夫が帰宅してすぐに男の話を持ち出した。
「ねえ。ちょっと前に臭い男の話をしていたけど、あれからその男の人を電車の中で見かけたことある?」
「ん?ああ、もの凄く臭い大きなリュックを背負った男のことね。そういや一度も見かけていないな。なんで?」
ニュースになっていた男は、恐らく、夫が話していたリュックの男と同一人物だろう。
自分が見たニュースの内容を夫に伝えようとして、私は口を噤んだ。
通勤途中の電車の中で、ミイラ化した赤ん坊が入ったリュックが二度も自分のすぐ脇を通り過ぎていったと知ったところで、何か得することがあるだろうか。
何もない。
あの臭いの正体を知った途端、とんでもなく気分を悪くするだけだ。
誰だって、知りたくないだろう。そんな事実など。
「なんでもない。何となく思い出したから、ちょっと聞いてみただけ」
私はそう言って、遅い夕食を取ろうと椅子に腰を落ち着けた夫の前に、缶ビールとグラスを置いた。
終