19話 立派な人間
橘さんは色々と度が過ぎてはいるが、言っていた事自体は何も間違っていない筈だ。
好きな人とエロい事を沢山したい。
好きな人に自分の願望を満たしてもらいたい。
人の持つ欲求としてはあまりにも普遍的で、思い人に対してこれ以上なく純粋な気持ちを抱いている。
だから橘さんの意思には一切の迷いがない。
小鳥遊さんみたいなスペックだけは完璧な人に直樹を取られてしまった今でさえ、依然として直樹とよりを戻したいという強い意志を持っていて常にその機会を狙っている。
だが僕にはそれがない。
伊達や酔狂ではなく、僕は本気で片桐さんはこの世で一番魅力的な女の子だと思っている。
それだけ片桐さんの事が大好きなのに、僕は片桐さんと一緒に幸せになりたいと漠然とした思いを抱くだけで、片桐さんとどうなりたいかハッキリとしたイメージを持っていない。
良くも悪くも直線的過ぎる橘さんとは対照的に、僕の意思には迷いしかない。
相手の気持ちを汲み取ろうとしていると言えば聞こえはいいが、自分がしたいことすらよくわからず、女々しい態度で何もせず片桐さんの方からアプローチが来るのをただひたすらと待っている。
それ以前の問題もある。
多分僕は無意識中に、自分に許された唯一の性的行為はエロ漫画やエロ画像で抜く事だけだと思い込んでいた。
というか、今更になって気付いたが、僕は恐らく自分のしたい事や自分の欲に対して忠実になれない人間なのだろう。
橘さんや片桐さんが相手なら多少マシにはなるが、基本的に僕はしたい事をしたいとは言えないし、嫌な事もハッキリと言えない性分でいつも我慢ばかりしている。
不満があってもいつも黙っていて、言いたい事があっても何も文句を言わない。
嫌な事があっても基本的に抱え込み、仕方がない事であると受け入れようとする。
辛いとか苦しいとか思っていても、周囲の人間にそれをぶちまける事はまずしない。仮にしたとしてもきっと受け入れてくれないと、最初から諦めている。
言ってしまえば、常に心にブレーキがかけられている状態だ。
そういうのは普通の人間だけに許された行為であり、駄目人間である僕はそういう事はしてはいけない。
もしかすると僕は、無意識にこんな事を思っていたのだろうか……。
本当は片桐さんとずっと一緒にいたいのに、こんなだから一回振られたくらいで片桐さんとの交流全てを躊躇うようになったのだろうか……。
*
翌日の登校時、通学路のある道でまたしても片桐さんの姿が見えた。
片桐さんは今日も浮かない顔をしていて、ため息をつきながら歩いていた。
そんな片桐さんの姿を遠くから見ていた僕は、昨日橘さんから言われた事を思い返し、思い切って片桐さんに話しかける事にした。
そりゃ橘さんの言うように、いきなり片桐さんを押し倒すなんて極端な事はしたいとは思わない。
でもちょっとだけ自分の気持ちに素直になってもいいんじゃないのかと思ったのだ。
僕はとぼとぼと歩く片桐さんの隣に行き、勇気を出して声をかけた。
「あ、あの。か、片桐さん……」
「……」
片桐さんは僕の方を振り向いた。
「えっと……、その……」
「…………」
煮え切らない態度を取る僕に対し、片桐さんは憂鬱な顔をしながら僕の顔を見ていた。
「その……。雰囲気、変わったよね」
「ええ……、まあ……」
あの日以来初となる、片桐さんとの久々の会話。
そう思うと、僕の胸も高鳴る。
「そのメイク……、その。似合ってるね!髪色も!」
「そう……、ですか……」
「勿論、前のが似合ってないって訳じゃないんだけど……。その……、凄く、可愛いと思うよ!」
「…………」
僕がそう言うと、片桐さんは何故か浮かない表情をした。
もしかして、褒め方間違えたかなあ……。
「その……、最近、どう?」
「……………………」
僕が何気なく振った世知話に対し、片桐さんは俯いた。
もしかすると、地雷を踏んでしまったのだろうか……。
「ああ、ごめん!変な事、聞いちゃったよね……」
「強さんは……」
「え?」
「強さんは……、どう、なんですか……?」
「え……?まあ、普通かなぁ」
「普通……、ですか……」
片桐さんは明らかに元気がなかった。
何か嫌な事でもあったのだろうか。
もしかすると、友達と喧嘩でもしたのだろうか。
或いはクラス分けで友達と離れたりでもしたのだろうか。
「その……、何かあったの……?」
「…………」
片桐さんは無言で頷いた。
「別に無理に言わなくてもいいけど……、相談したくなったら、いつでも言ってね」
「…………」
「その……、文化祭の時以来、なんかギクシャクしちゃったけど、その、前みたいにまた一緒に過ごしたいなって、思ってるから……」
「…………」
「いつでも、待ってるから……」
「……私にはそんな価値ない」
片桐さんの思わぬ言葉に、僕は耳を疑った。
「え……?」
「強さん……。やっぱり私、駄目な人間です……」
「そ、そんなことないよ!」
「そんなこと……、あるんですよ……」
「なに言ってるの……?そんな事ないに決まってるじゃん……!」
「私は……、強さんの思ってるような、立派な人間じゃないんです……」
「そんなことないって……!」
「自分で自分が抑えられなくて……、いつも皆に迷惑をかける……」
「いやいや、片桐さんは今までずっと頑張ってきたじゃん!大丈夫だよ!自信を持って!」
「……………………」
僕がそう言うと、片桐さんの表情はますます曇り、黙りこんでしまった。
「強さん……」
「え?」
「強さんは私の事……、どういう人だと思っていますか……?」
「そ、そりゃ片桐さんは、優しくて、頑張りやで、とってもいい人だって……」
「やっぱり強さん……、私のこと、何もわかってないですよ……」
「……………………」
事情はよくわからなかったが、片桐さんのそのあまりにも切羽詰まったような表情を見た時、僕は何も言えなくなってしまった。
「本当の私は……、卑しくてズルい、ただの弱い病人なんです……。強さんに優しくされる程、価値のある人間ではないんですよ……」
片桐さんは虚しそうにそう告げると、静かに歩いてその場から去ってしまった。
一体片桐さんの身に何が起きたのか気にはなったが、僕は怖くて聞く事が出来ず、その場に立ちすくみただ茫然とするだけだった。




