8話 恋は盲目
片桐さんと手を繋いだ日から数日経ったある日の昼休み、僕はいつものように片桐さんと一緒に昼食を食べるべく部室に向かっていた。
そんな時、弁当箱を持ったまま女子トイレに入ろうとしていた橘さんと目が合った。
「なによ。見世物じゃないのよ」
この人、なんで便所で昼飯を食べようとしているんだ……?
「今日日便所飯する学生なんて珍しくもないでしょ。さっさとどっか行ってよ」
久々に話したけど本当この人、相変わらずわけわからないよ……。
「もしかしてあれなの?橘さんスカトロマニアだから、うんこの臭い嗅ぎながらだとご飯がすすむとかそういうの?」
「そんな訳ないでしょ。バカにしてるの?」
「じゃあなんでこんな所でご飯を食べようとしてるの……?」
「野暮な事聞かないでよ。一緒に食べる相手がいないからに決まってるじゃない。でなきゃこんな汚いところで食べたりしないわよ」
「橘さん、モテるんだからその辺の男子と食べればいいじゃん……」
「そんな椿みたいな真似できる訳ないでしょ」
妙なこだわりがあるな、この人……。
「彼氏の小便飲んだりうんこ塗られるのはいい癖に、トイレでご飯食べるのは嫌なんだ……」
「あたりまえでしょ」
「イマイチ理屈がわからない……」
「わからない?仮にあんたが足フェチだったとして、相手の生足に付いた生クリームは喜んで食べられても、靴についた生クリームは食べる気になれないでしょ?それと同じ理屈よ」
「どっちも食べたくないよ……」
「話のわからない奴ねえ……」
「ご飯食べるところに困ってるからって、頼むから部室には来ないでよ……」
「頼まれても行かないわよ」
久々に話して改めて思ったが、やっぱり橘さんは下品で頭がおかしい。
「あんたさ、最近よく笑うわよね」
橘さんは藪から棒に言ってきた。
「え?そう?」
「ちょっと前まで、年中家が焼けた後の永沢君みたいな顔してたのに」
例えにしたってその表現はどうなんだ……。
「最近なんか調子がいいんだ。色々と」
「智代のお陰?」
「そうだよ」
「あんた最近、毎日部室に行って智代に会ってるわよね」
「悪いかよ?」
「ヤってるの?」
橘さんの思わぬ質問に、僕は噴き出した。
「ヤってないよ!あんたと一緒にすんなよ!」
「そう。随分とプラトニックなのね」
相変わらずこの人の発想は俗物的過ぎる……。
本当にヤる事しか頭にないのかよ……。
「好きなの?」
「……好きっていうか、一緒にいると気持ちが安らぐっていうか、幸せな気持ちになれるって言うか……」
「ゾッコンね」
「……そうだよ」
僕は小さく肯定した。
「ちなみに聞くけど、なんで好きになったの?」
「片桐さん……、優しいから……」
僕はボソっと呟いた。
「はぁ……」
すると橘さんはため息をついた。
「ラノベのヒロインみたいなしょうもない惚れ理由ね……」
「人のこと言えるのかよ?」
「それはそれ、これはこれよ」
相変わらずのダブルスタンダード……。
「あんたってなんていうかさ、一貫性がないわよね。常にブレブレって言うかさ」
「橘さんには関係ないでしょ……」
「最初は二次元美少女。その次はスペックだけの中身スカスカ女。で、その後は単に優しくしてくれるだけの低スペックのメンヘラ。あんた一体どれだけ極端なのよ?」
「別にいいじゃん……」
「一応聞くけど、好きになったきっかけって何?」
「…………」
僕は少し照れくさかったが、正直に白状した。
「手を……、繋いでくれた……」
「イカ臭い奴ねぇ……。気持ち悪い」
流石に今のはカチンと来た。
「あんたはウンコ臭くてもっと気持ち悪いよ!」
「…………」
橘さんは黙った
「手だけじゃない……。僕の話だってちゃんと聞いてくれたし、同情だってしてくれた……」
「大したことしてないじゃない」
「僕にとっては大したことなんだよ……」
「チョロ」
「人のこと言える立場かよ?小学生の時の結婚の約束を高校になっても引きずってたあんただって大して変わらないだろ」
「それはそれ、これはこれよ」
「またかよ……」
この人の二枚舌に真面目に付き合っていると疲れるから適当に流す事にしよう。
「智代、見た目だってそんなに可愛くないじゃない。厚化粧で誤魔化してるだけだし」
「片桐さん……、可愛いじゃん……」
「そうかしら?」
「可愛いよ……」
「どのくらい?」
「凄く……」
「椿より?」
「……うん」
「はぁ……」
橘さんは再び大きなため息をついた。
「一応忠告しておく。傷の舐め合いをするのはいい。そりゃ舐め合っている内は心地いいってのもわかる。でもよく考えて」
「何を考えろって言うんだよ……?」
「本当にあの子でいいの?」
「片桐さんでいいんじゃなくて、片桐さんがいいんだよ」
「別に付き合う事自体には文句は言わないけど、あの子病気なのよ?あんたそこんとこちゃんとわかってる?」
「それがなんだよ?」
「普通の子とは違うのよ?」
「あんただってそうだろ……」
「真面目な話よ。ちゃんと答えて」
橘さんは柄にもなく真剣な顔をしながら言ってきた。
「そうだね。片桐さんは普通の人じゃあり得ないくらいいい人だし」
「だからそういう事じゃなくて」
「じゃあどういう事だよ?」
「ちょっとよく考えてみなさいよ。あの子ストレス溜まると泣くのよ?叫ぶのよ?暴れるのよ?物壊すのよ?」
「それは橘さんや直樹が酷い事したからだよ」
「中学の時からそういうことしてたみたいだけど?」
「それはその時は薬を飲むのを躊躇ってたからだよ」
「じゃあ今後智代に辛いことや嫌な事が起きて、またそういうことをしないって保証できるの?」
「出来るよ」
「なんで?」
「片桐さんはいい人だから」
「はぁ……」
僕がそう言うと、橘さんはまたしても大きなため息をついた。
「重症ね。恋は盲目にしても程がある……。あんたは思い人を過大評価しすぎよ……」
「橘さんは知らないかもしれないけど、本当の片桐さんはとてもいい人なんだよ」
「本当の?」
「そりゃ橘さんから見たら片桐さんは、メンヘラでいきなり暴れるヤバい人って認識かもしれないけど、本当は違うんだよ。凄く優しくていい人なんだよ」
「単にあんたにとって都合がいいだけでしょ?」
「そりゃそうだよ。誰だって自分に良くしてくれる人を好きになるに決まってるじゃん。特に僕なんて、片桐さん以外に親切にしてくれる人なんている訳ないし……」
「あんたそれ、マジで言ってるの?」
「本気だよ」
「手繋いでくれて話聞いてくれて同情してくれる人なんて、探せばいくらでもいるでしょ」
「いないよ……、僕には……」
「この国には一億人以上人が住んでいて、その内半分が女なの。だからその程度のことしてくれる相手なんて探せばいくらでもいるのよ。単にあんたが探そうとしてこなかっただけ」
「それでも、片桐さんより優しくしてくれる人なんて……、いる訳ないよ……」
「はぁ……」
橘さんはまたため息をついた。
今日の橘さんはため息が多い。
「そりゃ片桐さんは橘さんのこと嫌ってるから悪く思うのも無理はないよ。でも本当の片桐さんは凄くいい人なんだよ」
「だから本当の智代ってなによ?手繋いで話聞いてくれただけなんでしょ?」
「それだけじゃないよ」
「じゃあなによ?」
「名前だって……、呼んでくれた……」
「……………」
橘さんは黙り込んだ。
「あんたが智代に惚れこんだ理由は、なんとなくわかったわ……」
どうやら橘さんも納得してくれたようだ。
「でもね、あんた何か勘違いしてない?」
「勘違い?」
「そりゃ智代はあんたにとっては凄く優しくしてくれるいい人なのかもしれない。でも同じように、メンヘラでいきなり大声出して暴れる危険人物の智代も紛れもなく本当の智代なの」
「それは橘さんや直樹が片桐さんに酷いことしたせいだよ。片桐さんは本来ならああいうことする人なんかじゃないよ」
「だから私はそういう事を言っているんじゃなくて……」
「じゃあどういう事だよ?頼むから要点話してよ」
「はぁ……」
橘さんはまたまた大きなため息をついた。
本当に今日はよくため息をつくな、この人。
「あんたさ、智代が病気だって事実から目を逸らしてない?」
「病気だろうとなんだろうと、片桐さんはいい人だよ」
「そりゃあんたの前ではいい人かもしれない。でもそうじゃない時だってあるってこと。事実あの子は何度も問題起こしてるのよ?」
「だからそれは直樹や橘さんが片桐さんに嫌なことをしたせいだから」
「わからない奴ねえ……。あんたが好きなのって自分にとって都合がいい時の智代でしょ?智代の全てを受け入れている訳じゃない」
「またいつもの悪口かよ……」
「違うわ。友人としての忠告よ」
「いつ友達になったんだよ……」
「はぁ……」
橘さんはまたまたまたため息をついた。
そんなにため息をつくと幸せが逃げるだろうに。
「とにかく、今のあんたは物事の判断もろくにつかなくなってる。だから相手のこともちゃんと見れてない」
「そんな事ないよ」
「あんたさ、智代の事一度でも精神病患者として見たことある?」
「あるよ」
「嘘言わないで」
「本当だよ」
「あんた智代の事、単に可愛いいい子としか思ってないでしょ?」
「そんな事ないよ。っていうかさっきから何?橘さんって差別主義者?」
「そういうことじゃなくて、私が言いたいのはちゃんと相手の欠点も見定めなさいってこと」
「橘さんの性格の悪さに比べたら、片桐さんの病気なんて大したことないよ」
「え……」
僕がそう言うと、橘さんは眼球が飛び出そうなくらい目を大きく見開き驚いた。
「あんたそれ……、本気で言ってるの……?」
流石にキレた?
「まさかと思うけど……、あんた、あの子が私やあんたよりもよくできた人間だって、本気でそう思ってるの……?」
「え……?あたりまえじゃん」
「本気なの……?」
「そうだって言ってるでしょ」
「あんたいくらなんでも視野が狭くなり過ぎでしょ……。でなきゃそんなバカな事、言える訳がないわ……」
「さっきから何?喧嘩売ってるの?」
「だからそういうことじゃなくて……、ああ、もう!わかんない?」
橘さんの不透明な態度を見ていると、なんだか猛烈に腹が立ってきた。
「あの子は確かにあんたから見たら優しいいい子かもしれない。でもあの子がバカなメンヘラ女だって事は疑いようのない事実なのよ?」
「片桐さんはバカじゃない……」
「わざわざ毎日変なコスプレして、好きでもない萌えアニメ必死になって勉強して、美少女アニメのヒロインみたいなわざとらしいキャラ繕って、それで好きな男に取り入ろうして、無理が祟って勝手に壊れる。こういうの世間じゃバカって言うのよ」
片桐さんの悪口を言われたその時、僕の血液が沸騰しそうになった。
「片桐さんの事悪く言うなよ!」
気がつくと僕は大声で橘さんを怒鳴っていた。
「……………………」
橘さんは僕の恫喝にビビったのか、しばらく黙っていた。
「あ……、ごめん……」
僕はすぐさま謝罪した。
以前の合コンの時のような事は、もう御免だと思ったからだ。
「今のあんた……、まるで椿みたいだった……」
「……………………」
橘さんからの思わぬ発言に、僕の思考は固まった。
「どういう意味だよ……?」
「あんたは恋に落ちるあまり視野がかなり狭くなってる。だからこんな簡単な事にも気づいてない」
「何が言いたいんだよ……?」
「実際あんたにとって智代は凄くいい人なんだと思う。あんたに優しくしてくれるし、あんたの事を絶対に傷つけないし、あんたの事を肯定してくれる。そんな相手を好くのは自然な事だし、私だってそれについてとやかく言うつもりはない」
「だったら別にいいじゃん……。放っておいてよ……」
「あんたは自分にとって都合のいい所だけを見て、智代の事を理想の女性だと思い込んでる。でも智代の短所や欠点からは全部目を逸らしている」
「いい所を見て、何が悪いんだよ……?」
「そこんところ履き違えてると、間違いなく後悔するわよ」
「後悔……?」
橘さんの言葉の意味が、僕にはぜんぜんわからなかった。
「あんただって、正直前に智代のしていた変なキャラ付けは無理があるって思ってたでしょ?」
「思ってたけど……」
「事実、あんな事してたせいで智代は無理が祟って不登校になったんじゃない」
「だからそれは直樹と橘さんのせいで……」
「確かに前に智代がイカれて暴れた事は私と直樹のせい!私たちが悪い!でもだからって、普通じゃあそこまで壊れない」
「確かにそうかもしれないけど……」
「あんた、今の自分が前の私たちと同じになってるって事に、気づいてる?」
「同じ……?」
「今のあんたは、直樹に依存しきってた頃の私と何も変わらないわ」
「…………」
橘さんの発言の意味が、僕にはさっぱり理解できなかった。
「今までのあんたは、この世の人間全てが敵に見えていた。だからこの世には自分の居場所なんてないと思っていたんでしょ?」
「それがなんだよ……」
「でも智代だけは違った。だからあんたは、智代だけは自分の存在を認めてくれるって思ってる。智代だけは自分の心にあいた穴を埋めてくれると思っている」
「それがどうしたって言うんだよ……」
「あんたはこう思ってる。智代はこの最悪な世界の中でも、唯一自分の事を救ってくれるって。そう思うから依存するの」
「依存……?」
「誰だって辛い時に優しくされたら案外コロリと行くものよ。だから依存するの。私も椿も智代も、そしてあんたも」
「…………」
橘さんの発言の意図が、なんとなくわかってきた……。
「とどのつまり、あんたは智代に守ってもらいたいんでしょ?」
「…………」
「でもよく考えて。智代がそんなに強い子に見える?」
「そんなこと……、わかってるよ……」
「本当に?」
「………………」
僕は黙った。
「今のあんた、ハッキリ言って感動ポルノの方がまだマシよ」
橘さんはそう告げながら女子トイレの中へと入り、僕の元から去っていった。
僕はその場に立ちすくみながら、先日片桐さんに言われた運命の人についての話を思い出していた。
片桐さんは言っていた。
辛い現実を生きている人が、自分の存在を肯定してくれる人に出会えたら、その人の事を運命の人や王子様や救いの神様等と思い込むようになり、その人が自分を救ってくれる人であるという妄想に囚われると。
僕にとっての片桐さんはまさに辛い現実を一変させてくれる救いの女神であり、まさしくそれこそが片桐さんの言っていた妄想に囚われている状態だと呼べるのかもしれない。
だから橘さんは、僕の事をイカ臭いって思ったんだ。
「でも、好きになっちゃったんだから、しょうがないじゃん……」




