7話 人生最高の日
「ごめん!そんなつもりじゃ!」
僕は咄嗟に手を振りほどこうとしたが、片桐さんは両手で優しく握り続けていた。
「そんな大した事ですか?」
僕の間近で片桐さんが問いかけてきた。
「僕にとっては、大した事だよ……」
呼吸が荒くなる。
「手、結構ゴツゴツしてるんですね」
「そ、その……、ジムに、行ってるから……」
声が震える。
「ちゃんと自分磨きしてるんですね」
「そんなんじゃ、ないよ……。惰性、だし……」
凄く、ドキドキする……。
「今更になって気付きましたが、強さん、結構筋肉あるんですね」
「そ、そう……、かな……?」
なんだろう。この胸の高鳴りは……。
今まで片桐さんとは何度もずっと話してきたし、最近はずっと一緒にいた筈なのに……、
なんだろう。この感覚は……。
「その……、男の手なんて、日頃何触ってるかわからない訳であって……」
「そんなの私だって同じじゃないですか」
「いや、そういうのじゃなくて……。その……、僕が普段何触っているか、ちゃんとわかってる……?」
「ナニですか?」
片桐さんは笑いながら聞いてきた。
「いや、そうだけど……」
「私だってよく触ってるんでお互いさまです」
「……うん」
「折角だから、このまま一緒に歩きましょうか」
片桐さんは僕の右手をしっかりと握り、僕と肩を並べ、僕とまったく同じ歩幅で歩いてくれた。
片桐さんの手は小さくて柔らかくて、とても温かかった。
これだけ片桐さんと密着した事はなかったので今まで意識した事はなかったが、片桐さんから甘い匂いがしていた事に気付いた。
香水なのか化粧品なのかシャンプーの匂いなのかよくわからなかったが、とにかくずっと嗅いでいたいと思ってしまうほどのいい匂いだった。
多分女の子の匂いって奴だと思う。
そんな風に変なことを考えてたせいで、僕の手は汗でいっぱいになっていた。
当然のごとく、繋いでもらっている片桐さんの手も僕の手汗でびしょびしょになっていた。
「気持ち悪いでしょ……」
「はい?」
片桐さんは何食わぬ顔で首を傾げた。
「汗……、かいてるから……」
「汗?誰だってかくじゃないですか」
「そうだけど……」
「生理現象を気持ちがるなんて、人としてどうかしてますよ」
この人はなんていい人なんだろう……。
今だけじゃない。片桐さんはこんな僕にいつだって優しくしてくれた。
こんないい人今まで会った事がない。
こんないい人他にいる訳がない。
この人以上に素敵な人なんてこの世にはいない。
いや、ラノベで見る異世界にだっていないにきまっている。
「ねえ、強さん……」
僕がそんな事を思っていた時、片桐さんはおもむろに尋ねてきた。
「椿さんは、こんな事ですらしてくれなかったんですか?」
「え……?」
「こんな事すらさせてくれないような彼女と付き合って、一体何になったんですか?」
正直、今は小鳥遊さんの事なんてどうでもよかった。
片桐さんの体温を、ずっと感じていたい。
「椿さんは強さんの望む物を与えてくれたんですか?そもそも、強さんは何がして欲しくて椿さんと付き合ったんですか?」
今日みたいな事。と言おうと思ったが、あまりにも恥ずかしかったのでやめた。
「僕はただ、僕を軽蔑しないで大事にしてくれる相手と付き合いたかっただけだよ……」
「大事に、ですか……」
「みんな僕が苦しんでいても悲しんでいても無視するし、酷い奴は笑ったりもする……」
だからこんな事をされたのは勿論初めてだし、ましてや女の子にここまで親切にされた事は一度もない。
「みんな僕を軽んじる……。無視して、傷つけて、嘲笑って、馬鹿にする……。誰も僕を好きにならないし、皆僕なんかどうでもいいって思ってる……。でも仕方ないよ……。僕、そういう人間だから……」
「強さんは、そんな人間じゃありませんよ」
「…………」
凄く、嬉しい。
今まで僕は、片桐さんは僕と同じ側の人間だと思っていた。
僕と同類だから親しくしてくれるし、僕と同類だから優しくしてくれる。そう思っていたんだ。
でも僕は気付いた。
片桐さんは誰よりも素晴らしい人だ。
この世の誰よりも僕に優しくしてくれる。
今までの僕の短い人生の中で、こんなに優しくされた事なんて一度もない。
そして今後これだけ優しくしてくれる人はきっともう二度と現われないだろう。
「世の中、そんな酷い人ばかりじゃありませんよ」
片桐さんは、笑いながらそう言ってくれた。
今日は人生最高の日だ。
僕の今までの人生は散々だった。
だから生きてればきっと、今までの不幸を覆すくらいの幸せがやってくると思っていた。
というか、思おうとしていた。
そうでも思わないとやりきれないからだ。
だからある日突然、嘘みたいなサプライズが起き、自分の人生が見違えるほど変わる瞬間がきっと来ると、そういう妄想に身を委ねていた。
異世界に召喚、或いは転生しチートスキルを駆使し美少女ハーレムを築く。
突然学校にテロリストが攻めてきて、その時僕に秘められたチートスキルが覚醒し、美少女に惚れられる。
並行宇宙で僕と恋人だった美少女が現われ、僕と付き合う事になる。
そんな感じの自分にとって都合のいい妄想的展開を、僕はオタクをやめてもなお心のどこかで望んでいた。
でもやっぱり妄想は妄想。
それが現実になるなんてある筈がない。
現実は常に無情で理不尽で、嫌な事に満ち溢れている。だから僕にとって都合のいい事が起きるなんてありえない。
そんな展開は妄想の世界にしかないと、ずっと僕は思っていたんだ。
でもその妄想が、現実になった。
今までの僕の悲惨な人生を一変させる嘘みたいなサプライズ。
それが今だ。
チートスキルはもういらない。
ハーレムだって築けなくていい。
もうトラックに轢かれて異世界に行きたいだなんて思わない。
僕はもう二度と、死んで生まれ変わって別の人生をやり直したいとも思わない。
僕は今、最高に幸せだ。
この人と一緒に過ごす時間は何よりも貴い。
もうこの人以外に誰もいらない。
片桐さんさえいてくれれば、僕は満足なんだ。
片桐さんと一緒にいることさえ出来れば、それだけで僕は幸せだ。
今になってやっと気づいた。
僕はこの人が好きだ。
いつ好きになったのか自分でもよくわからないけど、僕はずっとこの人の事が好きだったんだ。
*
僕の人生の全盛期はこれで終わりだ。
もう上がるところまで上がった。
だから後は下がる一方だ。
皆さんに前回片桐さんが言っていた台詞を思い出してほしい。
人生は悪い事ばかりは何故か狙ったように重なるが、いい事なんてまず起きない。
いい事はまず重ならないし、そのいい事もその後必ず起きるもっと悪い事の前触れ。
少なくとも、今までの僕と片桐さんの人生はずっとそうだった。
だがここ最近の僕は、不自然なくらいいい事ばかりの日々が続いていた。
だから間違いなく、これらのいい事全てを帳消しにしてしまう程の悪い事が起きる。
少なくとも、今までの僕や片桐さんの人生の法則に当てはめると、そうなるのが当然だ。
でも僕たちは、そんな事はもう起こりえないと自分に言い聞かせ、ただの杞憂であると信じようとした。
今まで僕たちの人生は辛く苦しい事ばかりだった。
だからこれから先は明るくて楽しい事ばかりになる筈だ。
そうなってもおかしくはない。むしろそうなるのが自然だ。
だってそうだろ。そうじゃないと理不尽じゃないか。
こんな最低最悪の人生を歩んできて、やっと手にした幸せまで失うなんてあり得ない。
だからもう、嫌な事なんて起きないんだ。楽しい事しか起きないんだ。
これからずっと、二人でこうやって楽しく笑って生きていけるんだ。きっとそうだ。そうに決まっている。
そう思いこもうとしていたんだ。
そう信じたかったんだ。
そう信じるしかなかったんだ。
この先僕たちを待っているのが、かつて経験した事もないほどの深い闇だと、この頃の僕たちはまだ知らなかった。




