11話 深愛
トイレで小一時間ほど泣いた後、僕は普段通りに授業に参加した。
だが授業の内容はまったく頭に入らなかった。
授業の時も休み時間の時も、僕はただ茫然としていた。
食欲が湧かなかったので昼ご飯も食べていない。
休み時間や昼休み中、小鳥遊さんに浮気された事を吉田達やそれ以外の大勢の生徒から何度もからかわれたような気もするが、正直記憶が曖昧であまり覚えていない。
その日一日中、僕はひたすらとぼーっと過ごしていた。
そして気が付くと放課後になっていた。
学校を出た僕は、まっすぐあの人の家に向かった。
*
みんな僕が辛い目に遭っていても、誰も僕を心配しない。
みんな僕を嘲笑うか、無視するかのどちらかだ。
僕がどんな事で悩んで苦しんでいるかなんて殆どの人が興味を持たないし、興味を持つ人も物笑いの種にするくらいの事しか考えていない。
だから僕がこんなに辛い目に遭っていても、誰も僕に何もしてくれない。
生徒も先生も、バイト先の嫌な先輩もお客さんもウザいクレーマーも、昔親友だった奴もその彼女も、その辺の人達も親も、僕がどんなに辛い目に遭おうと、誰も僕に同情なんてしてくれない。
この世界における僕の存在価値はその程度なんだ。
でもあの人は違う。
あの人だけは僕の話を聞いてくれる。
あの人だけは僕の事をわかってくれる。
だからあの人ならきっと僕に同情してくれる。
あの人は今まで何度も僕の相談に乗ってくれた。
あの人はこの世でただ一人だけ、僕に優しくしてくれた。
あの人は他のみんなとは違う。
あの人はいつも僕を庇ってくれる。
いつも僕に優しくしてくれる。
親友も友達も教師も親でさえ見捨てた僕を、あの人だけは見捨てなかった。
だからきっと、今回の事を話せばあの人はきっと僕に優しい言葉をかけてくれる。
きっと僕を慰めてくれる。
あの人に会いたい。
あの人にあって慰めてもらいたい。
僕に優しくしてくれるのは、あの人だけだ……。
彼女の自宅の前に到着した僕は、インターホンを押そうと指を構えた。
その時、僕はふと我に返った。
「何やってるんだろう……。僕……」
好かれていないってわかっていた人と、他に相手がいないからって楽しくもないのにズルズルと付き合って、辛くなったからって自分勝手な理由で距離を置いて、そしたら案の定浮気されて、何から何まで自分のせいなのに……。
こんな時に悲劇の主人公を気取って、片桐さんに縋るなんて、自分が情けなさ過ぎて涙が出てくる……。
「最低だよ……、僕……」
僕はその場で静かに呟いた。
*
片桐さんはアニメやラノベのヒロインとは違う。
都合のいい時に、僕の望む事をしてくれる都合のいいキャラクターじゃない。
悩んで、困って、傷ついて、我慢して、落ち込んで、怒って、泣いて、嘆く。僕と同じ一人の人間だ。
片桐さんだって傷ついてる。だから僕を慰められる訳がない。
だから僕がしてもらいたい事を、片桐さんに要求するのはただの僕のエゴという物だ。
その上、今回の事態は全面的に僕が悪い。
僕が片桐さんに優しい言葉をかけてもらいたいと願うのは、いくらなんでもおこがまし過ぎる。
ここ数カ月、僕は辛い事がある度に片桐さんに会いたいと思っていた。
でも僕はあの日以来、片桐さんには一度も会っていない。
何故なら、片桐さんは僕に唯一優しくしてくれる人だからだ。
片桐さんはとっても優しい。
僕が今までの人生の中で出会ってきた誰よりもいい人だ。
だからきっと僕は、僕自身の承認欲求を満たす為に片桐さんの優しさに甘えてしまう。
そしたらきっと片桐さんに迷惑をかける。
片桐さんはあの日、僕が励ましても依然として学校を休み続けた。
理由は片桐さんの心の傷がそれだけ大きく、片桐さんは僕との傷の舐め合いなんて望んではいなかったからだろう。
だから片桐さんは僕の言葉で立ち直ることはなかったのだ。
それなのに、全面的に僕が悪いこの状況で傷心の片桐さんに会いに行って、僕が片桐さんに同情される事を求めたら、きっと彼女を困らせることになり、嫌な思いをさせる事になっていた。
それに気づいた僕は、ギリギリのところで引き返す事にしたのだ。
でもやっぱり、僕の心の中に渦巻いているモヤモヤは拭えない……。
*
それから何時間か経った。
怒ったらいいのか、悲しめばいいのか、それすらもよくわからない僕はせめてもの気晴らしとばかりに、宛てもなく町を徘徊していた。
今は何もする気が起きないので、バイトは仮病でサボった。
とてもじゃないが今は先輩やクレーマーの小言を聞く気分にはなれない。
それに家にもなんだか帰りたくない。
アニメは完全に熱が冷めたから家にいてもどうせやる事がないし、なんとなく家族とも顔を会わせたくない。
僕が部屋で1人寂しくクジラックスでオナニーしてた時も、小鳥遊さんは大好きな直樹とホテルでヤりまくってたと思うと性欲も湧かない。
だからオナニーする気も起きない。
ふとスマホを見ると、普段のバイト終わりの時間をかなり過ぎていた。
僕がこんな夜遅くまで出歩く事はない。
そろそろ家に帰らないと流石にヤバい時間だ。
これ以上外をうろつけば、パトロール中のお巡りさんに本気で補導されかねない。
でも僕の親は電話すらしてこない。
子供が家にも帰らず夜の街を徘徊している訳だが、僕の親はそんな事程度じゃ心配しないという事くらい僕が一番よく知っている。
別にこういうのは今に始まった事じゃないけど、これではやはり僕という存在はこの世に必要のない人間なのだろうかとますます思ってしまう。
「はぁ……」
僕はまたしても大きくため息をついた。
最近こんな事ばかりだ。
そりゃ今回の事は僕が悪い。
僕がもっと意思を強く持っていればこんな事にはならなかった。
でもやるせない事ばかりが重なって、この世界からいなくなりたいという気持ちがどんどん強くなっていってしまう。
そこで走っているトラックにひかれれば、僕の事を好いてくれる美少女がいる都合のいい異世界に行けるかもなんてくだらない妄想をついしてしまう。
その手の作品は全部嫌いになった筈なのに……。
いっそのこと、今まで起きたすべての事が夢だと思う事が出来れば納得出来るだろうに……。
もしも今までの事が全部夢なら、橘さんに精液の事で脅されることもなかったし、友誼部なんてバカな集まりにも関わらずに済んだし、片桐さんが暴れることもなかったし、僕が小鳥遊さんと交際する事もなかったし、こんな悲惨な目に遭うこともなかった。
そうだ。これは夢だ。
全部夢なんだ。
嫌な事は全部夢。
そうだ。そう思おう。
あれ?でも嫌な事が夢なら、ほぼ嫌な事で埋まっている僕の人生は全部夢って事?
学校で虐められたのも?
伊織との出会いも?
モエって嫌なあだ名付けられたのも?
クラスのリア充にアバラ二本折られて教師や親達にもその事無視されたのも?
吉田達に毎日嫌な事言われてるのも?
女子達にキモがられてるのも?
これら全部夢?じゃあ僕の本物の人生ってなに?
やはりこんなバカげた現実逃避した所で、どうやっても僕の現状は何もかわらない。
僕の現状はこの有様だ。
どんな形で現実逃避しようと、この事実は決して変わる事はない。
「はぁ……」
僕はまたしても大きなため息をついた。
その時だった。
僕が通りかかった公園の中から、なんだか凄く聞き覚えのある頭の悪そうな歌声が聞こえてきた。
橘さんだ……。
橘さんが公園の滑り台を延々と滑りながら、水樹奈々の深愛を歌っていた。
つーか、まだ秋だし……。
ってか歌下手……。
何故橘さんがこんな所で滑り台を滑りながら深愛を歌っているのか僕は疑問に思った。
それにこのままじっと見ているのも難だったので、僕は橘さんに話しかける事にした。
「あの……、何やってるの……?」
「負けたヒロインはこうする宿命なのよ……」
何言ってんだこの人。




