10話 感謝
吉田達の話を聞き急いでA組の教室に入った僕は、すぐさま小鳥遊さんの元へと駆けつけた。
週一の下校と月二のデート以外の時に話しかけると小鳥遊さんは本気で嫌な顔をする。その上僕たちは今は距離を置いている状態だが、そんな事はこの際どうでもいい。
僕にはどうしても小鳥遊さんに問いただしたい事があったのだ。
憤る僕とは対極的に、小鳥遊さんは何食わぬ顔で机に参考書を広げて勉強をしていた。
「どういうことだよ……」
机の前で僕がそう言うと、小鳥遊さんはペンを止めた。
「ああ、モエ君」
小鳥遊さんはいつも僕を見るときまって不機嫌そうな顔をする。
だが今日の小鳥遊さんの表情は、何故かとても嬉しそうだった。
「あれ……、本当なのかよ……」
「あれって?」
「ラブホテル……、入ったって聞いた……」
「うん、そうだよ」
小鳥遊さんはまったく悪びれる様子もなく肯定した。
「どういうことだよ……」
「どういうことって?」
「相手……、誰だよ……」
「相手?」
「一緒に入った相手、誰だよ……?」
「直樹くんだよ」
小鳥遊さんは無邪気に告げた。
「は……?」
それを聞いた時、僕は唖然とした。
「なんで……」
「直樹くんと付き合ったからだよ」
「彼氏……、僕だよね……?」
「そうだね」
小鳥遊さんは僕に対する謝罪の言葉を一切出さず、無慈悲な言葉を僕に投げかけてきた。
「なにそれ……」
「なにって?」
「なんなのあんた……」
「どうしたの?」
小鳥遊さんは、何故僕がこの場でこんなに悲しそうな顔をしているのか、まったく理解していない様子だった。
「っていうか……、直樹、橘さんと付き合ってたよね……?」
「そうだね」
「じゃあなんで小鳥遊さんと付き合ってるの……?」
「別れたから」
「は……?」
「直樹くんね、小夜と別れたの」
「え……?」
僕には小鳥遊さんの発言の意味がさっぱりわからなかった。
「どういうこと……?ちゃんと説明してよ……」
「うん、いいよ」
小鳥遊さんは表情一つ変える事なく、僕に淡々と真相を告げ始めた。
「直樹くんね、本当は小夜と付き合いたくなかったみたい。でも無理やり小夜が迫ってきて、それで仕方なく付き合ったみたい」
仕方なくだって……?
「一緒に住むのも付き合うのも、本当は嫌だったけど、直樹くんは小夜に申し訳ない事したって思ってたから、断るに断れなかったんだって」
断るに断れない?
あんなに楽しそうに一緒にアイスを食べてたのに……?
「あたしね、あの後直樹くんに電話したんだ。あたしは直樹くんの言いつけをちゃんと守っているのに、どうして直樹くんは小夜と付き合っているのって」
言い付けってなに……?
「直樹くんはあたしの事が好きなのに、どうして小夜と付き合ってるのって聞いたら、直樹くんは本当の事を教えてくれたんだ。だからあたしも言ったの」
言ったって何を……?
「あたしは直樹くんの言いつけをちゃんと守ってる。直樹くんの為に嫌なことも沢山我慢してるって。今でも直樹くんの事が大好きだって」
だから言い付けってなに……?
「あたしはね、直樹くんに伝えたんだ。あたしがどれだけ嫌な思いをしていて、直樹くんの為にどんな事をしているかを。それでね、もっと嫌な事をしたら直樹くんはあたしの事を認めてくれるのかって聞いたの。そしたら直樹くん言ってくれたんだ。会いたいって」
なに言ってるのこの人……?
「でもほんの少しだけ思ったよ。モエ君と一緒にいる内に、モエ君の事を好きになれるんじゃないかって。でもやっぱり好きになれなかったよ。それどころかもっと嫌いになるだけだった。やっぱり気持ち悪いもん」
さっきからなにを言っているんだこの人は……?
「やっぱりね、あたし直樹くんのことが大好きだって改めてわかったの。だからね、今までよりもっと直樹くんと結ばれたいって思ったの。でもね、モエ君のお陰で直樹くんがあたしのことを認めてくれたんだ」
僕のお陰ってなに……?
「あたしは直樹くんの言いつけをちゃんと守ったから、直樹くんはご褒美をくれたの」
「ご褒美って、なに……?」
「抱いてくれたの」
小鳥遊さんは幸福感に満ち溢れた表情をしながら僕に言った。
「ねえ、聞かせてよ……。どうして今まで僕と付き合ってたの……?」
「そんなの決まってるでしょ?」
「わからないよ……。教えてよ……」
「直樹くんがそうしろって言ったからだよ」
その言葉を聞いた時、僕の頭の中にかつて経験した事のない感情が渦巻いた。
怒り、嘆き、絶望、衝撃、嫉妬、虚無感、嘲り、忌々しさ、裏切り、恥辱、醜さ、失意、 恨み、妬み、苦しみ、憎悪。
それらのどの言葉を駆使しようと、今のこの気持ちは形容できない。
「モエくんがあたしに沢山嫌な思いをさせてくれたから、直樹君と付き合えた。直樹くんはあたしの事を選んでくれた」
「なに……、それ……」
「直樹くんは小夜とも別れてくれた。小夜に取られた直樹くんが、あたしのところに戻ってきてくれた。これも全部モエ君のお陰だよ」
「なにを……、言ってるの……?」
この人の発言の意図が、僕には本気でわからなかった。
「モエくんには本当に感謝しているんだよ」
今日僕は、小鳥遊さんに初めて感謝された。
ご飯を奢っても、映画に連れて行っても、車道側歩いても、お喋りしていても、何をしようと一度もありがとうなんて言ってくれなかったのに、僕は今小鳥遊さんから初めて感謝の言葉をもらった。
小鳥遊さんの態度からは一切の邪念を感じなかった。
まさに誠意100%の感謝だった。
僕は大好きだった小鳥遊さんに初めて感謝されたことになる。
でも何故だろう。
全然嬉しくない。
「ありがとう」
小鳥遊さんは満面の笑みを浮かべ、僕に感謝の意を示した。
その瞬間、五寸釘を刺されたかのよう痛みが僕の胸に走り、僕の目元から濁流のように涙が溢れてきた。
僕は壊れた洗濯機の様な声を発し、全力で走りだし、脇目も振らずその場から立ち去った。
*
『何このクソビッチ』
『ヒロインが他の男とヤる話なんてもう読まねえよ』
『他の男で処女喪失とかないわー』
等と思った人。安心してくれ。
直樹と小鳥遊さんが一緒にラブホテルに入っていたという事は、当然小鳥遊さんはヤることを最後までやったということだ。
確かにこの物語のヒロインである小鳥遊椿さんは、僕の知らない所で非処女になっていた。
でも何も問題はない。
何故ならこの物語の主人公はあくまでも直樹だからだ。
そして主人公の直樹はヒロインである小鳥遊さんと性行為に及んだ。
主人公が攻略完了したヒロインとヤる。それはハーレム物に置いて当然の事なのだ。
例え小鳥遊さんが直樹と何回ズコバコしようと、直樹のチンポを何回しゃぶろうと、小鳥遊さんの放漫なバストで直樹のナニをいくらシゴこうと、小鳥遊さんが直樹の精液を何リットル飲もうと、中出しセックスを何回楽しもうと、小鳥遊さんはハーレム物のヒロインとしては何も間違った事はやっていないのだ。
小鳥遊さんは僕とは手すら繋いでいない。だからこれはNTRですらない。
小鳥遊さんが股と心を開いたのは、この物語の主人公である直樹だけだ。
だから僕がどれだけ辛い思いをしようと、僕が授業にも出ずトイレの個室に籠って惨めにギャーギャー泣くことになろうと、僕の女性観が激しく歪む事になろうと何も問題はないのだ。
小鳥遊さんの行いは、ハーレム物のヒロインとしては何も問題はないのだ。
そう。問題なんてないんだ。
問題があると感じているのは、僕だけなんだから……。
正直、いつかこんな日が来ると思っていた。
そりゃ僕だって、付き合っている内に小鳥遊さんが僕に対して心を開いてくれるだなんて、そんな甘い期待を一切していなかった訳ではない。
僕の小鳥遊さんに対する好意が失せつつあったのは事実だ。
っていうか、大分前から失せていたような気がする。
でも流石に、ここまで最悪な形で一方的に別れを切り出されるとは思わなかった。
よりにもよって、ここまで僕が絶望に打ちひしがれるような方法で別れなくてもよかっただろうに……。
何故かいつも、僕ばかりがこんな目に遭う。
僕は何も悪い事なんてしていないのに、いつも僕の身にばかりロクでもない事が振りかかる。
一体僕の何が間違っていたと言うのだろうか……。
僕が身の丈に合わない相手を好きになったのがいけなかったのだろうか……?
それとも僕みたいな駄目人間が人並みの幸せを望んだのがよくなかったのだろうか……?
でも幸せになりたいと願う事はそんなにいけないことなのだろうか?
やはり今の僕には何もわからない。
直樹がなんで橘さんと別れたかもよくわからないし、小鳥遊さんが直樹と付き合った経緯だってわからない。
それ以外にもわからない事は山ほどある。
僕の周りはわからないことだらけだ。
たった一つ言える事は、小鳥遊さんにとって、僕との交際は全部直樹と付き合うための苦行だったという事だけだ。
僕と小鳥遊さんの交際は、言ってしまえば教祖である直樹が信者である小鳥遊さんに与えた修行のようなものだった。
小鳥遊さんにとっての僕との交際は、キリスト教徒が日曜日に教会に行ったり、イスラム教徒が信心するために断食するのと何も変わらなかったのだ。
そして小鳥遊さんは無事に修行を終え、大好きな直樹と結ばれる事ができたのだ。




