14話 マイ湯呑
その日の部の活動は既に終わっていたが、橘さんに呼び出された為僕はしぶしぶ部室へと引き返す事になった。
部室に入ると橘さんは座布団の上で寝転がってくつろいでいた。
「ああ、モエ。来たのね」
橘さんは寝転んだままの状態でお尻をかきながら僕の方を見た。
「話って何?」
「ねえ、モエ。もしも童貞や処女のまま二十過ぎたら殺処分されるような世の中だったら、あんた間違いなく処分対象よね」
橘さんはまたしても何の脈略もなく凄まじく酷い事を僕に言い放った。
この手の突拍子もない事を言われるのはいつもの事だがやっぱり腹が立つのには変わらない。
「そういう橘さんはどうなんだよ……?」
「私には直樹がいるから」
「小鳥遊さんに直樹を取られたらどうするの?他の相手を探すの?」
僕がそう言うと橘さんは眉をしかめた。
「それにしても、あんた普段皆といる時は黙ってるのに、二人になると少しは喋るわね」
「僕だってちょっとは慣れるよ」
僕は所謂コミュ障だが最低限の受け答え程度は出来る。だから二人きりの状態なら多少は喋れるようになるのだ。
「モエ、あんた最近調子に乗ってない?」
本当にウザいなこの人。一体僕がどんなふうに調子に乗っていると言うのだろうか。
「まあいいわ。本題に入るわ。最近効果が薄いのよ」
「薄いって何が?」
「小鳥遊椿よ。折角キモいあんたを入部させたのに、あいつ部活をやめないのよ」
だったら僕はお役御免だな。なら早く僕の自主退部を認めてくれ。
「今日だっていかにもモエが好みそうなキモいオタク向けアニメを皆で鑑賞して、それを見て興奮しているキモいモエを小鳥遊椿に見せつけて、嫌な思いをさせて自主退部に追い込む作戦を実行したけど上手くいかなかったわ」
「ジュラル星人並みにまどろっこしい作戦だなあ……」
「あんたなんで四十年以上も前のアニメなんて知ってるのよ?どうせニコニコで知ったからでしょ?キモオタの上にニコ厨とか本当キモいわ」
ここまで来るともう突っ込む気すら起きない。
「いっそのこと、あんたがあの時みたいにキレてくれたら面白かったんだけどねえ」
新人歓迎会の翌日に行ったこの世の不思議探索の事を触れられ、僕は顔をしかめた。
「好きなアニメをディスられて、それでブチギレるキモオタとか最高に気持ち悪いじゃない。そんなみっともない光景を見たら小鳥遊椿はきっと部活をやめたくなっただろうに……。本当あんたには残念よ」
毎度思う事だがこの人本当に性格悪い。
「あんたをそれとなく小鳥遊椿の隣に座らせたり、あんたに小鳥遊椿と雑談しろって振ったりしてきたけどね。一応嫌そうな顔はしてるけど、どうも最近あんたのキモさにも若干慣れつつあるみたいなのよ、あいつ」
それは素直に喜ぶべきなのか迷う事態だ。
「だったらもう僕部活やめていい?役に立ってないんでしょ?」
「それはダメ。いないよりいる方がまだマシだから」
「そうかよ……」
「でもあまり派手な事をやると私に対する直樹の好感度が下がるしねえ……」
僕の橘さんに対する好感度はとっくの昔に地に落ちている。
「どうしようかしらねえ。あんた、何かいい知恵ない?」
「ないよ」
「なんかあるでしょ。私の手を極力汚さず、小鳥遊椿に精神的苦痛を与えて、あいつが直樹に二度と付きまとわらなくなるような最高の嫌がらせの方法」
そんな都合のいい嫌がらせがあるものか。
「そうだモエ。あんた、小鳥遊椿をレイプしなさい」
「嫌だよ」
「なんで?あいつの事好きなんでしょ?だったらさっさと犯しなさいよ」
「相手の合意もなくそういう事をするのは犯罪だから」
「法律が許さなくても私が許すわ」
「橘さんが許そうと犯罪は犯罪でしょ。それ以前にレイプは人としても最低な事だよ」
「キモオタの分際で常識語らないでよ。気持ち悪いわ」
あんたはもっと常識を知ったらどうなんだ。
「はぁ……、今すぐ小鳥遊椿が車にひかれて事故死しないかしらねえー。ただ死ぬだけじゃなくて、性犯罪に巻き込まれて穴という穴全部犯された上で殺されればいいのに」
小鳥遊さんじゃなくて橘さんが今すぐ死ねばいいのに。
「なーんであんなウザい奴が私の直樹に付きまとってるのかしらねえ」
僕的には橘さんの方が遥かにウザいです。
「あのさ、愚痴が言いたいだけなら僕帰ってもいい?帰って取り溜めしたアニメ見たいんだけど……」
「なによあんた。女の子とお喋りするより家に帰ってアニメが見たいの?本当あんたって救いようのないキモオタねえ」
救いようのないのはあんたの方だろうが。
直樹はなんでこんな人と仲良くしていられるのか本気で疑問だ。
そもそもこの人はなんでここまで直樹に固執するんだ?
「あのさ、ずっと前から聞きたかったんだけど……」
「なによ?」
「なんでそこまで直樹に拘るの?」
「なんでって、好きだからだけど」
「いや、だからなんで好きなの?」
「昔からずっと好きだったから」
「いや、だからなんで昔からずっと好きだったの?」
「幼馴染だから」
「いや、そうじゃなくてだから……」
「これだけ言ってもわからないの?あんたもしかしてアスペ?」
アスペはあんたの方だろうが。さっきから支離滅裂な回答ばかりしやがって。
「モエ、あんた親はいるの?」
橘さんは唐突に訳のわからない事を聞いてきた。
「いるけど、だから何?」
「そう。私には親がいないわ。だからあんたに私の気持ちなんて一生わからないわ」
訳わからないよこの人……。
*
翌日の放課後、僕はいつものように友誼部の部室に行った。
正直言うと行きたくないが、行かないと橘さんに呼び出されて面倒臭い事を沢山言われるから仕方がない。
部室に入ると橘さんがいた。
橘さんは不気味なくらい上機嫌で、鼻歌で森川由加里のShowMeを歌っていた。
「今日は橘さん一人なの?」
「小鳥遊椿は掃除当番。直樹と智代は先生に呼ばれて何かの手伝いをしてるみたい」
橘さんはニコニコと笑っていた。何かいい事でもあったのだろうか。いや、間違いなくロクでもない事を考えているのだろう。
「お茶をいれるわ。そこに座って」
お茶なんて僕がこの部活に入って以来一度も僕に入れてくれた事なんてなかっただろうに、一体何を考えているんだこの人は……。
「熱くなってるからゆっくり飲んでね」
何か変な物でも入れているのだろうか。と警戒しながら僕はお茶を飲んだ。
「どう?美味しい?」
「美味しいけど……」
「そう。それはよかったわ」
橘さんのその得体の知れない笑顔が怖かった。
やっぱり何か変な細工でもしているのだろうかと思いつつも僕はお茶を飲んでいた。
そんな時、部室の扉が開いた。
小鳥遊さんがやってきたようだった。
「ごめんね。掃除当番が長引いちゃって、遅れちゃった……、って、直樹くんは?」
真っ先に気にする事が直樹の事とは小鳥遊さんも小鳥遊さんで相変わらずである。
そんな小鳥遊さんに対し橘さんが言った。
「ああ、直樹ならいないわよ。先生に呼ばれて手伝いさせられてるって」
「なんだそうか……、急いで損しちゃった……」
小鳥遊さんも橘さんと同じで直樹だけが目当てでこの部活に来ている。
だから小鳥遊さんの目に僕の姿が映る事はないという事なんてわかりきった事である。
と思っていたら、小鳥遊さんは僕に語りかけてきた。
「え……、ちょっと待ってよ……。なにこれ……、あたしの湯呑だよ、それ……」
小鳥遊さんのとは一体どういうことなのだろうか?
混乱する僕と小鳥遊さんに対し、橘さんが告げた。
「ああ、モエにお茶をいれてあげたの。でもまだモエ用の湯呑は用意してなかったから、そこにあった椿の物を使わせてもらったわ」
「ちょっと待って?僕用?湯呑?なんのこと?」
「我が友誼部では皆それぞれ自分のマイ湯呑を持っているの」
「僕、初めて聞いたんだけど……」
「そりゃそうよ。初めて言ったんだもん。ほら、その湯呑の裏を見て」
僕は湯呑の裏を見て、小鳥遊という名前が書いてあったのを確認した。
この時、僕はさっきまでの橘さんの不敵な笑みの意味を理解した。
「ちょっと小夜!?なんて事するの!?」
小鳥遊さんは大声を出し橘さんに抗議した。
「なにこれ!これじゃもう使えないじゃない!」
「使えない事ないでしょ。洗えばいいじゃない」
そう言うと橘さんは僕の元から湯呑を奪い、飲みかけのお茶を流しに捨て、スポンジで湯呑を洗い、再びお茶をいれて小鳥遊さんの元へ出した。
「はい。これでもう大丈夫でしょ?」
「ふざけないでよ!大丈夫じゃないでしょ!これじゃ汚くてもう使えないでしょ!?」
汚い。その言葉に反応し、僕の胸にナイフで刺されたような痛みが走った。
「あんたこの前直樹の湯呑を間違えた時はそんな事言ってなかったじゃない?」
「あの時は……、違うの」
「なんで?直樹は良くてモエはダメなの?」
「だって……。とにかく!こんな物は早く捨てて!もう使いたくないから!」
「捨てるなんて勿体ないわ。あんたが使わないならこれは今からモエ用にするわ。モエもいいでしょ?」
よくねえよ。
「ちょっと小夜、やめてよ!そんな事しないで!お願いだから!」
「なんでそこまでモエを邪険にするのよ?同じ部活の仲間じゃない。酷い事言うわねえ」
あんたはどの面下げてそんな事を言っているんだ。
そんな時、再び部室の扉が開いた。直樹と片桐さんがやってきたのだ。
片桐さんは何故か安っぽいチャイナドレスを着ていたが、彼女のこの手のコスプレは今に始まった事じゃないし、もはやこの状況ではそんな事はどうでもよかった。
「よお、遅れて悪い」
「先生の手伝いをしてたら遅れました!」
「おいおい、お前が急に着替えたいってトイレに駆け込んだせいだろ」
「あはは!すみませーん!」
「毎日コスプレばかりして、智代は本当そういうのが好きなんだなあ」
なんて和気藹藹とした会話を直樹と片桐さんはしていたが、どうやら片桐さんの方はこの部室内に流れていた不穏な空気の正体に気付いた様子で、僕らに尋ねてきた。
「あの……、何かあったんですか?」
その問いに対し橘さんは真っ先に「椿がね、酷いのよ」と答えた。
「私がモエにお茶をいれようとしたんだけど、モエの湯呑がなかったから、とりあえず椿のを使ったのよ。そしたらそれを見た椿が『汚いー!』とか、『もう使えなーい!』とか、『今すぐ捨ててよおー!』って騒ぐのよ。酷くない?」
橘さんの言う事は事実だったが、小鳥遊さんの台詞の代弁だけ無駄にオーバーリアクションだった。
ってか、酷いのはあんたの方だろうが。と言いたかったが、僕は黙っていた。僕の矮小な会話力じゃこの状況がかえって混乱しそうだと思ったからだ。
「それ、本当なのか?」
直樹が真剣な眼差しで橘さんに聞いた。
「ええ、本当よ。しかも使わないならその湯呑モエにあげたらって言ったら『それも嫌ぁー!』って言うのよ。酷くない?」
だからどの面下げて言っているんだこの人は……。
「この前私が椿の湯呑と直樹の湯呑を間違えた時は何も言っていなかったのに、モエの時だけこれだけ嫌がるなんて酷いわよねえ」
どうしてこの人はここまで性根の腐った事を思いつくのだろうか。
「モエ、椿。本当なのか?」
直樹に尋ねられ、僕と小鳥遊さんは無言で頷いた。
「椿、モエに謝れ」
(はあ!?)
直樹のその台詞に、思わず声が出そうになった。
いつも僕がハブにされても何も言わない。僕が弄られても何も言わない。
そんな直樹がこんな時だけいい奴ぶって小鳥遊さんに謝罪を要求する。
これでムカつかない訳がない。
「ごめんなさい」
小鳥遊さんは僕に謝罪した。だがその謝罪にはまったく感情がこもっていなかった。
直樹にそうしろと言われたからやったと言わんばかりの態度だった。
なんで僕がこんな目に遭わないといけないんだ……。
僕がそう思っていたら、橘さんが僕の肩を叩いた。
『よくやったぞ』とでも言いたげな満面の笑みを浮かべ、橘さんはとても嬉しそうにしていた。
「すっかり空気が悪くなってしまったわね。気を取り直してゲームでもしましょう」
自分がこの空気を作りだした張本人にも関わらず、橘さんは何食わぬ顔でゲーム機の電源を入れた。
「あー!このゲーム四人用だったわ!一人抜けないといけなくなるけどどうしましょう!?」
橘さんはとても白々しい態度で叫んでいた。
この人もこの部活も、どこまで行っても僕を不愉快にする。