7話 美青年
何もないところから、意識がふっと浮かび上がる感覚を覚えた。
――久しぶりに何も夢を見ていない気がする。昨日あんな風に思ったからかしら?
昨日から続くこの変な気持ち。
いっそのこと館に務める母親に婚約の真相を聞けばいいのかっとも思った菫だった。しかし何故かその答えが怖い気がして、昨日もまた頼様の事は何も聞けなかったのだった。
さて今日は、いわば呉服屋の見習いとして菫が本格的に働く初日。
昨日選びに選んで選りすぐった反物をお客様と相談しながら決める商談の日でもある。
反物を打ち合わせの客間に綺麗に並びて、価格の確認、念のために反物と合わせる見本の帯たちの最終確認。
「そんなに緊張しないで大丈夫だよ、私も同席するんだから」
落ち着かずに客間を動き回る菫を見かねたのか、若旦那が安心するように声をかけて来た。
そんな彼のいつも通りの人好きする笑顔に少しほっと肩の力を抜いたところで「ようこそお越しくださいました。」と呉服屋の旦那の待ち人の訪れを告げる声が聞こえる。
今回は反物を選ぶのはは主人の趣向を十分に把握した使いの者が行うとの事だった。
中堅で長年仕えた側仕え来ると勝手に想像をしていた菫は、若旦那に連れられて入って来た年若い青年の姿に驚き固まってしまった。
年は菫と同じくらいだろう身長は若旦那より頭半分ほど低く、がっしりしている身体つきの彼に比べたら何処かシュッとした体型だ。
さらには人のいい若旦那の顔に比べると、少し釣り上がっている二重で切れ長の瞳とすっと通った鼻筋に薄い唇が少し冷たい印象を与える。しかし色素が薄く少し明るい茶色の髪と瞳がその印象を和らげ、綺麗と称されるのがぴったりの美青年だった。
そんな彼の目が菫の目を捉えると、まるでその瞳に吸い込まれるように引き込まれたのか更に固まったように菫は動かなくなった。
何故かぞくっと背中が震えた。
ーー緊張しすぎだわ。
そんな彼女の様子が可笑しかったのか、冷たかった造形を崩し青年は目元と口元を緩める。
微笑んだ青年は菫より若く見え、その笑顔に今度は心臓がドクドク動き始めて耳の中までにその音が反響する様だった。
「大丈夫かい、菫?」
そんな菫の様子に隣までやって来た若旦那が、心配そうな顔をして彼女の顔を覗き込む。
「すみません、緊張してしまって」
思わぬ助けに目を青年から外せたからか、菫はまるで正気に戻ったかの様に若旦那に強張った笑みを返した。
その様子に何かを思ったのか「困ったことがあれば僕が側で助けてあげるから、大丈夫だよ。」と何時もの様に笑みを浮かべる若旦那だった。
――また心配をかけてしまったわ。
自分の不甲斐なさに落ち込みながらもお客さんにも申し訳ないと青年をちらっと盗み見る。
すると先ほどの笑みが幻だったのではないかと思うほどの、恐ろしく無表情な顔が見えたのだった。
――えっ、見間違いかしら?
若旦那が仕切り直し青年に一級の茶と茶菓子を勧める傍で、さっきもお茶を含んだはずの口がいつの間にか乾からになっており自分用に用意していた2級の茶で口を潤すと菫は初仕事を始めるために口を開いた。
今回のために菫が用意した紫の反物は3つ。
菫はまず一つずつを実際に青年に反物を見せもらいながら、選んだ理由や帯の組み合わせによる印象の変化なども合わせて紹介して行った。
一つ目は紫の生地に、晴れ着にふさわしい金で鳳凰や花を濃い目の刺繍を施した大人の女性に似合う豪華な一点だ。
次に見せたのは薄い紫の記事に桃色・赤などの色とりどりの牡丹を染めあげた華やかで可愛らしさがある反物。
そして最後に紹介したのは、上の2点の中間色の様な抑えめの紫に白の小花が散ったもので良く言えば可憐だが悪く言えば地味なもの。
「先の2つとは随分違うものですね。
その反物を見せると、やはり青年もそう感想を漏らす。
「そうです。でも・・・」
そう言って菫は光のもとにその反物を置いた。
「おぁ、これはまた綺麗ですね。」
思わず青年も感嘆をあげてその地味だった反物を見つめた。
この白い小花が舞う反物は、特殊な糸と技術で織られた貴重な反物だった。
白い部分は光に当たると輝く様に光裏、紫の記事には光に反射すると大小様々な花が咲き誇るかの様に浮かび上がるのだ。
「なるほど、貴方もこの反物が1番お勧めと見えますね」
思わず誇らしく笑ってしまったのであろう自分の態度に、お客様の前なのにと2度目の反省をした菫であった。
がしかし、男の行ったことは確かで、菫自身も最後に見せた反物が可憐でありながら神秘的で品があり、貴族の奥さんになる人にはぴったりだと思っていた。
――というより、あの頼様のお嫁さんになるなら……この反物が似合う様な人だといいなっていう私の願望もあるのだけれど。
「あの大切な人にはこの反物が似合いそうです」
青年もそう笑みをこぼした。
ーー大切な人ってことは、やっぱり……
その愛しげな微笑みに何故か再び胸がツキンとするのを菫は感じた。意識がその感覚に持っていかれそうになる。
「そして菫さんが合わせていた、白地に銀と水色の詩集が入った帯が大人っぽくていいと思います。なので、そちらの帯も是非」
青年が菫に呼びかけてきた。
急に名前を呼ばれたことに頬に熱がともるのを感じて菫だったが、気にしない様にしながらも説明を続ける。
そして、頭の中が一杯一杯な菫はそんな様子を若旦那がちらちらっと伺っている事には気づくことはなかった。
「今日はご足労いただき有難うございました。また小物など合わせて必要でしたら、お声がけください。」
ある程度の事や予算について決まったところで、今日の打ち合わせの終了をつ出る様に若旦那が青年に声を掛けた。
「いえいえ、こちらこそ短い時間にこんな決められるなんて、可愛いらしいだけでなく優秀な方なんだと驚かされました」
暗に菫を褒め出す青年に、必死に謎の熱を頬に集めない様に菫は格闘していた。なので、その時この男がどんな表情をしているのか全く見ていなかった。
「っはは、そうなんです。菫は針子としてなく今は商いの勉強をさせていまして、ゆくゆくは共にこの呉服屋を盛り立てて行きたいと思っております。なので、これからもよろしくお願いします」
そう若旦那は少し慌てた様にまくし立てるのを、途中から意識を戻した菫は内心驚きながら聞いていた。
一瞬、部屋の空気もピンと張りつめたような気がする。
――まだお返事させていただいてないのに、それもこんな方の前でいう事じゃ……
混乱の最中にいる菫だけでなく、そんな菫の様子に少し気まずげに視線を落とした若旦那も、その時青年がどんな表情をしていたか幸か不幸か見る事はなかった。
「……そうなのですか、それはこれからも贔屓にしたいとおもいます」
「何卒」
笑みを浮かべて青年に若旦那も何時もの笑みを取り戻して返した。
「そう言えば、こんな気立ても良く可愛らしいお嬢さんなら……特に鬼に攫われないように注意したほうがいいかもしれませんね」
そう心配げ微笑みながら青年は告げる。
その微笑みに何故か肩がぞわりとした菫だったが、すぐに消えた悪寒に気のせいだったかと2人の会話にまた耳を傾けたのだった。
「ああ、最近話題のあの迷信ですね」
「私がいた都では、未だに迷信と馬鹿にできないっと言われていましたよ」
朗らかに笑い飛ばした若旦那に、冷たい笑みを浮かべた青年はそう続けたのだった。
玄関までの見送りは若旦那たちがするとのことで、青年は「またね、菫さん」とだけ言って客間を後にした。
扉がしまった途端どっと緊張からか疲れが身体にのしかかってきた気がして菫はその場に座り込んでしまう。
結局菫は反物や帯を片付けないといけないのだが中々戻ってこない菫の様子を若旦那たちが見に来るまで、そのまま放心した様に座り込んでいたのだった。