3話 思わぬ縁談
「「「こんにちは、若旦那さま」」」
針の仕事に集中していた菫は、部屋中に一気に広がった黄色い声に手元の縫いかけの着物から顔をあげた。
針子達の目線を独占しているのは、何を隠そうこの呉服屋の旦那の息子である。
つまり未来この呉服屋を継ぐであろう若旦那だった。
呉服屋の旦那と人好きする笑顔は同じではあるが、若旦那は目鼻立ちはすっきりと優しい顔立ちではあるが背も高くしっかりとした体つきで“包容力があり優しく旦那さまにしたい”と街で一番人気の男と言われている。
呉服屋の旦那はそんな一番人気の自分の息子と冗談でも「嫁に〜」っと他の針子の前でも平然と言うのだ。なので、菫はいつも冷や汗もので笑って誤魔化すしかなかった。
「こんにちは、皆この間は納品のために激務を強いてしまったようで申し訳なかったね」
申し訳なさそうに微笑む若旦那に、十代の結婚適齢期である少女たちの目が蕩けていた。
「いえいえ」
「そんなこと」
「私なんかの心配をしてくださって・・・」
「見たあの微笑み?」
そんな部屋のあちこちから聞こえる囁きを、ものともせず件の若旦那は何故か菫の元までやって来た。
「菫、作業中申し訳ないが、この間反物の在庫を確認してくれたようだね?
「はい」
「その事で確認したいことがあるのだが、今大丈夫か?」
不思議そうに見返した菫に人のいい笑みを浮かべた若旦那そう告げる。
すると一切に周りから針のように刺さる視線を菫は感じた。
そう感じながらも菫は「はい」としか答えることが許されていない雰囲気をひしひしっと感じる。
そして渋々と着物を置き、若旦那の後について行ったのだった。
針子の作業小屋と表の呉服屋の裏に渡り廊下で繋がってるいるので、呉服屋の裏手にある事務所まではあっという間に着く。
しかし若旦那は人好きする笑みを時たま菫に向けるだけで、移動中に特に話す事はなかった。
事務所には呉服屋の旦那が何故か座っていた。
ーー旦那様とも交えて何か確認したいのかしら?
2人が入ると予め用意してあったであろうか、客用のお茶菓子とお茶そして質のいい座布団に座るよう進められる。
菫は少し不思議そうな顔をしながらも、旦那と若旦那に向かい合う位置にある座布団に腰を下ろした。
「菫、確認したいことがあると呼び出して悪かったね」
「いえ、旦那様大丈夫です。在庫の確認ですよね?」
「それなんだが、ただ在庫のことでなくてね。違うことを確認したくて呼び出させてもらったんだ」
そう詫びながら旦那は一息つく。
「急な話で驚くかと思うが、君によければと思う縁談があるんだよ」
と菫をまっすぐ見ながら行った。
「えっ、縁談……」
突然のことに目を少し見開いて押し黙ってしまった菫をみて旦那は少し慌てたように続ける。
「いや、無理にとは言わないよ。ただ君も私たちのお店のためによく働いてくれ、君の働きっぷりからも君の人柄が大変よくわかる。それに結婚しても良い頃だと言うのに、良い人作らずいる君に幸せになってもらいたい気持ちもあるんだ。」
「そんな風に言っていただいて有難うございます。ただ旦那さまの縁となりますと、相手のかたも素晴らしい方なのでしょう。私のようなただの平民が不釣合いかと……」
「いやいや、そんな事はない! 何を隠そう、その相手側から是非にっと言ってね」
菫に被せるように言い返した旦那はちらっと若旦那と目を合わせた。
すると今まで何も話さなかった若旦那が口を開いた。
「菫、こんな回りくどい言い方をして申し訳なかったね。実は、その縁談の相手というのは私なのだよ」
「若旦那さまとの!?」
「君の人柄と笑顔を前から好ましいと思っていたんだ。この呉服屋を継ぐ事を真剣に考えた時に君となら一緒にやっていけると思った。」
その誠実な人柄がわかるように一語一語を噛み締めるように菫に伝え来た。
菫はその真っ直ぐな言葉に、熱が集まるのかのように顔を真っ赤に染め上げる。
その熱は若旦那にも移ったかのように顔を赤く染め、そのまま二人はそのまま黙りこんでしまった。
その二人の様子を微笑ましいと言わんばかりの顔で旦那は見ていた。
「まあ、急に話で驚いたかもしれんが是非考えてくれんかね?平民と菫は気にしているようだが、私たちも商いが少しうまく行っただけの平民だよ」。
そして若旦那の肩をポンと叩きながら話し始める。
「こいつは我が息子ながら真っ直ぐな男だが少し不器用なところもある、菫みたいな子が支えてくれると私も嬉しいんだ」
すると手付かずだったお茶菓子中から饅頭を一つ菫に渡して来た。
そして少し休憩してから針子小屋には戻るよう声をかけて菫を送りだしたのだった。
渡り廊下を渡ると菫は針子の作業小屋には向かわずに、従業員が使う勝手口から裏通りに出る。
ここは人通りが少なく川に面しているこの場所は針子の休憩場所としても良く使われていた。
せっかく頂いた茶菓子を食べようときたはずだが、突然の縁談話に食べようと饅頭を口に近づけたまま思わず菫は止まってしまう。
―― そろそろ結婚しないといけないとは考えてたけど、まさか若旦那さまとの縁談とは……!
先ほど自分に告げてきた若旦那の顔でも浮かんだのか、菫の顔が再び赤く染まり出す。
この縁談は菫が今まで貰った中でもとびっきり良いものだろう。
貴族とも繋がりのある町一番の呉服屋の若旦那。経済的にも申し分ないのに包容力溢れる優しい面立ちに町娘が騒ぐ逞しい体つき、何よりも真っ直ぐな人柄が好ましい。
頓に旦那が菫に商いのことや呉服屋の仕事を手伝わせて、教え出したのもこの事かと菫は最近の出来事に納得した。
「こんな素敵な人だもの、今回こそは好きになるだろうか?」
心の声がポツリと溢れた。
若旦那の気持ちを告げられ恥ずかしさと嬉しさに顔を真っ赤に染めた菫だったが、心の奥では少し違う自分が囁いているのを感じたのだった。
その声は「本当にその人?」と何故か間違いを告げるかのように繰り返し問いかけくる。
その囁きを振り切るように頭をふった菫は、その勢いのまま持っていた饅頭にを口を付けた。
お客用だから良い菓子なのだろう上品な餡子の甘さが口に広がり先ほどまで、俯き下を向きそうな菫の心を上むきに変えた。さらに菫の好きな粒あんというのも大きく作用したのだろう。
―― こんな行き遅れに片足を突っ込んでいる私に、これ以上良い縁なんてないでしょうし。とりあえず今夜お母さん達には報告しないと駄目よね。
「若旦那さまも良いお方だし、このまま前向きに考えてみよう」
菫はお茶菓子を食べ終えると、そう気合を入れ直して仕事に戻る。
そんな菫を川の反対岸から見つめる一対の目があった。
最後まで彼女は気づく事はなかったが。
「ふーん」
少し面白くなさそうに呟いたその声だけが、川のせせらぎの音にかき消えたのだ。
その夜、また夢を見た。