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【3】腹を割って話そう その2

「ったくあのモヤシ野郎め……あ、そこのギザギザした草食えるから採っていこう」

「はーい」

 言われた草を引っこ抜いて袋に入れた。

「あんなんだからいつまでたっても軟弱なままなんだ……あ、あそこに生えてる木の新芽みたいなやつは美味い」

「【バーン!】」

 一見たらの芽みたいなやつを先輩が袋にポイポイ入れていく。その様子をまた俺はパシャリと撮影した。

「食は細いしすぐ風邪ひくし、その度に私が……あ、あの草は食える――けどめちゃくちゃ渋いから今日はいいか」

 そういえば先輩のおにぎり、先輩が一個食べ、俺が三個食べたが、オリヴィエは半分しか食えず、注連内さんが自分の三個に加えオリヴィエの残したのまで食べてたな。

よいこちゃん『おい』

「なんですか」

よいこちゃん『この二人の関係ってさ……気にならない?』

「…………」

ASAKA1『まあぶっちゃけ』

 注連内さんに聞かれないように俺もチャットに切り替えた。

よいこちゃん『これで付き合ってないとか嘘だぜおい』

ASAKA1『訊いてみればいいじゃないですか』

よいこちゃん『だからキミが訊きなさい』

ASAKA1『なんで俺が』

「あ、ビワが生ってるな。採っていこう」

「え、あ、はいはい」

 不揃いなビワをいくつかつまんで袋に放り込む。

ASAKA1『先輩が訊いてくださいよ。女子同士のノリってやつで』

よいこちゃん『忘れっちまったよ、そんな華やかなもん……』

ASAKA1『俺は忘れるどころか端から持ち合わせていないんですが』

よいこちゃん『頑張れ後輩! キミならメスにもなれるよっ!』

ASAKA1『なりたかないわ!』

よいこちゃん『がんばれっ♡がんばれっ♡ 頑張らないとさっき道端に生えてたのに注連内が採れって言わなかったこのよく分かんない派手なキノコをキミの晩ごはんにいれるぞっ♡』

ASAKA1『捨ててきなさい危ないそんなもん』

よいこちゃん『やるぞ私は。キミを殺して私も死ぬ覚悟はとっくに出来てんだよ』

ASAKA1『その覚悟の使いどころここで合ってる……?』

 むう、よく分かんないキノコ食わされちゃたまらないのでここは大人しく屈しよう。

「注連内さん」

「ん? どうした朝霞……って先輩、そのキノコは食べられませんよ。内臓が全部出ていくんじゃないかと思うような下痢と嘔吐で三日三晩のたうち回ることになります。

 あの時は死ぬかと思った……」

 なんてもん食わせようとしやがったんだ。

「ほら捨てて捨てて……で、なんだ朝霞」

「……気になってたからズバリ訊くけど、注連内さんとオリヴィエって付き合ってないの?」

「付き合……はァッ!? お、お前、朝霞ッ……にゃにをいいでゃすんにょやとちゅぜんッ」

 注連内さんは分かりやすく噛み倒しながら狼狽し立ち止まった。

「付き合ってなんかいるわけないだろうッ……あ、あんな軟弱な男となんか……ッ」

「でもその割にはやたら距離が近いというか、長年連れ添ってお互いのこと知り尽くした気の置けない空気感があるというか」

「幼馴染だからだッ! 幼い頃、奴の一家が日本に来た時から共に育ったから家族みたいなもので……付き合うとか、そういうアレは、まったく無い……ッ!」

 早口で捲し立てる注連内さんの顔は耳まで真っ赤に染まり、目は泳ぎまくってこちらと視線を合わそうとしない。

 ……これ以上問い詰める必要もなく心の内が透けて見えるなぁ。どうしようかなぁ。

よいこちゃん『ぬふふふふ。押せ』

ASAKA1『御意』

 先輩に命じられたので続ける。決して面白そうだからではない。

「なるほど、まだ付き合ってるわけじゃないんだ」

「そ、そうだ! ……いや『まだ』っていうか予定もないがな!?」

「じゃあもしオリヴィエから付き合ってほしいって言われたら断るの?」

「も、もちろん……ッ」

「そっか……それは残念だ。実は前にオリヴィエのやつ言ってたんだけど――おっとっと、何でもない何でもない。これは言わない約束だった」

「えっ? な、なんだ? 奴が何か、わ、私のことを……?」

「いやー? 別にー?」

 本当だ。特に何も言われていない。

「でもそっかぁ……お似合いだと思ったのに。オリヴィエも可哀想なやつだ」

「い、いやッ! わ、私は別に、考える余地はある、というか……その、どうしてもと頼まれたら、気持ちを汲んでやらんこともないというか……」

「でもいろいろ大変じゃない? ただでさえ夢魔を匿ってることを悪く言う連中もいるんでしょ? 交際とまでなったら何を言われるか……」

「そ、そうかもしれないが……だが! そんなものは実績で見返してやればいいのだッ!

 今までも色々助けられてきたし、実力は申し分ないのに、夢魔というだけで虐げられて……だから私は何があっても傍にいてやりたいと思ったんだ!

 注連内の跡取りとして、オル達のことも同胞として背負っていく覚悟はもちろんある!」

「でも祓魔師と夢魔って結婚できるの?」

「法的にはオル達も人間としての戸籍は持っているから可能だが、日祓連の規則では禁止されている。だが前例が無いわけではないし、規則改定の為の根回しや票田固め、各方面への働きかけは行っている。遅くとも私が当主を継ぐ頃までには結婚できるようになる手はずだが、難しい場合は最悪先に既成事実を作ってしまえば強引にどうとでも……ハッ!」

 やっと自分が何を長々と語っていたか気づいて汗を滝のように流す注連内さん。

「わ、私は何を……」

「めちゃめちゃ大好きじゃんオリヴィエのこと」

 既に結婚に向けた裏工作までやってるとはさすがに思わなかった。

よいこちゃん『彼のことオルって呼んでるんだ』

「あが……ぐぎッ……!」

 注連内さんは頭を抱え、大きな体を縮こませてその場にへたり込んだ。

「えっと……ごめん注連内さん。無理に聞き出すつもりはなかったんだけど……まさかそこまでがっつりラブだとは思わなくて――」

「言うな……もう何も……ッ」

「……実は先輩に頼まれてさ。注連内さんと恋バナがしたいって」

よいこちゃん『おい! なんで言うんだよ!』

「今はまだお互い踏み込み切れないところがあるけど、年頃のJK同士、腹を割って恋バナでもすれば不信感も拭えて仲良くなれるんじゃないかと思ったんだってさ」

「……なるほど、そういうことだったか」

 注連内さんは顔を覆う指の間からこちらを上目遣いで睨みながら呟いた。

よいこちゃん『なるほど……そういうことだったのか……』

ASAKA1『そういうことだったということにしておきましょう』

よいこちゃん『私ってそんなに気を使える先輩だったんだな。さすが御茶天目酔子……』

 先輩は俺の後ろから進み出て、注連内さんに目線を合わせるようにしゃがんだ。

 まあ距離は二メートル離れてるけど。

「【ズバババババ!】【ズドンズドン!】【バギューン!】【タタタン! タタタン!】」

「御茶天目先輩……そうですよね。我々は勝手に先輩の素性や身辺を調査して監視していたわけですし、私だって秘密を曝け出すくらいしないと打ち解けるなんて無理ですよね……分かりました」

よいこちゃん『ちょろいわ~!!!!!!』

ASAKA1『なんて酷い先輩なんだ』

 俺達がこっそりそんなチャットを交わしていることも知らず、注連内さんはもじもじと立ち上がった。相変わらず顔は真っ赤だったが、観念した表情でジャージのチャックを少し下ろし、胸元からペンダントを取り出してこちらに見せた。

 それはコインくらいの大きさの楕円形で水色の塗装をされた金属のメダルで、聖母マリアと思われる彫刻がしてある。

「これはパリの修道院で買える『奇跡のメダイユ』というものだ。身に着けていると神の加護が得られるということだが、普通の旅行サイトにも名物の土産物として載っている。

 これ自体は祓魔師的にも特別なものではないが……なんとなくいつも首に下げている」

 注連内さんはしばし無言でメダイユを見つめて、言った。

「元々あいつのものだったが、私にくれたんだ……プロポーズの言葉と一緒にな」

「……プロポーズ!?」

「【ズドォーン!】」

「え、じゃあ何? 付き合ってるとかそういうレベルじゃなくて、もう二人は将来を誓い合った――」

「ち、違う違う違うッ! 断ったんだ! そのプロポーズはッ!」

「【パキュン!】」

「だって三歳の頃ですよ!? 結婚とか……別にその頃はあいつのことなんて好きでも何でもなかったし……あいつがマセ過ぎなんだッ……!」

「それ『大人になったら結婚しようね』っていう幼馴染のよくある小さい頃の甘酸っぱい想い出のやつじゃん。いろいろあるけど最終的にくっつくやつじゃん」

「知るかッ! ……とにかく、その時以来結婚だとか付き合うだとかそんな話が出たことはない。きっと奴も忘れているんだろう。

 でも私は、そんな小さい頃の他愛ない言葉に縋ったまま……いつか勇気を出せた時のために、奴が断れないように外堀を埋めることに躍起になっているというわけだ」

「こじれてるなぁ……」

「【ドン!】【パラララララララ!】【タァンタァン!】【バギュゥゥン!】」

「そ、それは……ッ!」

 先輩に何かを言われて注連内さんは俯いてしまった。

「ちょっと先輩、何言ったんですか。情報共有」

よいこちゃん『この子、あの夢魔のこと何度も「変態」扱いしてたじゃん?』

「はあ。実際そうだと思いますし」

よいこちゃん『そんな変態な彼のことなんでそんなに好きなの? とね』

「なるほど」

「い、言わなきゃダメ……?」

 注連内さんが涙目でこちらを見てくる。

 いかつい見た目の女子がしおらしくなっているのも、なんだかそそるものがあるなぁ。

よいこちゃん『後輩クン? 邪な気を感じるのだが?』

「オッホン! もっと突っ込んだ話をしてこそ親睦も深まるのだと御茶天目先輩は仰っておられる」

「うう……奴ら夢魔一家とは『無関係の人間に能力を行使して被害を与えない』という条件の下で保護を約束しているというのは前に言ったな」

「うん」

「だから奴がエローラを使った技やテクニックを習得するために訓練を行う場合、そこらの一般市民を実験台にするわけにはいかないんだ……つまり、その、分かるだろう?」

「……あー」

「私は小さい頃から無邪気な奴のエローラの実験台にされてきた。

 毎日毎日、奴の興味の赴くままに体を弄ばれ、散々体内にエローラを注がれてきた……ッ」

よいこちゃん『うーん、エッチだ……』

ASAKA1『こら』

よいこちゃん『そっか~♡ そうだよね~♡ 好きな人に毎日毎日迫られて愛されるなんてそりゃ拒めないよね~♡♡♡ グヒヒハハッヒェッヒェッヒェッ♡』

ASAKA1『♡に対して笑い声が邪悪』

よいこちゃん『次に彼女は「わ、私は奴が他の一般人を標的にしないために仕方なく……ッ」と言う』

ASAKA1『やめなさい』

「わ、私は奴が他の一般人を標的にしないために仕方なく……ッ」

 正解じゃねぇか。

「それでも愛想尽かさなかったのか」

「んぐッ……そ、その……毎日強制的に快感を味わわされたり、気絶するまで付き合わされているうちに……腕っぷしでは圧倒的に劣る奴に為すすべなく屈服させられての被虐に……情けない話だが、病みつきになってしまって……ッ」

「……ふむ」

「今ではすっかり奴無しでは満足できなくなった……わ、私は、もうオルのアレがないと生きていけない身体に作り替えられてしまったんだ……ッ!

 家同士のいざこざとか次期当主としての責務とか、ストレスとプレッシャーで胃が痛くて、毎晩オルに呼吸も出来ない程に快感で頭と体の中を掻き回されて意識を失わないと死んだように眠れなくて――」

「もういい。もういいよ注連内さん……! 俺達が悪かった……!」

「【パパパン!】【ズドン!】」

 思わぬ地雷を踏ませてしまい、小刻みに震えながらほろほろと泣く注連内さんを必死に宥める俺と先輩。

「この話はやめよう。

 そういえば、これから体験する予定の注連内さんがやってた修行ってどんな感じなの?」

「ん……ぐすっ……ああ、三〇メートルほどの大木の枝から足をロープで縛って逆さ吊りになった状態で四八時間瞑想するとか、首から下を地面に埋めたまま三日間祝詞を唱え続けるとか、目隠しして手探りで一山全ての木の葉の数を数え上げるとか……」

「無理。死んじゃう」

 俺達に何をさせる気だったんだ。

「死の恐怖に近づくことで強制的に力を目覚めさせる修行だからな。あとは滝行とか」

「あ、滝行なら俺達でも出来るんじゃない? 滝に打たれながら瞑想するやつでしょ?」

「いや、七〇メートルの大瀑布を全裸のまま素手で昇るんだ」

「馬鹿なんじゃないの?」

「まあまあそう言わずに。死の恐怖というのは一度体験してみると人生が変わるぞ。

 次の瞬間には全て失いぐしゃぐしゃになってゴミ屑のようになっているかもしれないという瀬戸際で全身の細胞が踊り狂う感覚……ハァ、ハァ、く、癖になるんだ……ッ」

「ヤバい、こいつが一番怖い」

 彼女はもう取り返しのつかないところまでイっちゃってるんだなと思いました。

「もうちょっと初心者向けの……なるべく死なないやつはなんかないの?」

「うーむ……そうだな。クマと闘うとかだろうか」

 クマと闘うことのどこが初心者向けだ、というツッコミを口から出しかけたが声には出せなかった。

 なぜならその瞬間、すぐ横の茂みを押しのけて黒い影がのそりと姿を現したからだ。

 身の丈およそ二メートル五〇センチ。

 真っ黒い体毛に覆われ、後ろ足で立ち上がり露わになった胸部には白いV字模様。

「ク、クマ……?」

 噂をすれば影。ヒグマみたいな体格のツキノワグマが俺達を見下ろしていた。

「そんな……こんな大きさのツキノワグマなんて……!」

「【パンッ!】」

「先輩、落ち着いて俺の後ろに……」

 クマに対しては急に逃げたり背中を向けたらダメとかなんとか。俺はクマから目を逸らさず、震えている先輩を背中に隠した。

「グルルルル……」

 クマは低い声で唸りながらじっと俺達を見ている。

「――何者かと思えば、貴様だったか。久しいな。もう冬ごもりから目覚めていたか」

 狂人がスッと俺の前に歩み出た。

「注連内さん……?」

「大丈夫だ。こいつの目当ては私。二人を襲う気はない」

「ど、どういうこと?」

「こいつはこの山の主、名は〝(たけ)れる獣王(じゅうおう)〟ザ・マキシマムタイタン……ッ!」

「〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタン……?」

よいこちゃん『〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタン……?』

〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタン。

「かつて私が山籠もりしていた一年間、何度も拳を交えた好敵手だ。

 戦績は一五〇勝一五〇敗五引き分け。今ここで、その決着を付けようというのだろう?

〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンよ……ッ!」

「グルルルルル……」

「ふっ、なるほど。あれから修行を重ねて強くなったと……だがそれは私も同じこと。

 山を下りたとはいえ、研鑽を積み上げてきた私を、あの頃のかわいい少女と同じと思うなよ、〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタン……ッ!」

 注連内さんは闘気を発しながら、ジャージのポケットから格闘技用のオープンフィンガーグローブを取り出し、両手にはめた。

「これは私のお気に入り、ミズーリ製祓魔のオープンフィンガーグローブ。

〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンよ、戦士の礼として、本気で相手致す。

 御茶天目先輩、朝霞、少し離れていてくれ。食材集めは一時中止だ」

「お、おう……」

 急に空気が変わったので、ツッコミも放棄して俺達は大人しく下がった。

「だがちょうどいい。二人には私の祓魔師としての本気の姿を見てもらうことにしよう。

 これが注連内爛の真骨頂……ッ!

 総合格闘技スタイルのエクソシズムだッ!」

 注連内さんが腰を落として構えを取る。

 フゥーと息を吐き、それだけで殺傷力のありそうな眼光で〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンを見据える。

 脱力し、しかし戦闘に際し膨れ上がる全身の筋肉。

 しなやかな肌は鉄火場にて沸々と沸き立つ。

 先に仕掛けたのは〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンだった。

 唸り声を上げながら、野生の剛腕を振るい注連内さんをブッ飛ばそうとする。

 しかし注連内さんはクルリと身をかわすと同時に、〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンのがら空きの脇腹へハイキックを打ち込んだ。

 それでも〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンは怯まず、再びクマパンチを見舞ってくる。

 一発、二発と注連内さんは拳でそれをいなし、三発目を両腕で捕まえて逆に〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの身体を引き寄せながら、カウンターの後ろ回し蹴りを〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの腹に喰らわせた。

「グォォォォ……!」

 ついに〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンが痛みに呻き、攻撃の手が怯んだ。

 その隙を逃さず、注連内さんは〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの懐に入り込み、後ろ足に連続でローキックを叩き込む。

 クマは元来四足動物。何度も何度も後ろ足に攻撃を喰らい、二足で立っていられなくなり前足を地面につける。

 これでパンチを封じ、さらに頭部が手の届く場所へ降りてきた。

「シェァァァッ!」

 鬼気迫る覇気と共に注連内さんは目の前の〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの鼻へストレートの拳を打ち付けた。

 ゴシュっという音と共に〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの鼻っ柱はひん曲がるが、それでも反撃に出る。

「グァァァァァ!」

 骨まで容易に噛み砕けそうな必殺の牙を剥きだしにして、注連内さんの首筋を引き裂いてやろうと噛みついてくる。

 しかしこれを既に注連内さんは読んでいた。

 向かってくる〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの丸太のような太い首を抱くように組み付き、跳び上がった勢いで背中側へ回る。

 そしてそのまま〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの首に太い脚を巻き付け、首四の字固めで締め上げ始めた。

「ヌゥゥゥゥゥッ……!」

「グルルルァァァ……!」

 硬い筋肉の塊である首。

 しかし注連内さんの狂人な――間違えた。強靭な逞しい脚は確実に〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの首に食い込んでいる。

〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンは唾液をまき散らしながら必死に注連内さんを振り落とそうとするが、やがてその動きも鈍り、ついに〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの巨体は地面に倒れ伏した。

「……か、勝った?」

「これで私の一五一勝一五〇敗五引き分けだな。

 貴様も腕を上げたが、どうやら私の方が鍛え方が上だったようだ。

 いい勝負だったぞ、〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンよ」

 注連内さんはグローブを外しながら感慨深げに言い、俺とその背にしがみつく先輩に向き直った。

「どうだったかな、朝霞、先輩。私のエクソシズムは。私の手の内は腹の中まで全て見せたつもりだ。これで私のことを、少しでも信用してくれるだろうか」

「えーっと、あー、うん。強かった。心強いよ」

「【ズダダダダダダ!】【パーン!】」

 あれのどこがエクソシズム要素なのかはよく分かんないが。

「ふふっ、そうだ。私は強い。強くなった。強くあらねばならなかったからな。その境遇に不満はない。でも……」

 注連内さんは急に声の覇気を消失させた。

「こんな色っぽさもない肉体に、髪もボサボサで……目つきも悪いし、肌も傷だらけ、オシャレも分からない……こんな私が、奴の隣に居ていいものか、不安になるんだ」

 彼女が不安になるべき部分はそこではない気がするが、いずれにせよオリヴィエは全責任を取るべきだと思う。

「注連内さん……」

 手をそっと胸元に添えて、注連内さんは寂し気に微笑んだ。

「いい加減にさん付けはやめないか朝霞。同級生なんだ。他人行儀はやめてほしい」

「ああ……分かった、注連内」

「別にあだ名とかでもいいんだぞ」

「じゃあランラン」

「上野のパンダか。やっぱりあだ名はやめだ」

「グルルルルル……」

 その時、泡を吹いて気絶していた〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンが唸りながら起き上がった。

「【パキュン!】」

 先輩は再び俺の背にしがみついたが、〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンはすっかり大人しい雰囲気で喉を鳴らす。

「グルルルル……」

「む、一緒に来いだと?

 二人とも、ちょっと〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの後に着いていってみよう」

「今更だけどナチュラルにクマと話すな。世界観がよく分かんなくなるから」

 言われた通り〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの後に続いて山の中を進んでいくと、数分のところで止まった。そこには特に何もない。

「なんだ? ここに何が――」

「グルルルル……」

〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンが地面に転がていた朽ちかけの大木を鼻先で転がしてきた。

「これは……!」

「まさか……!」

「【ドギューン!】」

 それはスーパーでもよく見る、しかしよく見るそれとは比べ物にならないくらい大きく立派なキノコの姿――

「これは、なんと立派なシイタケ……!」

「こっちにはハルシメジが……ッ! そっちにあるのはアミガサタケ……ッ!」

「〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタン……!」

 振り返ると、〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンはおまけに泥のついた物体を数個投げて寄越した。

 それは立派な皮つきのタケノコだった。

「〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンっ!」

 俺達の感謝を意にも介さず、〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンは黙って藪の中へ立ち去っていった。

「【ズドンッ!】【タタタタタタッ!】【ズドドッバババババババッ!】」

「――ありがとう! 〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタン!」

「ふっ、勝者への贈り物というわけか。あいつも相変わらず律儀な奴だ」

 そして俺達は豊富な春の食材を手に、和やかなムードでキャンプ地へ戻った。

 先輩も、俺を介してではなく直接注連内と会話することが増えた。

 少なくとも注連内に対しては、先輩もそれなりに警戒を解いて接するようになったようだ。

 これも恋バナのおかげだろうか。


■□   □■


「ただいまー」

 食材採集から帰ると、オリヴィエはイスに腰かけて古くて重そうな外国語の本を読んでいた。

「やあおかえり!」

 オリヴィエは俺達の帰還に気づくと、本を置いて爽やかに出迎えた。

「その本は?」

「うちの書庫にあった十六代前のエロワ家当主の日記の写しだよ。ほら、先輩のエローラ制御訓練のために、いろいろ当たってる史料の一つさ。

 祖先がヨーロッパに住んでいた頃に残した書物は、日本に移住してくる前に多くが焼かれてしまってね……なかなか満足な記録が遺っているとは言い難いから、貴重な史料だよ」

「ふーん、それはいいんだけどさ……」

 周囲を見渡す。だいぶ日が傾いてきて、もうすぐ日没だろう。

「……お前言ってたよな、ヤマメの下ごしらえと火おこしはやっとくって」

「言ったね……」

「これは?」

 足元を指さす。置いてあるバケツでは、ヤマメが八匹元気に泳いでいる。

「いざとなったら殺せなくって……あと内臓とか気持ち悪いし……」

「……で、これは?」

 焚き火台を指さす。ところどころ焦げた薪が何本か置かれていて、そばに折れたマッチが大量に落ちている。

「……できると思ったんだよ。やったことないけど」

「お前さ」

「でもほら! 薪はいっぱい拾ってきたんだよ?」

 焚き火台の傍らにうず高く積まれた木の枝を得意げに示すオリヴィエ。

「それはいいけども。出来ないのは仕方ないが、出来ないものを出来るって嘘言うな」

「ごめんなさい」

 素直に謝るオリヴィエに、注連内が溜息。

「まったく貴様は……今採ってきたものと一緒に私が魚も下ごしらえしてしまおう」

「【ズドンズドン!】」

「ありがとうございます。ではお手伝いお願いします。朝霞は火を頼む」

「了解」

 注連内と先輩は食料を持って川の方へ向かった。

「随分と距離が近づいたんじゃあないかな、あの二人」

「まあ色々とあったんだよ」

 相変わらず物理的には二メートル離れているが、今までの先輩だったら自分から注連内の作業を手伝ったりはしなかった。

 俺はオリヴィエが焚き火台に置いた薪を一度どかし、火口としてテッシュペーパーや乾いた枯草を置いて、その上に細い枝を何本か立てかけた。

 マッチを擦って付けた火を火口に点け、炎が出たらさらに枝を足していく。

「簡単に点いたね」

「こんなの知ってるかどうかだよ」

「それでも出来るってことは誇るべきだ。頭で分かってても実際に出来ないことの多いこと多いこと……」

「まあな……」

 炎が大きくなるにつれ、段々と太い薪を投入していく。

「なあオリヴィエ、ぶっちゃけお前さ――」

 炎を見つめながら核心へ踏み込む。

「注連内のことどう思ってるんだよ」

「好きだよ」

 オリヴィエは即答した。

「骨の髄から愛している。幼い時から途切れることなく想い続けているよ。彼女が僕の理想であり、全てを捧げてしまいたい唯一の人さ」

「おおう……」

 驚くほどの熱烈な答えに面食らってしまった。

「当然じゃあないか。それほど爛は素敵な女性だ。慧悟といえどもあげないよ」

「そういうつもりで訊いたんじゃないって」

「分かってるさ。冗談冗談。御茶天目先輩だって素敵な女性だと思うよ」

「なんでそこで先輩が出てくる」

「言う必要あるかい?」

「……それで、そんなに好きなら付き合おうとかしなかったの?」

「告白したさ。でもフラれた」

「……それっていつの話?」

「三歳の時。だからもういいんだ。例え彼女が僕を愛していなくても、僕は一生この想いを胸に秘めたまま――」

「諦めが早すぎんだろ……!」

「え?」

 思わず歯ぎしりしてしまった。

「っていうかマセすぎだろお前! 三歳にして一世一代の告白どころか大人な引き際まで弁えてんじゃねぇよ!」

「いやでもいつまでもウジウジ引きずる男はカッコ悪いし……」

「もうちょっと引きずれ! 後味が無さ過ぎて良いも悪いもない! 三歳とかノーカンだろ! むしろ良い布石だわ! この年齢になって良い具合に効果を発揮してくるやつだわ! 桃栗三年、柿八年、あの日の告白十三年!」

「そ、そういうものなのかな……」

 傍から見ててなんてじれったい……。

 とはいえ俺が注連内の秘めた想いをぶっちゃけてしまうのは違うと思うので、今後とも横から焚き付けていく必要がありそうである。

 焚き火の方もそろそろいい感じで、あとは炭火になるのを待つだけだ。


■□   □■


 調味料一式は荷物の中にあったので、ヤマメは木の枝を削って作った串に刺して塩焼きに。

 シイタケも醤油を垂らして網焼きに。

 新鮮なタケノコは皮ごと焚火に突っ込んで丸焼きに。

 その他山菜やキノコ類は、ぶつ切りにしたヤマメと一緒に鍋にぶち込んでコンソメスープの素を加えて煮込んだ。

 素材の味を大切に、というか素材の味しかしないシンプル極まる晩ごはんだが――

「――俺、これだけで今日来てホントに良かった……」

「僕も……」

 鼻腔を満たす幸福の香り。これが春の恵みの芳香……。

「この立派なシイタケの香り、松茸にも負けてないね。もう鼻の粘膜に移植して一生これだけ嗅いでたいよ僕は」

「〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンの奴に感謝だな。フッ……きっと次に相まみえる時は奴もさらに強くなっていることだろう。私もより高みを目指さなければな」

「このスープも何も考えず全部ぶち込んだだけなのに美味い……。どれが何のキノコなんだか全然分かんないけど、出汁がすっごい出てて……ヤマメの脂も濃厚だし山菜の苦みと、それぞれ違った食感もアクセントになって……まさにこの山の幸を丸ごと堪能しているような豪勢さ……山の神様ありがとうございます……」

「慧悟って食レポ語らせると長いね」

「【ズドン!】【ダンダンダンッ!】」

 御茶天目先輩が何か言いながら、遠火でじっくり焼かれたヤマメの塩焼きを手に取った。

「ああ、そろそろ大丈夫そうですね。じゃあ先輩、ヤマメ持ってポーズ」

「【パキューン!】」

 先輩が何か言ってるがスマホを取り出しパシャパシャと五枚ほど撮影。

「【ズドドドドドドド!】」

「じゃあ俺もさっそく……」

 ヤマメの串を取り、背中から齧り付く。

「ん~~~~っ! んまっ!」

 プリっとした白身を噛みしめるほどに、淡白ながら甘味と脂の旨味がしっかりと舌の上で自らを主張し泳ぎ回る。皮の焦げ目の香ばしさと、控えめな塩のしょっぱさがいい塩梅に身の味を引き立てる……それはさながら緩急を織り交ぜながらも勝負球として投じられるど真ん中の豪速球ストレート……。

「やっぱり塩焼きに限るな……」

「【パララララ!】」

 一瞬で俺と先輩は一串ずつ食べきってしまった。

「八匹って制限決めてて良かったな。危うくこの川のヤマメを食い尽くしてしまうところだったぜ……あまりの美味さにマスオさんになっちゃいそうだ」

「その感想は意味わかんないけど本当に美味しいね」

 あっという間に塩焼きヤマメと網焼きシイタケは、名残惜しい芳香を夜風に残してみんなの胃袋に消え去り、大量に作ったスープの残りは明日の朝食とすることにした。

「あー美味かった……満足……」

「よーし、それじゃあ食後のコーヒーでも淹れようか」

 立ち上がったオリヴィエは、荷物から生のコーヒー豆の袋と、小さなフライパンに金網が被さったようなロースターを取り出し、豆をミネラルウォーターで洗って水気を切ってからロースターに入れて焚き火で焙煎を始めた。

 他にもポットやらコーヒーミルやらドリップ用のペーパーやら人数分のカップやらをテーブルにホイホイ並べだすオリヴィエ。

「……キャンプだからこそ炭火で本格的なコーヒーを淹れてみるのはアウトドアの醍醐味かもしれないけどもさ、おいオリヴィエ、お前昼ご飯の用意とか晩飯の食材とか何にも持ってこなかったくせにコーヒーセットはしっかり持参してんのな」

「一度やってみたかったんだよ。絶対にやってみたかったんだ。すごくやってみたかった」

「分かるけど優先順位ってもんがな……」

「ごめん慧悟」オリヴィエは真顔で言った。「ちょっと黙ってて」

「………………」

「すまない朝霞、コーヒーにはうるさいんだこの男は……」

 口を噤んだ俺に注連内が申し訳なさそうに言った。

 オリヴィエは豆がパチパチ言う音を聞いてロースターを火から下ろし、ポットで湯を沸かしながら豆の薄皮を落としたり、焦げたり欠けた豆を取り除いたり、コーヒーミルで豆を粉に挽いたり、沸いたお湯を火から下ろして温度計を差し込んでから少し冷ましてカップにペーパードリップをセットしてしっかり蒸らしながらゆっくりとお湯を注いで……と、俺達がもの言いたげな目でじっと見つめる前でテキパキと動いていた。

 火起こしもヤマメの下ごしらえもやってなかったくせに……。

「――出来たよみんな。さあ味わってくれ」

 やっとオリヴィエがそう言って人数分のコーヒーを並べた。

 やりきった男の清々しい笑顔をランプに負けずに輝かせている。

 無駄に顔が良いから絵になるが俺達は特にリアクションもせず、とりあえず無言でカップを手に取り一口飲んだ。

「どうだい慧悟! 僕が一から淹れたコーヒーの味は!」

「……うん。コーヒーの味がする」

「なるほど、それは非常に有意義なレビューだね。コーヒーを淹れたのにコーヒーの味がしなかったら残念だもの。コーヒーの味がするのなら最低でもちゃんとコーヒーを淹れられたということだ。では僕も一口」

 オリヴィエはコーヒーのCMに出演している外国人モデルみたいな手つきで香りを嗅ぐと、ゆっくりと黒い液体を口に含んだ。

「――ふむふむなるほど。苦みと酸味のバランスはまずまずってところかな。焦げた豆をもっと丁寧に取り除くと良かったかもしれないね。少しコクが足りない気がするけど、数日置いておけばガスが抜けてもっと美味しくなるから、残った豆は持ち帰ってまた後日楽しむことにしよう。何よりキャンプの焚き火で自分の手でローストした豆をその場で飲む……このシチュエーションが何よりの美味しさだよね。慧悟もそうは思わないかい?」

「そうだね」

 オリヴィエの御託を一文字聞く度にコーヒーから香りが抜けていくような気分だ。

「さてと諸君」

 いい仕事した、みたいな顔でオリヴィエは言った。

「明日は起きてご飯を食べたら、片づけをして帰るだけ。

 あっという間の一日だったけれど、どうだったかな。楽しめたかな」

「そうだな、エローラ操作の特訓は進んでないし、他にもいろいろ言いたいことはあるけど」

 そこまで言いかけて顔を上げると、笑顔なのに目だけ不安そうにこちらの評価を待つオリヴィエの表情に俺はつい笑ってしまう。

「とっても楽しかったよ。二人のこともいろいろ分かったしね」

「【パンパンッ!】」

 先輩も俺に続いて返事をして、空のカップをテーブルに置いた。

「そうか……なら良かった。安心しました」

 オリヴィエは心底ほっとしたように息を大きく吐いた。

「渾身のコーヒーが最後に効いたのかな。寝起きのカフェインのようにね」

「それはむしろマイナス点だ」

「えっ?」

「そんなことよりあとは寝るだけなんだろうけど、夜の間の見張りとかは何かするの?」

 すっかりキャンプをエンジョイしているが、未だオード・エロワの襲来を警戒せねばならない状況にあることを忘れてはいけない。

「ああ、ちゃんと準備してあるから安心しろ」

 注連内が言った。

「そもそも我々以外この山に入れないようにはなっているが、それでも念を入れてこの周囲に三重の結界を張る。この山は霊場だ。土地に宿る霊力も利用してかなり強固なものが張れるから、まず侵入は不可能だ。もし結界に触れる者がいれば、私が感知して迎撃準備に入れる」

「分かった。信じるよ」

 オード自身も注連内は強いから戦いたくないみたいなこと口走ってたし、何よりも〝猛れる獣王〟ザ・マキシマムタイタンとのバトルを目の当たりにした今、彼女の強さへの信頼感は以前よりもかなり上昇した。

 変人としての評価も増したけど。

「よーし、そういうことなら、疲れたし、火の始末してさっさと寝るか。

 オリヴィエ、どっちのテントを男子用にするんだ?」

「え? 何言ってるんだい慧悟」

 オリヴィエはきょとんとして言った。

「爛が御茶天目先輩と同じテントに入れるわけないだろう。

 当然君は先輩と一緒のテントを使うんだよ」


■□   □■


 御茶天目先輩が寝間着に着替えるというので、俺はテントの外で待っていた。

 いやまあ先輩には出なくていいと言われたし、実際何も見えないわけだが、この狭い二人用テントの中だし、さすがに気が引けた。

 というか俺と先輩が一緒のテントというのもまだ気分的に納得していない。

 注連内もオリヴィエも先輩に近づけない以上仕方ないのは分かっているが……向こうはいいよそりゃ気心知れた幼馴染だし。勝手にラブコメってりゃいいよ。

 こっちは毎日おうちデートとして大長編ドラえもんを一緒に観てる程度の関係でしかないんだぞ。

 つーかこういう事情は当然前もって分かってたわけで。それなのに用意したのが二人用テント×2ってことは、もうこの状況を最初から狙ってたってことじゃないか。

よいこちゃん『イイヨ……きて♡』

 スマホが震えて先輩からそうメッセージが来ていたので、さっさとテントに入った。

 二人用テントといっても、正確に言うならこれは一~二人用といったところで、床面積はダブルベッドの幅と同じくらいかむしろ狭い。そこに自分たちの荷物も置けばもうギチギチだ。

 ……こんなんほぼぴったりくっつかないと横になれないじゃないか。

よいこちゃん『どうしたの後輩クンよぅ。ほれ、ボーっとしてないで隣においで♡』

 二つ並んだ寝袋の片方の上に寝転んで、輝く先輩は手招きしている。

 っていうかこう暗くて狭い空間にいると先輩めちゃくちゃ眩しい。完全な暗闇になれば何も見えなくなるから謎の光も無くなるんだけども。

「まさかまた『私の寝間着はシャネルの五番なの』とかいって裸になってないでしょうね」

よいこちゃん『いやぁ、期待してるとこ悪いんだけど、さすがに山の中は冷えるから着ているんだなぁ』

「期待してませんよ危惧してたんですよ着てて安心ですよ」

よいこちゃん『ん~でもキミが一晩中あっためてくれるってんなら~脱いじゃってもいいんだぞぉ~?』

「はぁ……そんなこと言ってないで、さっさと寝ましょうよ。疲れてるでしょ?」

よいこちゃん『え~~~~~~~~! オトナの夜はここからが長いんだゾ♡』

「朝早かったのにおにぎりまで作ってくれて、ほとんど寝てないでしょ先輩」

 先輩の返信が滞ったので、俺はさっさと自分の寝袋に入った。

「大変なこともありましたけど、それも含めて今日は本当に楽しかったですよ。先輩はどうでした?」

 落ち着いてそう尋ねると、先輩が大人しく寝袋にもぐるゴソゴソという音が聞こえた。

よいこちゃん『うん、楽しかった』

よいこちゃん『外でこんなにはしゃいだの久しぶり。ありがとう』

「俺は別に何も。準備したのは全部あの二人ですし」

よいこちゃん『いいんだよ。感謝したい気分なの』

「そうですか。あ、忘れてた」

 俺はスマホのレンズを先輩に向けてシャッターを押した。

「【パパン!】」

「今日の撮り納めです」

よいこちゃん『あのさ、今は完全に寝る格好だから勘弁してほしかったんだけど』

「いいじゃないですかどうせ見えないんだし。ほら、車の中でも寝てないでしょ? もう休みましょう」

よいこちゃん『うん……』

「じゃあ、おやすみなさい。また明日」

 枕元のランプを消す。テント内を照らすのはスマホの灯りのみ。

よいこちゃん『また明日か……』

よいこちゃん『明日起きた時も隣にキミが居るんだな』

よいこちゃん『いいね』

よいこちゃん『手繋いで寝ない?』

「て、手ですか?」

よいこちゃん『明日起きるまで繋がってるか試してみようぜ』

「は、はあ……」

 寝袋から右手だけ出して、おずおずと伸ばす。

 不意に指先が温かいものに触れた。先輩の左手だった。

 しばらく剣豪同士が睨み合って切っ先のみで駆け引きするみたいな時間が流れたが、意を決して俺のより随分小さい彼女の手を掴んだ。

 先輩の手は汗ばんで、ほんの僅かに震えていた。多分俺の手もそうだ。

 野球に打ち込んできて皮膚が硬くなった俺の手のひらの感触を確かめるように、先輩の小動物のような指がもぞもぞと動き、やがて俺の指の間にするりと滑り込む。

 指同士が互い違いに絡み合い、収まりどころを見つけたように動かなくなる。

 俺はスマホを枕元に置いて目を閉じた。完全な暗闇。

「――おやすみなさい」

 そう呟くと、返事の代わりに手がぎゅっと握られた。

 見えないけれど、御茶天目先輩は確実に存在する。俺の隣に、ずっと。

 ドキドキして眠れそうにない――そう思ったが、思いの外疲れていたようで、いつの間にか眠りの世界に落ちていた。


■□   □■


「おにぃさん♡ おーきてください♡ 朝霞さぁん♡」

 耳元で囁く甘い声で目が覚めた。

 まだ夜中なのか、テントの中は真っ暗。

 しかし寝袋の上からのしかかる重みと体温、至近距離から顔面への吐息を確かに感じる。

「なん――」

「し~っ……声出しちゃヤぁですよ♡」

 するすると俺の口元に触手が巻き付き、口が塞がれる。

 その触手の放つ光で、見惚れるような美少女の笑顔が暗闇の中にぼんやりと浮かぶ。

「あんまりうるさくすると、隣の先輩が起きちゃいますよ?」

 オード・エロワが俺の身体の上にいた。

 なぜだ。なぜここにいる。

 右手の感覚を呼び覚ます。未だ手は繋がれたまま。先輩は隣にいる。

 オードは山に入れないはずで、テントの周囲の結界にも侵入できないはずで、さらにこのテントには御茶天目先輩がいるんだぞ。

 以前は先輩のエローラでノックアウトされた彼女が、なぜこの空間にいて平気なんだ。

「あんっ……♡ もうっ、あんまりもぞもぞしないでくださいよぉ……そんなに焦らなくっても、あたしは逃げたりしませんから……♡」

 俺にエローラによるスタイル詐称が通じないことは分かっているオードは、今回は本来の未発達な女子中学生らしい体型だった。

 しかし身に着けているのはおよそ年齢にそぐわない大人なデザインの黒いランジェリー。

 隠れるべき箇所は一応隠れているので謎の光で隠されてはいないが、余計に幼さの残る白い肢体を艶めかしく浮かび上がらせている。

「ふふっ♡ ここまで来るのホントに苦労したんですからぁ。

 あたしがわざわざ会いに来てあげるオトコの人なんて、朝霞さんくらいなんですからね?

 今夜はたぁっぷり愉しみましょ♡」

 オードは俺の耳元でくすぐるように蠱惑的な小声を響かせ、頬に軽くキスしてきた。

「あ、抵抗したら彼女さんがどうなっても知りませんよ?」

 そう言って彼女は、静かに眠っている御茶天目先輩に触手を突き付ける。

 もぞもぞもがいていた俺はそれで動けなくなった。思わず先輩の手を握る右手に力が入る。

「はぁいおりこうさんでちゅねぇ♡

 いいじゃないですかぁ、朝霞さんはあたしのテクで最高に気持ちよくなれる。

 あたしは唯一落とせなかったオトコの人を堕として夢魔の人間に対する支配を示せる。

 うぃんうぃんってやつですよぉ」

 俺の胸のあたりをくりくり弄りながら、ゆっくりと寝袋のチャックを下ろしていくオード。

「……あれっ?」

 チャックが下腹部当たりまで下がったところで、硬いものに引っかかって止まった。

 オードがにんまりと得意げな微笑みを見せる。

「なぁんだ♡ 朝霞さんも一途なフリしてすっごい興奮してるんじゃないですかぁ♡

 それともぉ、彼女さんの横でこっそりされるのが実は趣味だったりぃ……?

 中学生にいいように遊ばれて恥ずかしくないんですかぁ? あははっ♡」

 硬く盛り上がった円筒形のモノを寝袋の上からすりすり撫でるオードは、誘うように段々と吐息を荒くしていく。

「っていうかスッゴ……オトコのヒトのってこぉんなに硬くなるもんなの……?

 こんなので【ドギャァン!】掻き回されたら、あたしどうなっちゃうんだろ……あはぁ……!

 もういいですよね? 朝霞さんの【パンパンッ!】、あたしがいただいちゃいまぁ~す♡」

 我慢できないといったふうに、オードは勢いよく寝袋のチャックを下まで開けた。

 その瞬間、俺の股間が眩い光を発した。

「キャアアアアアアアアアアアアアアッ!?」

 暗闇で突如強い光を至近距離で目にしたオードはもんどりうって倒れる。

 同時に触手も消えたので俺はすぐに体を起こした。

 今の光は謎の光ではない。護身用のフラッシュライトだ。

 オリヴィエや注連内のことを信用していないわけではないが、それでも万が一彼女に襲われることがあった時役に立つかもしれないと、念には念を入れて購入しておいたものをベルトにぶら下げていたのだ。

 硬いのも当然だ。格闘時には鈍器としても使えるライトだぞ。

 なるべく相手を傷つけないようにとそこまで光量の大きくないものを買ったが、この暗闇では十分効果があったようで、オードは一時的に視界を奪われのたうち回っている。

 俺はテントの入り口を開け、オードのを外へ蹴り出した。

「きゃっ!」

「注連内! オリヴィエ!」

「朝霞ッ! 無事かッ!」

 既に事態を察知して二人はこちらへ駆けてくるところだった。

「オード、貴様どうやって……ッ」

「――しィめのうちィ……らんんんんんんッ……!!」

 オードは美しい尊顔を歪ませ、歯を食いしばりながら注連内を睨む。

「……【パキューン!】」

 その時後ろから小さな銃声。見ると、眩しい人影がテントから出てきた。

「先輩! 大丈夫ですか!? 何もされてませんか!?」

 そう問いかけると、先輩はスススと俺の背後に寄ってきて、背中を一回平手で叩く。

 それから指先で文字を書いた。

『キミは?』

「……女子中学生の誘惑にのるような男じゃないですよ俺は」

 そんな緊張感のない会話をしている間も、オードと注連内の睨み合いは続いている。

 オードは威嚇するように全身からうねうねと輝く触手を伸ばしている。

 対する注連内も、刃物のような鋭い眼光を真っ直ぐ夢魔の少女へ向けている。

「オード・エロワ、貴様は注連内との契約を無視し、二度も一般人に対し危害を加えようとした。よってこの場で準一等祓魔師・注連内爛が貴様の身柄を強制的に拘束させてもらう」

「やってみなさいよ……負けらんないのよあたしは!

 あんたたち虫けらより上の存在だってことを証明するために!

 今ここであんたを倒す!」

「あくまでも抵抗するか。……オル」

「なんだい爛」

 寝間着らしい地味なジャージに身を包み、両手には祓魔のオープンフィンガーグローブを嵌めた注連内は、傍らに立つ真顔のオリヴィエに問いかける。

「少々手荒な手段を執ることになるが、貴様の妹、多少傷物になっても構わないな?」

「……やりすぎない程度で頼むよ」

「あたしを見下すんじゃない! 下等種族の分際でェっ!」

 オードが咆哮を上げながら猛スピードで触手を振るう。

 しかし注連内は表情一つ変えず、裏拳と肘の打撃で全て払いのける。

 ヒュパパパパッという打撃音が遅れて聞こえた。

「払った程度で……終わるとっ!?」

 払いのけられた触手は、その勢いを利用して注連内の周囲にばらけて散らばり、全方位から一斉に彼女を捕縛しようとする。

「捉えた……!」

 タコの捕食のように瞬時に全触手が標的を絡め獲った。

「……なっ!」

 しかし触手が雁字搦めにしていたのは、脱ぎ捨てられたジャージの上着のみ。

「変わり身……!?」

「その程度の速さで私を捉えられると、まさか本気で思っているわけもあるまい」

 注連内は両足を一八〇度開脚して地面にうつ伏せにぺたりと張り付き、触手の下へ潜り込んでいた。

 そこから逆立ちで跳ね起き、ジャージをがっちりと捉えて一塊になった触手をまとめて両脚で捕まえ、カポエラの達人の如き動きで全身を捻りながら思い切り引っ張った。

「ひゃっ!?」

 注連内に引きずられかけたオードは、慌てて全ての触手を途中で自切。

 千切れた触手は消えて無くなった。しかし残った根本からたちまち元通りに伸びていく。

 オードの触手は彼女自身のエローラを物質化させたものだ。

 切れても切れても無限に再生可能なのだろう。

「相も変わらず触手頼みのワンパターンか?」

「舐めてんじゃなぁいっ!」

 注連内の挑発に、オードの触手が揺らめき震える。

 すると各触手の先端が一際強く光を増し、矢じりのように鋭く尖った形状に変化した。

「人間如きにぃ!」

 そしてその先端のみを自切。

 その瞬間矢じりからエローラがジェット噴射のように噴出し、数十のミサイルとなって四方八方から超高速で注連内を襲う。

「『海月の女神(タンタキュル・デ・メデューズ)箒星の祝宴(シルク・デ・ラ・コメット)』っ!」

「ぬッ……!」

 注連内も一瞬目を見開いたが、躱せるものは冷静に身を翻して躱し、無理なものは蹴りで撃墜。傷一つ負わず攻撃を凌いだ――が、

「そこまでよ祓魔師っ!」

 オードは得意げに声を上げた。

 注連内を襲ったミサイルは囮。本命は、俺と御茶天目先輩だった。

 いつの間にか俺達二人の周囲をオードの数十本の触手がぐるりと取り囲んでいた。

「なっ……!?」

 俺は先輩を庇うために強く抱きしめた。

 しかしオードの触手のパワーや応用力は既に目の当たりにした。

 これでも俺達をまとめて攻撃するなり嬲るなりするのは容易だろう。

「動かない方がいいわよ注連内。攻撃なんかされたら、あたしビックリしてあの人たちのことブスッとヤっちゃうかもしれないなぁ♡」

「……どこまで自らの価値を下げれば気が済むんだ貴様は」

「うふふっ♡ 負け惜しみがゾクゾクだわぁ♡

 そのままじっとしていることね。じっとりねっぷり、あたしの方が上だってことをその身体に教えてあげるわ……♡」

「本当にこんなやり方で自分の地位を証明できると思っているのかい?」

 ふらっと、俺の目の前――オードの触手の檻の中にのんびり歩いてきた男が一人。

「に、兄様……?」

「人質なんて卑劣な手段……それが『上位の存在』がやることなのかな、ねぇオード」

 眼前に触手を突き付けられた状態で、しかしオリヴィエはポッケに手を突っ込んだまま、余裕の態度を崩さない。

「君は爛に勝って上下関係をはっきりさせたいんだろう? だったら正々堂々戦わなきゃ意味がないじゃあないか」

 オリヴィエは俺の隣に並んで背中に手を回す。

「さあどうする? 夢魔としての矜持を守って一対一で戦うのか、それとも目先のちっぽけなプライドに縋りついて、もっと大切なものを失うのか……よく考えて選ぶんだ」

「……くっ」

 唇を噛んだオードは、俺達に突き付けていた触手を引き戻した。

 その瞬間、注連内がオードへ突っ込む。

「だらららららららららららららっ!」

 オードはすぐさま迎え撃ち、触手によるラッシュを撃ちこむ。

 注連内は視界を埋め尽くすほどの猛烈な連撃を、やはり拳と蹴りで打ち返しながらじりじりと前進していく。

「うーん、やっぱり今日の爛は動きが鈍いね」

 戦いを睥睨しながらオリヴィエが暢気に言った。

「え、あれで?」

「うん。本調子なら君たちを人質にとられることもなく、数秒で終わってた戦いだよ。

 ……あー、ダメだ。僕の全力で抵抗してもこれ以上先輩の隣にいるのはキツイ……!」

 喋りながらオリヴィエはすすっと前に二メートルほど移動した。

「……で、今はなんでそんなに調子悪いんだよ注連内。寝起きだから?」

「違う。理由は爛の胸のあたりをよく見てみると分かるよ」

 言われた通り、注連内の胸部に注目してみる。

 やや距離はあるが、オードの触手の光で照らされているので俺には良く見えた。

「……ん?」

 ジャージの上着を囮に使ったので今の彼女は簡素なタンクトップ姿なのだが、その胸部に何か巨大な物体が二つほどくっ付いて暴れまくっている。

「……注連内の胸ってあんなにデカかったっけ?」

 抱きしめたままの御茶天目先輩の身体がピクリと動いた。

 今まで注連内の胸部サイズに言及してこなかったのは、言及するほど特別大きくも小さくもなかったからだ。むしろその鍛え上げられた体格に注目が行く程度でしかなかった。

 しかし今の彼女の胸は巨というか爆というか……ちょうどオードがエローラで作っていたニセ乳ぐらいデカい。

「ご名答」

 オリヴィエは何でもないことのように続けた。

「爛は実はあの通りめちゃくちゃ【チュドン!】が大きくてね。小四くらいからどんどん膨らんできて、戦闘の邪魔になるからっていつもサラシで締めて無理やり小さくしてるんだよ」

 確かにあれだけ大きいと色々邪魔だろう……っていうか、それってオリヴィエが毎日彼女をエローラ漬けにしたせいで成長が促進されたとかじゃないか、もしかして。

「そうか、寝る時にサラシを外してたから……」

「いや、警戒中だったし締めたまま寝てたよ?

 でも苦しそうにうなされてたから僕が解いてあげたんだよ。ほらこれ」

 そう言ってオリヴィエはポケットから白い帯みたいなものを出した。

「何考えてんだ馬鹿かお前緊張感皆無かよ。

 ん? どうしたんですか先輩、そんなに身体を押し当ててきて。大丈夫ですよ。機動性では先輩の胸の方が上――いった! 脛蹴るのやめてくださいよ! ギャッ! 腕噛まないで!」

「緊張感無いのはお互い様じゃあないか……まあ安心しなよ。

 少々胸が重い程度じゃ、爛が負けるわけがないから」

 オリヴィエの言葉通り、注連内は触手のラッシュに対して一歩も引くことなく着実に距離を詰め、ついに蹴りの射程範囲にオードを捉えた。

「ぐぅっ!」

 それを察したオードは全触手で地面を強打し、その反動を利用した大ジャンプで離脱を図るが、すぐさま普通にジャンプした注連内に空中で追いつかれ、踵落としで地面へ撃ち落された。

 ドゴォ……と大地が轟き、木立が揺れる。

 地面にめり込んだオードは、全身を触手で包み致命的なダメージは防いだが、起き上がることが出来ず、ついに光る触手も霞と消えた。

「勝負ありだな。貴様は拘束し、明日の朝に注連内の屋敷へ連行する」

「なんでなのよ……なんであんたばっかり……!」

 見下ろしてくる注連内に対し、オードは仰向けのまま叫ぶ。

「人間のくせに……強さも、胸も、あたしが欲しくて欲しくてたまらないものみんな持ってる……注連内爛、あんたは……っ!」

「……強さは追い求め鍛えた結果だ。胸は……私は別にこんなもの要らなかったが……」

「だったらあたしにちょうだいよ! なんで欲しくて有効利用できるあたしが持ってなくて、要らないし使わないあんたが持って生まれちゃうのよ! せめて使え!」

「つ、使えって言われても何に……」

「決まってるでしょ。兄様以外によ……っ!」

 オードは横たわったまま右手を掲げた。そこには小さなメダルが握られている。

「ッ! いつの間に……ッ」

 注連内は慌てて胸元を探るが、そこに下げられていた奇跡のメダイユは消えていた。

「ラッシュの中に、極細の触手を混ぜてこっそりね。

 ダメじゃない、大事な大事な宝物、こーんな簡単に盗られちゃ。そ・れ・と・も……その程度の思い入れしかないのかしらぁ?」

「……返せ」

「思い上がりも甚だしいのよ。ちょっと……いやそこそこ……やたら強いくらいで、兄様の隣に自分が相応しいとでも思っちゃった?

 あんたみたいなのが見目麗しい兄様と並んだら、ブサイクゴリラっぷりが際立って可哀想じゃなぁい。周りから兄様がどんな目で見られるか、ちょっと考えればわかるでしょ?」

「返せ」

「兄様は優しいから幼馴染のあんたを傷つけまいと言わないでしょうけど、あたしがホントのこと言ってあげるわ。

 あなたはただの便利な下僕なのよ。

 エローラの実験台にもなるし、敵は勝手にボコってくれる。

 兄様の美しさにブンブン寄ってくる虫みたいな女共を寄り付かせないための蚊取り線香。

 燃え尽きて灰になったらゴミ箱行き――それがあんた、注連内爛の存在価値なのよ」

「返せ……ッ」

「良かったわねぇ、若いうちに自分の勘違いに気づけて。

 さっさと身分違いの思い違いにサヨナラしなさいよぉ。

 男が欲しいなら言いなさい。あたしが誘い方教えてあげる。

 あんたみたいな暴力ブスでも、その無駄にデカい乳使えばつまんない男の一人くらいは誑し込めるんじゃなぁい?」

「それを返せと言ってるんだッッッ!!」

 怒鳴り声を上げた注連内は怒りに任せて拳を振り上げ、倒れたままのオードの顔面を狙って、全力のパンチを打ち下ろそうとした。

「『暁月(ぎょうげつ)』」

「ヒぎゅッ……♡」

 寸前でオリヴィエがエローラの光弾を放ち、命中した注連内は全身を強張らせてその場に膝をついた。

「きっ……きしゃまぁ……ッ♡」

「それはやりすぎだ、爛」

 俺達の前に立っていたオリヴィエは、すたすたとオードの前に歩み寄った。

「あはっ……兄様♡ やっと分かってくれたのね! やっぱり兄様はあたしの――」

 嬉しそうに笑顔を浮かべていたオードだったが、彼の表情を見て血の気が引いた。

 俺でも分かる。彼の身体からエローラが光る気炎のように沸々と立ち昇っている。

 オリヴィエが、明らかに激怒している。

「……に、兄様……?」

「『性欲に抗えない人間よりも、夢魔の方が上位の種族である』――そういう思想を抱くことは理解できる。かく言う僕も君くらいの頃にそんなことを思ったりもした」

「そ、そうよね……? 兄様はあたしのこと理解してくれるのよね……?」

「だが君の思想の根底にあるのは、ただの支配欲だ。自分より下等な者を踏みつけ、支配し、思い通りに動かして悦に入りたいだけ。

 口では大層なことを言いながら、自分の幼稚な欲望を逆らってこない相手に押し付け、受け入れられなければ駄々をこねる……オード、今の君は、無知で我儘な、少し狡猾なだけのただの子供(ガキ)だ」

「…………っ……!」

 敬愛する兄の厳しい言葉に、オードの顔は闇の中でも分かるくらいに蒼白になった。

「そろそろ成長するんだ。今すぐ大人になれとは言わないけれど、子供であることに甘え続ける時期はもう卒業しなきゃね。

 まずは爛や慧悟、他にも迷惑をかけた人達に謝ることから――」

「なんで分かってくれないの?」

 オードは全身痛そうにしながら体を起こし、オリヴィエに瞳孔の開いた目を向ける。

「あたし達は人間なんかより力を持ってる! 強い方が上に立って何が悪いの?」

「思い上がりだね。僕らはちょっと変なだけのただの人間さ。

 特殊な能力を持っていても、特別な存在なんかじゃあない」

「……あたし達が? ただの人間? 何言ってるの?」

「思っていたより自分は特別なんかじゃあないってことを知るのも、大人になる為に必要なことだ。

 普通であることを恐れるな。

 意外と難しいことなんだよ、普通の人間にまで成り上がることって」

「意味わかんない……どうしちゃったの兄様……?

 やっぱり……そいつらみたいな連中とつるんでるから頭がバカになっちゃったのよ……!

 人間なんて所詮性欲に逆らえない下等生物! そんな輩とつるんだところで兄様にいいことなんて何もないわ! あたし達兄妹ならあんなクソ虫連中なんて簡単に支配できる!

 ねぇ兄様、一緒に世界を変えるのよ!」

「世界なんてどうでもいいさ。僕は僕の大好きな人たちが平穏だったらそれでいい」

 遠くから夜風がそよぐような音がざわざわと響く。

「何度も忠告したよオード。僕も、父さんも母さんも、祓魔師の皆さんも。

 それでも君が聞く耳を持たず、僕の大切な人達をこれからも傷つけようとするならば、僕は君の兄として、君に罰を与えなければならない」

 風の音はだんだんと強くなって近づいてくる。

 ……いや、あれは風の音ではない。

 周囲三六〇度から響いてくるのは、何かが落ち葉をガサガサと掻き分けてくる音。

 まるで雨音のように、細かい音の集合が空間を包み込むように接近してくる。

「……なに? この音――ってキャッ! 虫ぃっ!」

 オードも異常を察したようで不安げに周りを見回すと、足にくっついていた小さな虫に気づき、慌てて振り落とす。

「ひっ!? こっちにも! よく見たら虫だらけじゃないこの辺!」

「そんな下着姿で来るなんて……山を歩くときは長袖長ズボンでってのは常識だろう?」

「そうかもだけどぉ……ってそれにしてもいすぎじゃない?

 こぉんなにいろんな虫だらけで……だらけで…………まさか――」

 オードの顔がサーっと青ざめる。

 オードの足元には――というかこの周囲全体の地面に、大きな甲虫から小さくてよく見えないものまで、様々な種類の虫が蠢いていた。いくら人里離れた山中とはいえ、多種多様の虫が一か所に足の踏み場もないほど大発生するなど、普通ではない。

「長い冬が終わって、待ちに待った芽吹きの春。虫たちも元気いっぱいだ」

 オリヴィエは不気味なほどに落ち着いていた。

「オード、そんなに虫を魅了して悦に入りたいのなら、思う存分楽しんだらいい。

 君に恋する虫たちがここにはこんなにたくさん集まったみたいだよ」

「……う、嘘でしょ……? まさかそんなこと……ねぇ兄様……?」

 オリヴィエがやろうとしていることを察して、オードは身体をガクガク震わせる。

 ヤマメのときとやってることは同じだ。

 オスの虫を発情させるエローラを山中へ行き渡らせ、繁殖準備の出来たメスの虫が発するのと同質のエローラへ吸引する。

「今はこの周囲全体に漂わせているメス虫エローラを君に集約すれば、君の欲しかった下等生物ハーレムの出来上がりだ。気の済むまで君に夢中なオスたちを踏みつけて遊べるよ。

 ごゆっくり、上位存在のオード姫」

「や、やめて! いやぁ! 虫サーの姫なんていや! お願い兄様ごめんなさい! 謝るから! なんでもするから! 他にどんな罰でも受けるから虫だけはやめて! ごめんなさい! 許して! もう二度とわがまま言わないから! 絶対逆らったりしないから! 兄様とか父様とか母様の言うことちゃんと聞くから! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「……謝る相手も分からないのかい?」

「朝霞慧悟さん! いきなり襲いかかってごめんなさい! 寝込みを襲ってごめんなさい! 御茶天目酔子さん! 人質にしてごめんなさい! 朝霞さんに手出してごめんなさい! 注連内爛……さん! たくさん酷いこと言ってごめんなさい! 攻撃してごめんなさい! メダイユ盗ってごめんなさい! 毎日靴の中に画鋲入れてごめんなさい! 全裸のシュワルツェネッガーとのコラ画像作って学校にバラまいてごめんなさい! あたしのエッチな自撮り公開してるツイッターの裏垢の名前をRan Shimenouchiにしててごめんなさい! アマゾンの欲しいものリストにハードBLエロマンガ追加しまくって勝手に実名で公開してごめんなさい! 『動物園に侵入してゴリラ相手に処女捨てたけど相手のゴリラがノイローゼになって死んだらしい』ってウワサ流してごめんなさい! 他にもここにいないあたしがご迷惑をかけた人間のみなさんごめんなさい! ホントにごめんなさい! もう絶対に調子乗った行動はしません! 二度と酷いことはしまぜん! ごべんだざい! ゆるじでぐだざい! ぢゃんど大人にだりばず! ぢゃんど考えで行動じばず! だがら虫はゆるじでぐだざい! 反省じばず! いい子にだりばず! ごべんだざい! ずびばぜんでじだ! 虫はいやでず! 兄様ゆるじで! ごべんだざい!」

 蠢く虫に囲まれながら、ランジェリー姿のオードは涙に鼻水を垂らし、美術品のように整った顔面をグチャグチャにして、半狂乱になって手足をばたつかせながら赦しを請う。

 その様を眺める兄オリヴィエの目は、しかし鉄のように冷たかった。

「なるほど……謝罪は本心からのようだね」

「ごべんだざい! ゆるじでぐだざい!」

「じゃあ後は、教訓を骨の髄まで思い知るだけだね。罪には罰が必要だ」

 オリヴィエがオードへ向けて手をかざす。

 幾億という虫の足音、節の軋む音が一層不気味に響きを増して、脚を生やした津波のようにうじゅるうじゅると少女へ打ち寄せる。

「ひぃぃっ! 虫はいや! ごべんだざい! いやぁ! いやぁあああああ!」

「『蟲愛づる姫君』――目と口は閉じておくことを勧めるよ。這いまわる彼らは、愛する君の中へどこまでも入り込む」

「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああっ!」

「【バキューン!】」

 虫から逃げて俺におんぶされていた御茶天目先輩が何か声を上げた。

「【バババババ!】【パシュン!】【ズギューン!】」

「……先輩がそうおっしゃるなら」

 オリヴィエは素直に手を降ろした。

 オードに群がりかけていた虫たちはサーっと引いていき、文字通り蜘蛛の子を散らすように再び山の中へ消えていった。

「御茶天目先輩の優しさに感謝するんだね、オード」

「――あ……はひ……」

 オードは魂が抜けたようにその場に崩れ落ち、意識を失って山の大地に失禁した。

「とんでもないことするなお前……」

 御茶天目先輩を下ろし、俺はオリヴィエに言った。

「えげつなさすぎるって。トラウマものだろこれ」

「まあ、そうかもね。でも僕はそれだけ怒ってたんだよ。自分の妹のやったことに……」

 オリヴィエはオードの許へ歩み寄ると、地面に落ちていたメダイユを拾い上げた。

 軽く土を払うと、注連内に手渡した。

「大切に持っていてくれてありがとう、爛」

「……当然だろう」

 受け取った注連内は、メダイユを胸に抱いて強く握りしめた。

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