【1】エロを見るのをやめた男
入学式の翌日、部活動の紹介などが行われる新入生歓迎会へ向かうため、エントランスを通り抜け体育館へ足を踏み入れた瞬間――俺のごく一般的な高校生活は早くも崩れ去った。
全校生徒が倒れている。
既に体育館に集合していた全ての生徒――新入生も二・三年生も教職員まで全員、意識を失い床に崩れ落ちていた。
「なっ……これ――うっ!」
驚き息を飲んだ拍子に、何とも言えない臭気が鼻を襲う。体育館全体に酸っぱいような生臭いような異臭が立ち込めているようだった。
「なんだこれ……」
「おひゅぅ……っ!」
突然隣にいた男子が気の抜けた声と共に気絶して倒れた。
「お、おい! 大丈夫か!」
慌てて無事を確認しようとしたが、その間にも「おふっ……」「あびょっ」と他の奴らも次々に白目をむいて崩れ落ちていく。
一酸化炭素中毒、毒ガス、バイオテロ――そんな物騒な文字が脳裏を駆け巡っていく。
するとまだエントランスにいる連中のうち、二・三年生と思われる生徒たちが騒ぎ出した。
「ヤバい! あいつだ!」
「体育館にあの人がいるぞ!」
「そんな! なんでこんなところに!」
「逃げろ! もう前の方の奴らはダメだ……!」
「ヒィ! あたし今日下着の替え持ってきてないのに!」
狂騒はどんどん伝播し、状況が分かっていない新入生も含めて動けるやつは我先にと回れ右。ドタバタと体育館エントランスを引き返していった。
「え、ちょ、待って……」
乗り遅れた俺は、異臭と気絶した生徒たちに満たされた体育館に独り残された。
「……ぉえっ。ゲホッゴホッ……」
吐きそうになるのを我慢しつつハンカチを鼻と口に当てる。倒れたクラスメイト達の様子を確認するが、どうやら息はしているようだ――というかむしろハァハァと呼吸が荒くなっており、顔も異常に紅潮している。
明らかに普通じゃない。……じゃあなぜ俺は無事なんだ?
――【バキューン!】
「!?」
体育館の真ん中から聞こえた音は間違いなく銃声。
しかし、それが本物の発砲音でないことはすぐに分かった。聞き慣れた音だ。
音の方に視線を向けると、重なるように倒れている生徒の群れの中から立ち上がる人影が一つ――いや、それを人影と言っていいものか……。
それは影ではなく、人の形をした光だった。
「【バキューン!】【ズキューン!】【バーン!】【ズドドドドッ!】」
眩しいほどに輝く真っ白い光の人型が、足元の生徒たちを踏まないようにしながら、銃声を発しつつこちらにゆっくりと近づいてくる。
「――ああ……」
なるほど。あれがそうか。
みんなが倒れてる理屈とかはさっぱりだが、その原因であるあの人の正体は理解した。
それは入学式の後で初めて会話したクラスメイトから聞いていた話――
■□ □■
「部活はどうすんの? 体デカいしやっぱ運動部?」
「おう! 俺は野球部に入るってもう決めてるんだ」
「へ~野球部」
「これでも地元のシニアじゃちょっとは名の知れた選手なんだぜ?」
「ふーん。それでわざわざこの高校に来るってことは結構ウチ強いの?」
「いや、初戦突破できれば万々歳みたいなレベルらしい」
「じゃあなんでここに?」
「それはな――これだよ」
俺はスマホを取り出し、ホーム画面の壁紙をクラスメイトの田辺君に見せた。
「何それ。チアリーダー?」
「そう。可愛いだろ?」
それはテレビ画面を撮影した、あまり画質が綺麗とは言えない写真。
夏の日差しのように輝く笑顔。大きな口の左端には唇を上下で挟むような二つのホクロ。短いポニーテールは彼女の元気さを象徴するかのように跳ね上がり、汗で濡れた前髪は顔に張り付いている。肌は健康的な小麦色に焼け、スラリと伸びたしなやかな肢体は女鹿のようによく締まっている。
「去年の夏にテレビでやってた地方大会観てたらスタンドで応援してた彼女が映った。その瞬間思ったんだよ。『ああ……この人に応援されながら野球がしたい……!』ってな」
その為に受験勉強も死ぬほど頑張ったのだ。野球バカだった俺がだ。
「不純なのか純粋なのか分かんない理由だな……。それで、この人が誰か知ってるの?」
「いや、知らない。チアリーディング部の人なんだろうけど」
「俺、姉貴が三年生にいるから訊いて調べてもらってもいいぞ」
「いいよそこまでしなくても。彼女とお近づきになりたいわけじゃないし」
「でももしその人が去年三年生だったんなら卒業しちゃってるかもよ?」
「あ……」
「考えてなかったのかよ……あ、そうだ。その姉貴から聞いたんだけど、この学校で平穏に過ごす上で絶対に知っとかなきゃいけない大事なことが一つあるんだ」
「えっ、なに?」
訊き返すと、田辺君は深刻な顔で言った。
「二年生にとんでもなくエロい先輩がいるんだ。もちろん女子な」
「……はい?」
ちょっと何の話か分からなかった。
「……えーと、エロいとかなんとか……それってそんなに重要?」
「馬鹿野郎お前健全な高校生にとってエロほど重要なものはないだろうがって違う違う今はそういう話じゃないんだ……」
早口でまくし立てた田辺君だが急にトーンダウンして真剣な口調になった。
「その先輩には気を付けろ。その人のエロさはえげつねぇらしい」
「エロいって……外見の話? それとも性格?」
「いや……そういうんじゃなくってな……とにかくドチャくそエロいんだって」
「はぁ……?」
なんだこれ。男子高校生のするエロ話にしては空気が重い。そのくせ記憶があやふやな幽霊の目撃証言みたいでこれっぽっちも要領を得ない。
「何に気を付けろっていうんだよ。そんなに変な人なの?」
「変……っていうか、外見は普通……らしい。見たことないから分かんないけど。性格も普通……らしい。話したことないから分かんないけど」
「情報量ほぼゼロじゃねーか」
外見も性格も普通なら、それは普通の人というものでは?
「いやいや! ホントにヤバいんだって! お前も……ごめん名前なんだっけ?」
「朝霞慧悟」
「朝霞も見りゃ一発で分かるって! 姉貴の言うことが本当ならその時、お前は無様に地に伏していることだろうがな……」
「えっ、エンカウントすると即バトルシーンに突入するの……?」
「バトル? 一方的な虐殺らしいぞ。とにかく、この学校で平穏に過ごしたかったら、なるべくあの先輩とは顔を合わさないようにってさ。まあ普段俺たちが行くようなところには来ないみたいだし、よっぽどのことがない限り大丈夫だとは思うけど……」
「これ『エロい先輩』の話だよな? 『ヤバい不良』の話じゃなかったよな?」
「だからそう言ってるだろ。パンツの替えは必ず用意しとけ。漏らしてから後悔したって遅いんだからな……」
「えーっと……解んないけど分かった。気を付けるよ」
とりあえずそう頷いておいた。田辺君は真剣なようだし。
エロい先輩に会わないように気を付けろ、ねぇ……。
本当にその先輩がとんでもなくエロいのなら、俺はその姿を見ることすらできないかもしれないのだが――まあ関わり合いにならない方がいいのなら逆に安心か。
「――ちなみにそのエロい先輩の名前は?」
「御茶天目先輩だ。御茶天目酔子先輩」
……名付け親は酔っぱらっていたのだろうか。
■□ □■
『一方的な虐殺』――なるほど確かに嘘じゃなかった。
つまり倒れているみんなは、彼女を見て気絶したのだ。
あまりにエロ過ぎる彼女の姿を見たせいで。
……自分でも何をアホなことを言ってんだと思ってるよ?
「あなたが御茶天目先輩ですか?」
そう声を張り上げると、人型の光ははたと足を止めた。
「【ズドン!】【バキューン!】」
「ごめんなさい。俺にはあなたの言ってること何一つ聞こえないんです」
その姿は謎の光で遮られ、その声は謎の銃声でかき消される。
これは『規制』だ。
エロいものは『規制』される――それが数年前から俺に発生している現象だ。
深夜アニメのエロい部分が地上波放送では謎の光で見えなかったり、バラエティ番組で放送できない単語に銃声を被せたりするやつ。まんまアレである。
水着で隠れる部分は、二次元三次元関係なく眩い光で隠される。
ダイレクトな下ネタワードなどは、発砲音で掻き消されて聞こえない。
エロいものは、たとえ無修正だろうと俺の目と耳には修正されて入ってくるのである。
だからこそ俺は意識を失わずにいられるのだろう。エロ過ぎる先輩が見えないから。
……とはいえ、だ。
こんな全身ピカピカ、発言オール発砲音なんて人間は初めて見た。一体どんなエロい恰好でどんなエロいことを口走っているのやら……いやいや、外見も性格も普通だと田辺君は言ってた。確証ゼロだったけどさ。
――つまり、どういうことだ? 余計分からなくなった。
「【ズキューン!】【パキューン!】」
五メートルほど向こうから何か話しかけられているが、何も聞き取れない。
気絶した全校の人間。全身と全発言が『規制』された謎の先輩――期待した新生活には程遠い異常な状況に脂汗が吹き出す。
クラスメイトが逃げ出すのに出遅れた時点で、もう俺は場に飲み込まれていた。
相手の目と思しき場所を見据え、ハンカチを下ろし、恐る恐る口を開く。
「……俺はなぜかあなたの姿が見えないし、声も聞こえない」
相手の反応は無かったが、話を聞いてるもんだと思って続ける。
「今からする質問の答えが『YES』なら一回、『NO』なら二回、足で床を叩いてくれますか?」
少しの静寂。そして――ダンッ、と無音の体育館に上履きの足音が一回響く。
よし……コミュニケーションは取れる。唾を一飲みして続ける。
「俺は朝霞慧悟といいます。野球部に入部予定です。好きな食べ物は肉です」
輝く人型は黙って聞いている……んだと思う。とにかく微動だにしない。
「あなたは御茶天目酔子先輩……で、合ってますか?」
ダンッ。一度。どうやらこれが噂の御茶天目先輩で間違いないらしい。
「この……みんなを気絶させたのは、やったのは先輩が?」
少し間を開けて――ダンッ。一度。
「なんでそんなこと……あー、いや……それは、意図的にやったことですか?」
ダンッ、ダンッ。今度は即答で二度。
先輩が悪意を持ってわざとやったことではないということか。大人しく俺の話に付き合ってくれているし、敵意のようなものは無いらしい。
「倒れてる人達は大丈夫なんですか? 救急車とか呼ばなくていいのかって意味で」
ダンッ。一度。
「このままにしてればそのうち目を覚ますってことですか?」
ダンッ。一度。
どうやら大丈夫らしい。そこまで重篤な害を被るわけではないのだろう。
パンツの替えを用意しとけ、という言葉は引っかかるが……体育館に充満するこの臭いはまさか――いや、考えないようにしよう。
さて、次はどうするべきか。訊きたいことは山ほどあるが、YES・NOでしか会話ができない現状では――
「えーっと……」
「【ズドドドッ!】【パキューン!】」
「えっ? な、なんて――」
先輩は何か一言発し、俺の動揺など無視して移動を始めた。もう会話はお終いとでも言いたげに、眩く光る人型は俺の横をすり抜け体育館から立ち去ろうとしていた。
先輩がすぐ横に来た時、彼女の身長は俺よりおおよそ頭一つ低いということは分かったが、眩しい光で輪郭がぼやけているのでそれ以上の風体はよく分からない。
先輩はさっさと体育館を出てエントランスを進んでいく。
何を話したらいいか分からないし、このまま黙って見送るべきか――と思っていた矢先、エントランスの向こうから男女の言い争う声が聞こえてきた。
「――よりによって新入生歓迎会に遅刻とはッ! ありえない! ほら急げ! 走れッ!」
「怒るなって……寝坊したのは君だろう。準備できるまで待ってやった僕に感謝は?」
「う、うるさいッ!」
声はどんどん大きくなり、やがてドタバタ喧しい足音と共に姿を現した。
それは男子と女子の二人組。
「ただでさえ私達は浮いた存在なんだからせめて規則正しくッ……む?」
先に駆け込んできたのは女子の方。走りながら声を荒げていたからか顔を上気させているが息は切れていない。女子にしてはかなり背が高い。一七〇センチはある。しかも見事に鍛え上げられたアスリート体型。くせっ毛の黒髪を耳の下あたりで切り揃えている。
そこまでならただのスポーツ少女だが、浅黒い肌を露出した右腕と左太ももにあしらわれた不可思議な紋様のタトゥーや、右耳に三つ、左耳に一つ付けているリングピアスが只者ではない感を匂わせている。というか校則的にOKなのかアレ。
「ん? どした? ……あー、これは面白い状況だねえ」
後から入ってきたのは、見た感じ明らかに白人系な男子。華奢な体格で、背も隣の女子と同じか少し低いくらい。レンズにうっすら色のついた黒縁眼鏡をかけ、アッシュブロンドの長髪を後頭部で団子にしている。軽薄な雰囲気で風体は野暮ったいが、顔の造形は男の俺でも分かるズバ抜けたイケメン具合である。
二人ともエントランスの入り口で立ち止まり、女子の方は驚愕に目を見開いて、男子の方は面白そうに唇を歪めて、御茶天目先輩の姿を見つめている。
結果的にエントランスの中央で立ち止まった先輩を、二人と俺とで挟み撃ちする格好になった。そのまま数秒の沈黙――破ったのは御茶天目先輩だった。
「【ズドン!】【パァン!】……【ドキュン!】【ドドドドドド!】」
「あー……まあその通りなんです。もう少し順序立ててお会いしようと思ってたんですけどね……あはは、どうしようか」
「どうしようかって……ど、どうしよう……ッ!」
楽しそうに困る眼鏡男子と、真剣そうに困っているくせっ毛女子……って――
「――ふ、二人とも、大丈夫な……んですか?」
思わず尋ねていた。二人組の視線がそこで初めて俺に向いた。
「……なッ!? なぜ無事な人間がいる!?」
女子の方は先輩を見た時よりも驚いている様子。一方男子は、楽しくて仕方ないといった風に口を開く。
「これは想像以上に面白いことになっているじゃあないか――でも」
彼は視線を動かさずに体育館の中を片手で示した。
「そろそろ皆が起き出す頃だ。話は後にしよう。えーっと君、一年生?」
「あ、は、はい」
「僕らも一年生だから敬語はいいよ。放課後、昇降口に集合。いいかい?」
「う、うん……」
なんにも分からないので頷くしか出来ない。
そして眼鏡男子は光の先輩へ向き直った。
「無理強いはしませんが、もし僕らのことが気になるようでしたら、今日は帰らず残っていてもらえると嬉しいです。先輩の抱える悩みの解決、お力になれるかもしれません」
そう言って御茶天目先輩に近づくことなく、エントランス出口から壁伝いに二メートルほど離れた。女子の方もそれに続く。そして笑顔で恭しく会釈。
「どうぞ先輩。またお会いできるのを楽しみにしております」
先輩は何も言わず、さっさとエントランスから出ていった。
「……これからどうするつもりだ」
深刻そうにくせっ毛女子が尋ねると、眼鏡男子はあっけらかんと言った。
「楽しくしようぜ。青春にはそれさえあればいいのだ」
そしてスタスタと俺に歩み寄り、肩にポンと手を置いた。
「んじゃ、僕らはそれとなく皆に混ざって遅刻の事実を無かったことにしてくるから。また放課後にね」
そう言って手をひらひらさせながら大股で去っていった。女子の方は威圧するような鋭い目で俺を一瞥するだけで後に続いた。
そして二人とも、倒れた生徒に折り重なるように寝っ転がった。
まるでそれが合図であったかのようにあちこちから呻き声が上がり、意識を取り戻した者がむくりと体を起こし始めた。
■□ □■
放課後、荷物をまとめていると、クラスの女子の会話が耳に入ってきた。
「見た? 六組にめちゃくちゃイケメンがいるの! 外国人なんだけどさ!」
「ああ見たけど……やめときなーあんな見るからにチャライ奴」
「え~ダメかなぁ」
「しかも大体女と一緒だったし。ピアスばっしばしでタトゥーまで入れてる怖い顔したデッカい奴。あんなんまともじゃないでしょ。不良だよ不良。クスリとかやってそう」
今からその不良と待ち合わせなのだ。行く末が想像できず気が重い。
「朝霞ぁー、この後行ける奴らで親睦会しようと思うんだけど、カラオケかボウリングだったらどっちがいいかな」
田辺君に誘われたが、手を合わせて謝る。
「あ、えっと、ご、ごめん! 今日はちょっと――」
「そっかー……もしかして早速野球部に行くのか?」
「あー……まあうんそう、そうなんだよ」
「そっか、んじゃしゃあない。そのうち空いてる日に誘うわ」
「おう、ありがとう。じゃ、また明日!」
そそくさと教室を後にし、速足で昇降口へ向かう。
本音を言えば、本当にそのままグラウンドへ向かいたかった。
体育館での出来事が一体何なのか、御茶天目先輩はどんな存在なのか、気にならないわけではなかったが、あんな明らかに異常なことに顔を突っ込み過ぎて輝かしい高校生活のスタートに躓きたくはない。
とはいえ会うと約束してしまったものは仕方ない。
心の中で名も知らぬ憧れのチアリーダーの先輩に謝りながらとぼとぼと歩みを進める。
「やあ、遅かったね」
二人組は下駄箱の手前で既に待っていた。イケメンチャラ男子は機嫌良さそうに壁にもたれて、不良っぽい女子は不機嫌そうに腕組みをして立っていた。
「ご、ごめん……待たせた?」
軽く謝ると、眼鏡男子は人懐っこい微笑みを浮かべた。実に見栄えのする顔面だ。
「ぜーんぜん。じゃあ話は歩きながら」
ということで、先導する眼鏡男子、続いて俺、その後ろに少し離れて無言のくせっ毛女子という順で廊下を進む。正直あんな悪評が立っている二人と一緒にいるところを見られて俺まで一派に数えられないかと不安で仕方ない。
そんなこっちの気持ちに構わず、イケメン外国人はスススと俺の隣に並ぶと、背中や肩をぺたぺた触りながら快活に話し始める。
「いや~イイ体格してるね。並んで歩くと僕が一層小さく見えちゃうな。肉が付きにくい体質なんだよね僕」
「そ、そう……」
反応に困っていると背後から女子の声。
「私がトレーニングに誘っても絶対来ない癖に何を言う。筋肉を付けたかったらいつでもとことん鍛え直してやるというのに」
「別に筋肉付けたいなんて言ってないだろ。僕は今の僕に大満足なんだ。
それにゴリラのトレーニングに付き合ったら僕なんか全身の関節が爆発して死ぬよ」
悪態を吐き終わると、彼は再び俺の前に出て後ろ向きに歩きながら言った。
「僕はオリヴィエ・エロワ。そっちの目つき悪いのは注連内爛。どっちも六組だ。よろしく。オルでもオリバーでも好きに呼んでくれ。イチオシはオリーブかな」
「あー、うん、よろしく。俺は朝霞慧悟。二組」
「よろしく慧悟。不安そうだね。僕らと一緒にいるのが怖い?」
「い、いやそんなことは別に」
「いいよいいよ。初日から色々言われてるのは知ってる。困っちゃうんだよね。僕ら意外と平凡なのに。期待を裏切っちゃうのは心苦しいなあ」
今のところそうとは思えないのだが……。
「……それでこれはどこに向かってるの?」
「地学準備室」
「地学、準備室……? なんでそんなところに?」
「校内で一番人が立ち寄らない部屋なんだろうね。三年の選択科目だし。それを生かして、この学校ではとある別の用途に使われているんだ」
「別の用途?」
「バケモノの檻さ。ほら、ここだよ」
オリヴィエが立ち止まったのは、ロの字型をした校舎の中でも北側の一階。
日が当たらずじめっとした、寒々しく空気の淀んだ廊下に『地学室』のプレートが付いたドアがあり、その隣に何故か五段ほどの下り階段。
半地下に作られたドアに『地学準備室』という掠れた文字が読み取れる。
「なんでこんな辺鄙なところに……」
「いるね」
「ああ」
俺の疑問をよそに、二人はドアの向こうに意識を向けながらボソボソ話している。
「貴様はどいていろ。私が開ける」
注連内さんがドアの前に進み出て、鞄から何か入った小瓶を取り出した。
「なにそれ」
「ボルネオ島から取り寄せたナンヨウハイイロヒヨスという植物の葉を乾燥させたものだ」
注連内さんは小瓶から薄緑色の粉っぽいものを手のひらに少し出した。
「用心に越したことはないからな。これを……スンッ!」
注連内さんは粉を鼻の穴から勢いよく吸い込んだ。
「……ッくぁー……! ぬぅぅむ……」
「えっ……何やってんの……?」
怪しい粉を吸引して涙目で唸っている注連内さんにドン引きしていると、オリヴィエが言った。
「爛は女性としてはデカいけど、身体は普通の人間だからね。あの人にうっかり接近しすぎても気絶しない為の、祓魔の一族である注連内家秘伝の鎮静剤だよ」
「そういう、ケホッ、あー……ことだ」
「いやいや分かんない……祓魔の一族って何……?」
「祓魔師。いわゆるエクソシストだ。ンンッ……よし、開けるぞ」
注連内さんはドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
錆びた金属が軋む音と共に、ほんのりカビ臭い部屋の内側が露わになった。
壁際に鉱物のサンプルなどがしまわれた戸棚が並び、カーテンの閉め切られた地学準備室の真ん中。古臭い事務机の席に着いているのは、全身ピカピカ人間。
「み、御茶天目先輩!」
「…………」
銃声は放たれない。無言の出迎えだ。
『バケモノの檻』……つまりここは彼女の為の――いや、他の生徒が彼女の被害を受けない為の隔離教室ということか。
「閉めるぞ。早く入れ」
注連内さんに言われて慌てて入室。続いてオリヴィエが入った。
「残っていただけていて嬉しいです。ありがとうございます先輩」
オリヴィエは先輩へ丁寧に礼を言うと、窓際へぷらぷら歩き出す。
「さーて何から話そうか……何しろ僕らにも分からないことだらけなもんでね……」
「検査が先だろう。用心はしておかねば」
そう言った注連内さんが鞄をごそごそしながら近づいてきた。取り出したのは綿棒。
「朝霞、これで口の中を擦れ。粘膜細胞を採取する」
「え……なんで?」
「いいからやれ」
怖い顔で睨まれた。仕方ないので言われた通り綿棒で頬の裏側をぐりぐり。
その間、注連内さんは御茶天目先輩から離れた床に胡坐をかいて、鞄から試験管やら謎の液体が入った瓶やら取り出しテキパキと何かの準備を整えていた。
「はい」
「よし」
俺の細胞付き綿棒を受け取ると、注連内さんは薄桃色の濁った液体が入った試験管にそれをポトリと落とし、軽く揺する。すると液体の色がたちまち濃い赤へと変わった。
「おお……んで、これ何の検査? 今朝歯磨き忘れたから何か引っかかるかも……」
「ニシキヘビの骨髄液と聖職者の遺灰を混ぜた聖水が赤く変化するということは……朝霞、貴様は――」
「お、俺は……?」
「――普通の人間だ」
「……そ、そうですけど?」
「手間を取らせたな。御茶天目先輩が人間であることは調査済みだったんだが」
「……【バキューン!】」
「あ、いや、先輩は違う方法で……してません! 勝手に口の中いじくりまわしたりなんてッ!」
……俺が普通の人間。うん知ってる。御茶天目先輩も人間。まあいいだろう。
なんでそんなことわざわざ調べる? まるで人間じゃない存在がいるみたいじゃないか。
そういえばさっきこの部屋に入るときオリヴィエは言った。
『爛は女性としてはデカいけど、身体は普通の人間だからね』
注連内さんは人間。そうなんだろう。
では残った一人は……?
「オリヴィエ、まさかとは思うけどお前――」
そいつに目をやると、オリヴィエは綿棒で口の中をぐりぐりしていた。
「ふぇーほははんはひいへ」
「口に物を入れたまま喋るなッ」
叱りながら例の試験管を差し出す注連内さん。それを受け取って彼は改めて口を開く。
「失礼。慧悟は勘がいいね。ちょうどいいからそこから話し始めるとしよう」
そして綿棒を試験管に落とした。薄桃色の濁った液体はたちまちブクブクと泡立ち、クリアに澄んだエメラルドグリーンへと変わった。
「お察しの通り僕は普通の人間ではない」
そう言ったオリヴィエの体全体が突然謎の光に包まれた。
「うわっ!?」
「慧悟、君には今僕がどう見えている?」
「どうって……全身が光ってて何も見えない……まるで――」
「『まるで御茶天目先輩みたい』かい?」
「そ、そうそう!」
「なるほど、君には先輩がそういう風に見えているのか」
ピカピカ外人は一人で納得すると、全身を覆う光が俄かに晴れていき、やがて彼が掲げた右人差し指の上に収束し、ボール状になって浮いた。
「何それ……フリーザ様みたい」
「まあ見てなって。いくよ、爛」
「ちょ、ちょっと待――」
「『暁月』」
制止する注連内さんを無視して、オリヴィエは技名のようなことを呟きながら右手を一振り。発射された光のボールは彼女に命中すると体の中へ吸い込まれるように消えた。
「はひぁああぁ……っ!」
すると注連内さんは情けない声を上げてどさりと床に崩れ落ちた。
「え、何事……? 大丈夫?」
「あひゅ……き、きしゃま……はぁ、はひぃ、ふぅ……よくもぉ……ッ!」
注連内さんはビクビクと痙攣しながら涙目でオリヴィエを睨んでいる。一方オリヴィエは飄々と言った。
「もし爛がさっきナンヨウハイイロヒヨスを摂取していなかったら気絶していただろうね。そう、まさに今朝の体育館で倒れていた生徒たちの様に」
「それって――」
「【ズドン!】【ズドドドドド!】」
俺の言葉を銃声が遮った。
「【パシュン!】【バァン!】【ドキュゥゥン!】」
「ええ、そういうことです。先輩の『体質』もこれと同じことが起きているわけです。先輩自身には見えていないのでしょうが――」
そして再び彼の周囲に光が満ち、渦巻いて昇っていく。
「これは一般には知られていない、しかし生きとし生けるもの皆おしなべて持つエネルギー。その源は生物の絶対の目的たる生存本能、種の保存――すなわち性欲。全ての根源たる欲望から生じ、深層心理へ直接働きかけることのできる無限の可能性を秘めた力――」
芝居がかった仕草で両腕を広げたオリヴィエの背後で、光は大きなハート形を描いた。
「僕はこれを『エローラ』と呼んでいる」
「……ダサッ!」
思わず口から罵倒が飛び出してしまった。
「えっ、ダメかな……」
オリヴィエの背後のハートがぐしゃっと崩れて雲散霧消。
「『エロ』と『オーラ』をくっつけたんだけど……分かりやすくないかな」
「いや分かりやすいけどさ、もっとさ、こうさ……!」
「でも分かりやすさって大事だと思うよ? とにかく話は続けるよ」
「えー……もっとほら、念とか霊圧とかチャクラとか波紋とかさぁ……」
「君がジャンプ大好きなのは分かったから。それでね、エローラそのものは自然界に偏在しているものなんだけれど、慧悟には高密度のエローラが光として見えるらしい」
「――ってことは、御茶天目先輩が光で全身見えないのは……」
「そういうこと」
オリヴィエは頷いて先輩の方へ向き直る。
「人間、みんな大なり小なりエローラを持っているものです。しかし御茶天目先輩はどういうわけか、異常なほど莫大なエローラを作り出す能力を持っているようで」
「【ズギュゥン!】」
「なぜかは分かりません。生まれつきなのかもしれないし、何かきっかけがあって発現したのかもしれない。最初からここまで酷かったわけではないはずです。力はどんどん増している。少なくとも、昨年までは普通に生活できる状態ではあった。そうですよね」
先輩は何も言わない。オリヴィエは続ける。
「爛を見てわかる通り、高密度のエローラに直接曝露すると普通の人間は性的に興奮状態になり、限界を超えると行動不能になったり意識を失ったり……最悪の場合は命を落とすこともあります」
「い、命を……?」
驚いた俺に、オリヴィエは頷く。
「その気になれば、僕はこの力で人を殺すことができる。やらないけどね。そんなことしたら爛に嫌われる」
「オリヴィエ、お前……いったい何者なんだ?」
「そいつは『夢魔』だ」
やっと復活した注連内さんが、まだ涙目ながら起き上がって俺の疑問に答えてくれた。
「代々祓魔師を生業とする我が注連内家の監視下にある、欧州から渡ってきた夢魔の一族の長子……それが此奴だ」
「インキュバス……? むま……? 何それ」
「あんまり好きじゃないんだけどね、その種族名。ちょっとエローラの扱いが上手いだけのお兄さんだよ、僕は」
オリヴィエはムスッとして話題をさっさと変えた。
「さて慧悟、『いったい何者なんだ』はこっちのセリフでもある。普通の人間なのにエローラを見ることができ、高密度のエローラの曝露にも耐性を持つ――そんな君に僕らは非常に興味を持っているんだ。聞かせてくれるかい、君の話を」
■□ □■
「なるほど……エロいものが『規制』される、か。初めて聞く症例だな」
今更隠すような相手じゃないと判断した俺の話を聞いて、オリヴィエは眼鏡の位置を直しながら考え込んだ。その動作もいちいち絵になるからイケメンはずるい。
「あのー、それで結局君らの目的って――」
「リトフィリアって知ってるかい?」
「リトフィリア?」
初めて聞く単語だ。
「何それ」
「簡単に言うと石フェチのことだよ」
「は?」
呆気にとられる俺を放置し、オリヴィエは戸棚に歩み寄って鉱石標本の一つを手に取った。
「石に対して恋愛感情や性的欲求を抱く人のことだよ。石の持つ美しさや神聖さ、自然由来のオーラのパワーなどを感じながら【パァン!】したり、【ズドォン!】に挿入してみたり、巨大な石に抱き着いて【パラララ!】を擦りつけたりする人もいるそうだよ」
「何言ってんだお前」
「貴様は突然なんてことを語りだすんだッ!?」
突然のマイナーフェティシズム解説に絶句する俺と、顔を真っ赤にして吠える注連内さん。しかしオリヴィエは真面目そのもので続ける。
「慧悟、まだ【ズドンズドン!】って聞こえるかい?」
「え、何? 『規制』されて分かんない」
「なるほど。さっきは聞こえたし口にもできた単語が、意識を変えるだけで『規制』されてしまうわけだね。これは? 見える?」
オリヴィエは手に握ったままの鉱石標本を見せてきた――はずだが、その手の中にあるものは眩い光に隠れて見えなくなっていた。
「……変なものに持ち替えてたりしないよな」
「ただの石灰岩だよ。ふむ……『規制』には法的に一八禁だとかメディアの自主規制だとかとは違う独自の基準があるようだね。
ちなみに無生物の石はエローラを持たないわけだから、あくまで慧悟の脳がエロと判断したものを『規制』するだけで、エローラが見えて遮断できるのはあくまで副次的作用なんだろう。じゃあ次は――」
オリヴィエは自分のズボンのベルトを手早く外し始めた。
「は、ちょ、お前――」
「ほっ」
そして一切の躊躇なくズボンと一緒にパンツまで下ろして下半身を露出させた。
「ゥヴェアアアアッ!? キっ、貴様ッ……なに、き、貴様ァーッ!」
注連内さんは顔を覆って仰向けに倒れながら汚く叫んでいる。
「さあ慧悟、どうだい?」
「え、やべーなこいつって――」
「そうじゃなくて僕の【バキュン】は『規制』されて見えるのかって話」
「ああ、えっと……されてる」
幸いオリヴィエの局部は光り輝いて全く見えない。
「ふむ……君は男性に性的興奮を覚えるタイプ?」
「ちゃうわ」
「なるほど、君自身が性的に興奮するか否かにかかわらず『規制』は行われるのか」
小刻みに頷きながらズボンを穿き直した。
「じゃあ次は、今から僕がノートに卑猥な落書きをするから、どのタイミングから『規制』が行われたかを――」
「ちょっと待てってば!」
カバンをがさごそ始めたオリヴィエをさすがに止める。
「結局俺は何のために連れてこられたんだよ! お前の実験台にされる為か?」
「あー……ごめん」
オリヴィエはすまなそうな顔でカバンを置いた。
「そうだね。君は――いや御茶天目先輩も、呼びつけておいて好き勝手付き合わせてしまって本当に申し訳ない……。つい熱くなっちゃって……探求心が抑えられなくて――エローラの新たな可能性の探求が僕のライフワークなんだ」
スマイルを封印し、拳を握りしめたオリヴィエは真剣に語る。
「初めてなんです。御茶天目先輩ほど膨大なエローラを生み出す人間も。慧悟に発生している謎の『規制』なんて現象も。是非とも近くで観察したい。研究させてほしい」
彼の身振り手振りがどんどんと激しくなる。
「僕ら夢魔は最もエローラの扱いに長ける種族。その中でも僕は有数の研究家だと自負している。最近の夢魔は、迫害から逃れるため人間社会に馴染み過ぎて、普段ロクに能力を使ってもいない連中ばかりで僕も妹もうんざりしてて――」
「そこまでにしておけ。貴様が胡散臭すぎて二人とも引いているぞ」
熱を帯びたオリヴィエの演説を注連内さんが止めた。
「二人とも申し訳ありません。こいつはただの物好きな変態エローラオタク。危害は加えないように私が注意しておく」
注連内さんは溜息を吐き、落ち着いた口調でこちらに語りかける。
「改めて、私は注連内爛。日本祓魔師連合協会、東日本支部所属の準一等祓魔師です」
初耳づくしの肩書を名乗り、オリヴィエを指さす。
「こういった人間じゃない連中への対処や、超常的な事情で苦しむ者を救うのが我々祓魔の一族の役目です。御茶天目先輩の情報を掴み、そばで対処するためにこの学校に来ました。
未知の症状ですが、エローラの専門家であるこいつの知識と世界中の祓魔師ネットワークを駆使すれば、先輩と、さらには朝霞のような症状への対処法も見つかるかもしれない」
「ちなみに」
笑みを消した顔で口を挟むオリヴィエ。
「日祓連では先輩を危険視して即時『処理』を主張する声も大きかった。未知の事態だし、研究がてら直接対処にあたって解決法を……最低でも増大するエローラ量を抑える手立てを模索してからでも遅くないとお偉いさんたちを説得して僕らはここにいる」
「おい……! そのことは――」
「先輩は自分の置かれた危機的状況を知る権利がある。
今のところは注連内家の威光もあって抑えていられていますが、猶予はそう長くない。状況が変わらなければ強硬派も動く。
僕らは貴女を助けたいんです。信用できないでしょうが、どうかご協力をお願いしたい」
オリヴィエは真面目な雰囲気で頭を下げた。先輩は何も言わない。
処理、とはつまりそういうことだろう。
もちろん危険だからといって御茶天目先輩が殺されるというのは気持ちのいい話ではないが、与り知らないところで話が大きくなり過ぎていて、正直「俺のいる意味ある?」という感想が強い。
「注連内さん、これって俺のいる意味ある……?」
「ああ。彼女の家族以外で先輩と接することができるのは現状私達だけだ。色々協力してもらうこともあるだろう。もちろん朝霞が良ければだが……それに朝霞の『規制』を治す力にもなれるかもしれん」
「そっか……」
そりゃ当然協力できることがあるなら手は貸したいが――
「――俺の『規制』は別にいいよ、治そうとしてくれなくても」
思わず口に出した。オリヴィエと注連内さんは意外そうにこちらを向いた。
「俺は、今の状況をそこまで悪いとは考えてないんだ。俺のことはいいから、先輩のことに集中してあげてよ」
「……本当に? エロいものが見えなくていいってのか? 一生そのままかもしれないんだぞ? どうするんだい、いろいろと」
「見たくないものを見なくて済むことも多いし、俺は大丈夫」
オリヴィエはまさかといった様子で開いた口を塞げずにいる。注連内さんは訝し気な視線を送ってくる。
「【パァン】」
その時、すっかり無言だった御茶天目先輩が何か言った。
「【パキューン】【ズドドドド】」
「……それ、俺に言ってるんですか?」
そう尋ねると、ダンッという音。上履きが床を叩いたような音が、一度。
「ごめんなさい、聞こえないんです」
エローラのせいだか何だか知らないが、気絶もしない代わりに、俺には先輩の姿が見えないし声も聞こえない。
つまり、『規制』がある限り俺は彼女と会話することすら出来ない。
「筆談なら可能なんじゃないか?」
思いついたように言ったのは注連内さん。
すると席に座った光が動き、カバンから取り出したノートに何かを書いて、俺に見えるように掲げた。
『キミにとって私は見たくないものか』
……よ、読める。繊細で丁寧な文字がノートにはっきりと書かれている。
「えーと……それはちょっと言葉の綾で……」
「なあ慧悟」
オリヴィエが諭すように尋ねてきた。
「人はエロから離れては生きられない。君が一体何を望んでいるのかは分からないが、僕らにできることがあるなら協力する。僕は君と友達になりたいんだ。研究もしたいけど」
「ありがとう。でも俺のやりたいことは単純だよ。野球部に入って、試合で活躍して、憧れの先輩に応援されたいだけだ」
「なるほど。青春だね」
「そういうこと」
今日はもう仕方ないが、明日にでも野球部に入部届を出しに行きたいのだ。
「まあ、とはいえこうして知り合ったのも何かの縁。連絡先くらい交換しても罰は当たらないんじゃないかな。もし何かお互い協力してほしいことがあったら連絡を取り合おうよ」
「分かった」
ポケットからスマホを取り出し、オリヴィエと注連内さんと連絡先を交換する。
「よし、じゃあこれで――」
OKと言いかけたところで、腰のあたりをツンツンと突かれた。
「ん?」
振り返ると、光の先輩がまた繊細な文字の書かれたノートを掲げ持っていた。
『キミはなんで私の写真を壁紙にしてんの』
「……はい?」
スマホの画面を確認する。
そこには俺がこの高校を選んだ理由でもある憧れのチアリーダーの先輩が、弾ける笑顔でポンポンを振っている。
「…………えっ? ま、まさか、これ……御茶天目先輩……?」
床を叩く上履きの音が一度だけ響いた。
■□ □■
その日の深夜、ベッドに寝っ転がり、俺はスマホの画面とにらめっこしていた。
夢魔とは――主にキリスト教で語られる悪魔。人間に淫らな夢を見せて誘惑し、精気を吸い取る。男性型がインキュバス。女性型がサキュバス。
よく知らなかったのでググったが……悪魔ねぇ。まあそう呼ばれるのを嫌ってるあたり、奴にも思うところはあるんだろう。
ラインを起動し、あの後受け取ったメッセージを再度読む。
Olive『今日はありがとう! もし何か助けが欲しいときは遠慮なく言ってくれ』
グループチャットにはオリヴィエのこれと、俺の簡単な返事だけ。
一方それとは別に、注連内さんから個別にメッセージが来ていた。
爛『今日は付き合わせてすまなかった』
爛『クソエロ悪魔の奇行にも驚いただろう。私の方からよく躾ておく』
爛『ただ、その、奴は変態クソ野郎だが、そんなに悪い男じゃない』
爛『研究目的というのもあるが……先輩や朝霞の為になりたいと思っているのも事実だ』
爛『日祓連への訴えにも協力してくれたしな』
爛『奴ら夢魔の一族とは、一般人に危害を加えない代わりに日本での生活を保障する契約だ』
爛『もし奴に何かされたら私に言え。躾けしてやる。拳でな』
爛『気が向いたらで構わない。また会えることを願っている』
……まあ、オリヴィエは軽薄で何を考えているのかよく分からない雰囲気だが、本当に悪い奴ではないというのもなんとなく分かる。
信用できるかどうかとは別問題だが……。
その時、ピロリンとスマホの通知音。新しいラインのメッセージが来ていた。
田辺君から親睦会の写真がバンバカ送られてきていたのでまたかと思いながら開く。
よいこちゃん『起きてる? 良い子は寝る時間。酔子は起きてるけど。なんつって』
「御茶天目先ぱぁイテッ!?」
びっくりしてスマホを顔の上に落っことした。
一目で憧れた女の子が御茶天目先輩だったと発覚したあの後、動揺して目を白黒せさていた間に、とりあえず連絡先だけ交換したら先輩はさっさと帰ってしまったのだ。
彼女とお近づきになりたいわけじゃない、なんて格好つけてはいたが、ひょんなことから知り合ってしまうとついつい浮足立ってしまう。
どう返信したもんか考えていると、通知音と共に追撃がきた。
よいこちゃん『良い子は寝る時間だけど酔子は起きてる、つってね』
同じダジャレを分かりやすくして再送してきた。
……もうちょっと待ってみようかな。
数分経つと再び通知。
よいこちゃん『分かる? 良い子と酔子が、どっちも「よいこ」でさ、かかってるわけなんだけど』
自分のダジャレを解説してきた。
あれ、この人意外と……。
よいこちゃん『お? 既読無視? 私がスベったみたいで不本意なんだけど。先輩がダジャレ言ってんだから馬鹿みたいに笑って気持ちよくさせろや使えねぇ後輩がよ』
うわパワハラ気味にブチ切れてきた。
ASAKA1『ごめんなさい。まさか先輩からラインが来るとは思わなかったので……』
よいこちゃん『キミにとって私は見たくないものだものな。仕方ないよな。な』
ASAKA1『誤解ですって。けっこう根に持ちますね……』
よいこちゃん『お前のツラなんか見たくもないってか。あー女心が傷ついたわー。謝れボケカスゥ。頭を垂れて謝罪せよ。地に額を擦りつけろ』
……めんっっっどくさっっっ!
え、なに? 御茶天目先輩ってこういうタイプの人だったの?
よいこちゃん『フフハハハ、見えるぞ見えるぞ。憧れの先輩が理想と違うタイプで困惑する若者の顔がよぉ!』
ASAKA1『一応確認しますけど、本当にあの写真って先輩なんですか?』
そう送ると、先輩から返事の代わりに画像が送られてきた。
開くと、ほぼ一面光に包まれた謎の写真だった。
ASAKA1『見えないんですけど何の写真ですか』
よいこちゃん『私の渾身のエロ自撮り♡』
ASAKA1『何やってんだあんた』
よいこちゃん『お茶目な先輩の冗談よ♡ キミの壁紙の写真は確かに去年の私』
ASAKA1『ホントに? 証拠はあるんですか?』
よいこちゃん『どんだけ認めたくないんだキミは。そんなに私に憧れてたのが不満か』
よいこちゃん『これでどうだ』
また写真が送られてきた。今度はちゃんと見える。
ベッドの上に広げられた、チアリーダー衣装の上下。
それは確かに憧れの彼女が着ていた物と同じデザイン。
ASAKA1『なるほど。チアリーディング部なのはどうやら間違いないようですね』
よいこちゃん『そこまで疑われるとさすがに傷つくんだけど』
よいこちゃん『誰かに確認すればいいだろ。二年生以上の生徒なら全員私のこと知ってるし』
ASAKA1『はあ……後で注連内さんにでも確認しときます』
よいこちゃん『しめのうちねぇ』
よいこちゃん『キミはあの話信じてるの?』
ASAKA1『え?』
よいこちゃん『夢魔だのエローラだの、あの人たちのデマカセじゃない?』
よいこちゃん『確かに私の症状はホントのことだけど、色が変わる液体とかいくらでも化学反応で作れそうだし、急に倒れ込む女の子とかただのお芝居かもしれない』
よいこちゃん『私の傷心に付け込む宗教の勧誘じゃないって証明できる?』
よいこちゃん『そんな人たちをどう信用しろっていうの?』
……まあ、そう思うよなぁ。
ASAKA1『気持ちはわかりますけど、僕は実際にオリヴィエが謎の光を操るのが見えたわけですし……』
よいこちゃん『私は見えなかったけどな!!!!!!!!』
ASAKA1『先輩と俺とで違うものが見えたってことは、そこに常識では説明できないものがあったっていうことになるのでは?』
よいこちゃん『キミが脳外科のお世話にならなきゃいけない人じゃなければな!』
ASAKA1『それを言われちゃ俺にはなんも言えませんよ』
よいこちゃん『でもまあよいわ。キミがそう言うなら飲み込んでやろう』
ASAKA1『はあ……どうも』
よいこちゃん『あの二人よりは信用できそうだしなキミは』
ASAKA1『なんでですか?』
よいこちゃん『キミが臭いからだよ』
……やっぱり歯磨きしていかなかったのはマズかったのか……?
よいこちゃん『間違えた。キミが人間臭いからだよ』
ASAKA1『泣くのでそのミスは二度としないでください』
よいこちゃん『いいじゃないのぉ。憧れの先輩に罵倒されるのはご褒美でしょ? 感謝しなさいこのブタが』
ASAKA1『俺の憧れた先輩はそんなこと言わない』
よいこちゃん『いい加減現実を認めろよ。私はキミの憧れたカワイイ先輩よ』
ASAKA1『この目で確認するまでは確定した現実ではないんですよ』
よいこちゃん『残念だがこの世界の観測者はキミだけじゃないのにゃシュレディンガーくん』
ASAKA1『だって……あのチアリーダーに応援されたくてわざわざ強豪でもない遠い高校選んで、勉強頑張ってなんとか合格したのに……』
よいこちゃん『なんだなんだかわいいなキミ。食べちゃいたいな。ちゅっちゅっ』
ASAKA1『その憧れの先輩がこんなヨゴレだったなんて……』
よいこちゃん『ヨ、ヨゴレだと? 地元じゃ「肥溜めに鶴」と持て囃されたこの私が……?』
ASAKA1『掃き溜めどころか肥溜めのご出身で……?』
よいこちゃん『誰だって母ちゃんの肛門のご近所出身だろうが』
ASAKA1『いい加減にしろクソ女』
よいこちゃん『ク、クソ女て……』
低俗すぎる下ネタに思わずシンプルな罵詈雑言が飛び出してしまった。
ASAKA1『なんでそんなにテンション高いんですか。夜中ですよ今』
よいこちゃん『良い子は寝る時間。酔子は起きてるけど。なんつって』
ASAKA1『滑ったネタごり押しされても……いや性格は普通だと風のうわさで聞いたので』
よいこちゃん『普通だよ私は。世界普通選手権があったら平均点を取れる自信があるよ』
ASAKA1『あんたが世界のスタンダードじゃこの世は終わりだよ』
よいこちゃん『失礼な後輩だなキミは。つまりだね、私は普通という体面を保ってきた人間だってわけだよ。こんな体質になる前まではね』
ASAKA1『はあ』
よいこちゃん『そんな私が普通じゃなく見えるってことは、きっと私は自分で思ってる以上に……キミに出会えてはしゃいでるってことなんだと思う』
……不覚にもちょっとドキッとしてしまった。
よいこちゃん『お? ドキッとさせちゃったかな? 辛いわー、無自覚な年下殺しのチャーミングな先輩で辛いわー』
ASAKA1『からかってるなら怒りますよ』
よいこちゃん『からかってなんかないにゃ。だって今の私のそばにいて気絶せずにいられる人なんて、家族を除いたらキミしかいないんだよ?』
ASAKA1『オリヴィエと注連内さんもいるじゃないですか』
よいこちゃん『だからあの二人はまだ完全に信用できないって。それに気づいてた? あの二人、一度も私の半径二メートル以内に近づいたことないよ』
ASAKA1『……確かに』
言われてみればあの二人、体育館エントランスで出会った時も、地学準備室で話していた時も、常に先輩から距離を取っていた。
よいこちゃん『キミが本当の私と接してどう思うかは勝手だけど、キミは既に私にとって唯一無二の特別な人なんだよ。私に失望してもいい。それでも今、私の世界にはキミしかいない』
よいこちゃん『キミを見つけた時は夢かと思った。「やっと私と一緒に居られる人がいた!」って……話せなくってちょっと落ち込んだけど』
よいこちゃん『いや、かなり落ち込んだけど』
よいこちゃん『こうやって会話できるなら何の問題も無いじゃん? 話し相手になってよ』
ASAKA1『まあ……俺でよければいいですけど……』
よいこちゃん『どうしてもってんなら別に恋人になってやっても構わんよ?』
ASAKA1『いやぁそこまでは』
よいこちゃん『何が不満だ。憧れの先輩だぞ』
ASAKA1『「富士山は遠くから見ると綺麗だけど近くで見るとゴミだらけ」って言った野球選手がいてですね』
よいこちゃん『チッ……ガキが……。とにかく明日から放課後は地学準備室に来いや』
ASAKA1『はあ。で、あの二人は?』
よいこちゃん『……まあ、私はまだあの二人を信用できないが、キミがエローラだかカローラだかが見えたっつーからそれに免じてやろう。だから責任もってキミも同席しなさい。キミは自分の体質に折り合い付けてるからいいけど、私はさっさと普通の女の子に戻りたいの! 藁をも掴む思いなの! 分かった!? それともこんな嫋やかで儚げな乙女を、初対面で濃厚な性癖を語ったり□□□□露出したりする男と一緒にさせてキミはのうのうとしていられるってのか! 人でなし! 裏切りボーイ! ことなかれ主義純情派!』
ASAKA1『勝手にヒートアップしてブチギレないでください』
ちなみに文面上に『規制』される単語があった場合は。こうやってそこだけ黒塗りならぬ『光塗り』になるのである。
よいこちゃん『マジで明日来なかったら許さないからな。私を猟奇殺人鬼にしてくれるな』
ASAKA1『何する気なんですか……心配しなくても行きますって』
よいこちゃん『絶対だからな』
ASAKA1『分かりました分かりました。じゃあ俺もう寝ますね』
よいこちゃん『ちょっと待てよー。朝までお話しよーぜー』
ASAKA1『おやすみなさい』
よいこちゃん『夜はこれからなんだぞ! もっと私を楽しませろ!』
よいこちゃん『なあなあ、キミ好きな人とかいんのかよ。言っちゃえよ~』
よいこちゃん『おいこら先輩より先に寝るとか常識がなってないぞ常識が!』
よいこちゃん『……え、ガチで寝た? 既読つかないし』
よいこちゃん『はーつっかえ』
よいこちゃん『………………………………………………………………………………』
よいこちゃん『嬉しかった。こんな私に憧れてくれるなんて』
よいこちゃん『本当にありがとう。私の前に現れてくれて』
よいこちゃん『限界だった』
よいこちゃん『あの冷たい鉱物しかない部屋で一人ぼっちで過ごすのはもう疲れちゃった』
よいこちゃん『信じてるから』
よいこちゃん『おやすみ。また明日』