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現代病床雨月物語 第二十四話  秋山 雪舟(作) 「民とマリア観音(その五)  魔王・信長に謀反を起こして生き残った戦国武将・荒木村重」

作者: 秋山 雪舟

 道薫と言う名は茶人としての号であります。千利休(千宗易)が認めた高弟として利休七哲とも利休十哲とも言われる茶の名人です。また武将としての名は、荒木村重です。摂津国のうまれです。

 村重は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の説得で魔王・織田信長の傘下にはいります。

 この時の魔王・信長は天下に号令をする武将への道を追及している真最中でした。とりわけ京の都に隣接している摂津・河内が重要な地域である事を理解していました。

 魔王・信長は優秀な人物ほど過酷に対応して『踏み絵』を踏ませる性格があります。それが荒木村重との初対面での出来事です。細川藤孝(幽斎)に連れられた村重は魔王・信長の前で平伏して挨拶をしました。これに対し魔王・信長はまんじゅうを小刀に突き刺したままの状態で「これを食え」と言い村重にまんじゅうを食べさせたのです。そのかわり魔王・信長は義理の娘として唯一愛した女性・吉乃よしのが生んだ最初の夫の間に出来た娘である「だし」を村重にあたえるのです。その後も村重は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧めで嫡男の荒木村次と明智光秀の長女・さと(細川ガラシャの姉)を結婚させます。

 また村重は魔王・信長に謀反を起こす以前に松永久秀から名器である茶壷をもらいうけたと言われています。松永久秀は、どこかで自分と同じ感性を持っていると感じて茶壺を村重に渡したのだと思います。

 村重は松永久秀と同様に魔王・信長のやり方に最初から違和感を持っていましたが秀吉(豊臣秀吉)との縁もあり従っていました。しかし松永久秀の謀反とそれに対する処罰に納得しがたい心を持っていました。もともと村重は当時の大坂の石山本願寺(一向宗)に対して魔王・信長ほどに敵対感情を持っていませんでした。それどころか松永久秀と村重も共に家臣達の中には多くの一向宗の信者がいたのです。村重は一向宗と松永久秀との関係に懊悩しそのジレンマから謀反を起こしました。

 村重の謀反を知った魔王・信長は松永久秀に続き心理的に窮地に陥ります。しかし最初に村重と共に謀反を約束した中川清秀(賤ヶ岳の戦で自決)や高山父子ダリオとジェストが戦列から離脱してしまいます。これにより信長軍との圧倒的な戦力差により敗北を余儀なくされます。

 ジェスト(高山右近)は離脱にあたり家臣を捨て死ぬ覚悟で白装束になり魔王・信長の前に現われます。魔王・信長は死を覚悟して自分に向かってくる人物に対して生の苦しみを与えるのです。「ジェスト(高山右近)はさきほど俺の前で死んだ。今俺の前にいるのは生まれ変わったジェスト(高山右近)である。これより俺の家臣となるのだ。」と言われ直参の家臣にされます。

 村重勢の城は、織田軍の包囲の中、有岡城(伊丹市)・花隈城(神戸市)・尼崎城(尼崎市)等を悉く攻め落とされます。魔王・信長は村重に関係する老若男女を悉く京都・大坂・兵庫(尼崎)など至るところで処刑をします。とりわけ残忍だったのは、兵庫(尼崎)の七松の処刑でした。魔王・信長の命令でそれをしたのがキリシタンの高山ジェストでした。この時には村重はすでに城を脱出し落ちのびて毛利に庇護されて尾道にいました。

 その後天下を取った豊臣秀吉は、大坂で茶人として村重を呼び寄せます。秀吉にすれば村重が謀反の中でも人質となった小寺官兵衛(黒田官兵衛=シメオン)を処刑しなかったからです。

 村重は生涯この家臣達の死で苦しみます。現在で言うデス・ギルド(サバイバーズ・ギルド)です。本来ならば真っ先に死んでいなければならない自分が死者の仲間から除外されて生き残った意味は何なのかと自責続けるのです。村重は、サムライを捨て自分に従って処刑された人達の魂を鎮魂するため僧侶になります。村重は生涯キリシタである高山ジェスト(右近)や小西行長アグスチノを嫌い天正一四年五月四日(一五八六年六月二十日)に堺で亡くなります。今も墓が堺と伊丹にあります。

 余談ではありますがこの魔王・信長による数々の処刑は現代の人々の生活にも少なからず影響を及ぼしているのです。JR神戸線の尼崎駅と立花駅との間にある七松付近において事故により関西圏のJRのダイヤが乱れます。それは『信長公記』に「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」と記されています。天正七年(一五七九年)十二月十三日に有岡城(伊丹市)の女房達百二十二人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺されたのです。今から四百四十年前の出来事なのです。無念の魂が私達の事を忘れるなと警告を発しているのでしょうか。その魂が時空を越えて現代人を引き寄せているように思ってしまいます。


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