ひと月にも満たない、およそ八十年分の恋
「わたし、お兄さんの恋人になりたい」
と年端もいかない少女が告げました。
「君とは恋人になれないよ」
と一回り以上年上の青年はいいました。
「どうして?」
「僕と君では、生きる時間と生きた時間があまりに離れているから」
「要は歳の差がありすぎるっていうこと?」
「そうだね。僕は年上の女性が好みなんだ」
「年下は興味ない?」
「うん。ましてや未成年の子供だなんて」いって、青年は首を振りました。
「わたしは子供じゃないもん」
「子供だよ。僕からすれば、まだまだ子供の域を出ない女の子だよ」
青年の物言いに、少女は可愛らしく頬を膨らませました。
「僕の恋人になりたいっていうんだったら、僕より年上になることだね」
「そしたら、恋人になってくれるの?」
「ああ、いいとも」
「ほんと? 絶対の絶対?」
「なれるものならね」
「わかった。じゃあ、約束ね」
いって、少女は小指を差し出してきました。
青年はため息をついて、仕方なく少女のそれに応じました。
指切りを交わして、少女は青年のもとを去りました。
なれるはずがないのに、馬鹿だなあ。
遠ざかっていく少女の背中を見つめながら、青年はそう思いました。
**
翌日のことです。
青年のもとに、一人の女性が現れました。
会うやいなや、女性は花を咲かせたように笑顔を浮かべました。
「どう、お兄さん? わたし、あなたよりも年上のお姉さんになったよ」
驚いたことに、その女性は昨日青年に告白してきた少女だったのです。
当たり前の話ですが、青年はそんなことは信じません。
「初めまして。僕は覚えがないのですが、どこかで会ったことありましたっけ?」
「もう。往生際が悪いよ、お兄さん」
元少女は頬を膨らませた後、妖艶な微笑みを浮かべました。
「わたし、綺麗になったでしょ? お化粧してもらったの」
「確かに綺麗です」
青年が素直に褒めると、女性は頬を赤らめました。
そういうところは──内面はまだまだ子供のままなのかもしれません。
「なら、年上になったわたしと恋人になってくれるかしら?」
「初めてお会いした女性と唐突に恋人になるというのは」
「だめだよ、お兄さん。ちゃんと約束守って貰わないと」
青年は思わず嘆息しました。
「仮に、万が一、あなたが昨日の少女だったとしましょう」
「うん、うん」
「一晩でどうやって成長したというのです? そんなこと、あり得ません」
すると女性は、あはは、と屈託なく笑いました。
「そういうお薬があるの。一粒で三年、二粒で六年、三粒で九年も体が歳をとるの」
「そんなの、ずるいよ」
「あ、やっと信じてくれた?」
「もしそんな薬があったとしよう。君がしたそれは反則だ」
「恋にルールなんてないって、よくいうじゃない。それに年上になればいいっていったの、お兄さんだよ」
少女が思いがけない手段を用いて自分より年上になってしまったことに、青年は悔しくなりました。
冗談でいったつもりが、まさか本当に実現しようとは。
ふと青年に妙案が浮かびました。
「わかった。じゃあ返事は明日していいかい?」
「どうして明日なの?」
「僕にも心や服装の準備がいるからね。それほど君は綺麗だってことなんだ」
「あ、もしかして照れてるの?」
女性は口元を隠して、からかうように笑いました。
「いいよ。じゃあ照れ屋なお兄さんを一日待ってあげる」
「ありがとう。それじゃ明日、この場所で」
「うん。またね」
そうして二人は一旦、別れました。
**
翌日のことです。
約束の場所で青年を待っていた元少女の女性の前に、一人の男性が現れました。
「やあ。待たせて悪かったね」
顔立ちは青年と瓜二つなのですが、少しだけ目元に皺が見受けられました。
声も青年より太く低いものでした。
「もしかして、お兄さん?」
女性は確認しました。
「ああ、そうだよ」
「なんだか一日で歳をとったように見えるよ」
「実際に歳をとったんだ」
「あ、薬飲んだでしょ」
女性が指摘すると、男性は得意げに口角を上げました。
「どうだろうね。確かなのは、僕が君より年上だっていうことだ」
「ずるいよ」
「それは君も同じだろう? 悪いけれど、僕は年下の異性に興味がないんだ」
「お兄さんの意地悪」
女性は片頬を膨らませ、むーっと唸りました。
「わかった。じゃあ、また明日ここで逢おうよ、お兄さん」いって、少女は首を振りました「おじさん」
「ああ、わかった」
そうして二人は一時的に別れました。
**
翌日のことです。
男性は約束の場所で女性を待っていました。
すると、一人の女性が現れました。
顔立ちは昨日の女性と瓜二つですが、顔の各所に小皺が目立ち、手の甲や首にもそれが見受けられました。
「やあ、君は懲りないね」
男性はこうなるだろうと予想がついていました。
「お兄さんが頑なだからだよ」
「まあね」
「なんだか体が重くなっちゃって、途中で何度も転びそうになっちゃった」
「そうはそうだよ。身体が急に歳をとったんだ。感覚が狂ってしまうよ」
「さて、お兄さん。わたしと恋人になってくれる?」
そうした二人のいたちごっこは、しばらく続きました。
**
初めて少女が青年に想いを告げた日から、三週間が経とうという頃のことです。
かつての少女は、今や腰の曲がった老婆となりました。
かつての青年は、今や杖が離せない老爺となりました。
二人は元々頑なな性格であったため、どちらかが折れるまで薬の服用が続いた結果です。
「やあやあ、お兄さん」
「やあ、こんにちは」
姿も声もすっかり年齢相応なものですが、中身はまったく変わっていません。
それもそうです。
なにせ、二人に流れた時間は実際のところ、まだ一カ月も経っていないのですから。
「なんだかお兄さんは昨日と変わっていないように見えるけれど、わたしの気のせい?」
「いや」と老爺はゆっくり首を振りました。「変わっていないよ。飲んでないからね」
「じゃあ、約束、守ってくれるよね?」
老爺は皺を刻むように笑いました。
「ああ、降参だ。僕の負けだ。君の恋人になろう」
「やった」
思わず老婆は喜びをあらわにしましたが、つと疑問が浮かびました。
「でも、どうして急に薬を飲むの、やめたの?」
「それはね」
老爺は昨晩、考えに考えました。
ここまで自分を好きで、恋人になろうと文字通り命を削ってくれる人が他にいるだろうか?
手遅れかもしれないが、今なら彼女を死ぬまでの短いあいだは愛してあげられるのでは?
ふと、そう思い直したのです。
すると次々に感情が湧き上がってきました。
初めに後悔と罪悪感が、そして愛情が胸の奥底から沸々と。
だから老爺は薬の服用をやめたのです。
「君には謝っても謝りきれない。僕なんかのために命を削らせて、本当にごめん」
老婆は目が点になりました。
程なくして、あはは、と笑いました。
「そんなの、どうだっていいよ。わたしはお兄さんに振り向いてほしい一心でやってたんだから」
老婆は一度咳き込みます。
老爺は彼女の曲がった背中を優しく撫でてあげます。
「確かに行き過ぎた感は否めないけど、お兄さんが私に振り向いてくれただけで充分だよ」
「僕が意地になって君のまねごとをしなければよかったんだ」
「それはわたしだって同じこと。薬なんか使わないで、ゆっくり時間が過ぎるのを待てばよかった」
二人が出会った頃、少女は青年より一回りも幼かったのです。
その頃の年齢差では、間違いなく恋人になりえない差でした。
ですが、少女がやがて普通に大人へ成長していれば、多少の年齢差なんて珍しくもないでしょう。
二人はどちらも生き急いでしまったのかもしれません。
「でも、わたし、後悔はしてないよ」
「そうなの?」
「うん。幸せの絶頂で終われるなら、何もいうことはないよ」
「ああ、それは確かに僕も同じだ」
「お兄さんの寿命って、あとどのくらい?」
「どうだろうね。もって、あと一カ月くらいかもしれない」
「じゃあ、わたしと同じくらいだね」
「それは運命的だね」
「だね。仲良しさんだ」
老婆と老爺──かつての少女と青年は手を繋ぎました。
ゆっくり、ゆっくりと同じ歩幅で同じ道を歩いて行きます。
読んでくださりありがとうございます。この拙著は息抜きに書いたのですが、読んでくださった方々の反応を鑑みて、下地をもっと練り込んだ連載小説にしようかと検討しています。
拙著にご感想や評価していただければ幸いです。