十話 葛藤
目が、覚めた。
それはあるひとつのことを意味している。
「……死んでも、だめ、か」
僕はさっき、確かにあの台所で心臓にナイフを突き立てた。母さんの目の前で。
感覚は今でも残っている。冷たい金属が、温かい血をかき分けて……。
もう、想像するのも辛かった。
「……これから、どうしようか」
僕は自分に問いかける。
これからどうする。どうすることもできないこの状況を、どうするっていうんだ。
……残された道は、ひとつしかないらしい。
――リルンを、殺す。
…………僕の、好きな人を。
「殺さないと……いけないのかぁ……」
ふと、涙がこぼれた。
それは、自殺する前の、辛さからの涙では無い。
ただただ、悔しいのだ。思うように弄ばれるのが。あんなわけもわからないやつに、不条理に任務を押しつけられ、理不尽にいたぶられるのは。
だが、今の僕にあれをどうにかする力も無い。あらがうのも、無理だ。
――どう、しようかな。
―― ―― ―― ―― ――
「おう、ケル。浮かない顔してんな。どうした?」
僕の足は、無意識にトカさんの元へと向かっていた。
理由はわからない。ただ、なんだか勝手に動いてしまったのだ。
「……トカ、さん」
僕は、ふらふらとトカさんに歩み寄る。
その異常を察したのか、トカさんも農具を置いて深刻な面持ちで僕に語りかける。
「どうした? 大丈夫か?」
「大丈夫じゃ、ないんだよね」
だって、これからリルンを殺さないとならないのだ。そんな事実を前に、普通でいられる精神など持ち合わせていないし持ちたくも無い。
だが……。
「ほら、言ってみろ」
「……言えないんだ」
その言葉に、トカさんが首をかしげる。
そりゃあそうだ。こんな異常なぐらいに暗い顔をしているであろうに、トカさんに言えないことなんてないはずなのに。
――だって、言っても何も変わらない。トカさんはただの村人。言おうが言わまいが関係ない。
それなのに――なぜだろう。
「言うのが、怖いんだ……」
「――そうか。そうなんだな。わかった」
トカさんが、土のついた手で僕の頭をなでる。
「言えないならそれでいい。人間。言えない秘密の一つや二つなんてざらにある。ほれ、うちにこいよ。美味い茶あるぞ?」
「うん……うんっ……」
僕は泣きじゃくりながらトカさんに連れられて家へと向かう。
でも、僕が本当は何が怖いのか、自分でわかっていた。
――リルンを殺すと、殺害予告を親の代わりのような人の前で言えるわけがないじゃないか。
―― ―― ―― ―― ――
「ほれ、レモンティーだ」
「ありがとう」
しばらく大声で泣いた後、僕はトカさんの家に招き入れられた。
白い陶器のコップに入った、レモンの甘い香りのする紅茶をゆっくりと泣いたあとの余韻とともに体の奥へ流し込む。
……なんだか、心が洗われたみたいだ。
美味しいものを食べるというのは、至福の一時である。
「で? 何があったのかは言えないのか?」
「……うん。ごめん」
「なんで謝るんだ。……ま、言いたくなったらいつでも来い。聞いてやるよ」
――でも、きっと言いに来る日は来ない。
そんな気がした。
「トカさん。この紅茶美味しいね。誰から貰ったの?」
「なんだ、勝手に貰いもんだと決めつけやがって」
「いやぁ。トカさんに限って自作なんてことは……」
「自作だよ馬鹿野郎」
「ほんと?!」
こ、これが?!
あの料理が大の不得意だということを自覚していないはずのトカさんがこんな美味しい紅茶を……。
「嘘だよ。……お前は俺をどう思ってるんだ?」
……あー。
「えっと……。ま、まあまあ、そんなことは置いておいて!」
「雑に流しやがって。……ま」
にやり、とトカさんが笑う。
「調子、戻ったか?」
「え? あ、うん」
そういえば、さっきまでのあの暗い感情はいつの間にか僕の中から消えていた。
……本当にトカさんは、尊敬できるというか。
「ありがとね」
「ん。どうってことねえよ」
僕はまた一口紅茶をすすった。
……そういえば、朝から何かを忘れている気がする。
ふとそんな不安が押し寄せてきた。
なんだろう。何か、いつもあったものが無い。それがあったからこんな紅茶なんて飲んで無くて……。
「あっ!」
僕はイスをガタッと音を鳴らして立つ。
いけない、忘れてた。
「ど、どうした?」
「子猫!」
――そう、あの子猫をすっかり忘れていた。
もう今はお昼どき。――もしかしたら、死んでいるかもしれない。
「ちょ、トカさん! ナイフ熱しておいて!」
「あ? おいおい、どうしてそんなことが――」
「よろしく!」
それだけ言い放って僕は家を飛び出す。
「……急にどうした?」
取り残されたトカさんが、ぽかんと口を開けて呟いた。




