082 イシス教の大神殿
ジルは一度ロゴスへ戻ると、王宮を訪れフリギアでの交渉について報告した。解放後の統治などについては、国家間の問題となるのでアムネシアの手には余るのだ。
会議室には大魔導師ユベール、アムネシア、近衛騎士団長ルーファス、外務大臣が出席し、前線からレムオンも駆けつけていた。それだけこの会議で決定することは重要なのだ。
「解放後の統治については、貴公の言う通り一定期間我が軍が駐留し統治するということで良いだろう。そうだな、やはりそのままアムネシア殿に任せるべきだろう」
大魔導師のユベールがアムネシアに視線を向けた。
「はっ、我々としても否やはありません。ですが、フリギアの統治には私が当たるとして、ギールは如何なさいますか?」
アムネシアの第二方面軍がフリギアを攻略し駐留するとなれば、ギールが空白となる。シュバルツバルトの防衛には、バルダニアと対峙するギールも同じく重要なのだ。
「カラン同盟方面のサイクス殿を前線に回そう。カラン同盟と我が国は今すぐどうこうなることはないだろうしな」
御前会議にも出席した第三方面軍のサイクス=ノアイユは、シュバルツバルトの北部国境を守備している。シュバルツバルトは北部でカラン同盟と国境を接していたが、ここ数十年の間とくに対立を招いたこともなく、危険性は低い。帝国と全面的な戦となったからには、無駄な兵力を作るわけにはいかない。このサイクスの軍をギールへと回すということである。
「それでフリギアの処遇はどうするのです? いっそそのまま我が国に併合するのも手ではないですか?」
いつも変わらぬ笑みを浮かべつつ、ルーファスがそう提案すると、会議室は静まり返った。確かに軍を派遣することを考えれば、目に見える利益を挙げたいところである。フリギアを得ることができれば経済的なメリットは計り知れないだろう。
ルーファスの言葉を聞き、ジルは冷や汗をかく思いであった。もしこれが容れられれば、自分はクリフやガストンと約束したことを破ることになってしまう。ジルは、国家の利益に奉仕することと、私情とを両立させることが難しいことを思い知った。
「いや、それは上手くない手ですな。フリギアを併合すれば、バルダニアを刺激することになります。いまかろうじて中立を守っているバルダニアを、帝国側に追いやることになりかねますまい」
レムオンがこれに反論した。レムオンは前線を一時副官に任せて、この会議に出席している。フリギアの動向は、彼と彼の軍にとっても非常に重要な問題なのである。ここでシュバルツバルトがフリギアを併合するという挙にでれば、バルダニアの嫉妬を招くことになる。敵国の利益は自国の損失であり、各国は互いに牽制しあっているのだ。
「ここはやはりフリギアの自治を回復させ、大陸各国に我が国の誠実さをアピールしておく方が得になるでしょうな。幸い駐留費用はフリギアからの税でまかなえるようですし、フリギアの支持があれば各国の協力も得やすくなるはずです」
レムオンの言葉で、戦後のシュバルツバルトとフリギアとの関係は大筋で決することになった。だがレムオンがいなければ会議の行方はどうなっていたか、ジルは王宮内での政治というものの難しさを感じていた。
「そのクリフという男には、反乱を起こすに十分な戦力があるの?」
アムネシアがジルにそうたずねた。フリギアの攻略は、第二方面軍に任されたのだ。司令官としては万が一にも負けることがないよう、戦力を確認しておく必要がある。
「いえ、それが戦力が不足しているようで自信を欠いた状態でした。すぐに何らかの手を打つ必要があるでしょう」
「それはまずいな……。何か対策はあるのか?」
「一つ試したいことがございます。ロゴスのイシス教大神殿の力を借り、フリギアの教団組織を通して市民を動員できないでしょうか?」
会議の出席者たちは不意をつかれたような反応を示した。
「なるほど、イシス教か……。フリギアにも教会があるし、悪くない手かもしれないわね」
アムネシアがそうつぶやくと、レムオンやルーファスなども頷いて同意した。
「人は苦しい時こそ神にすがるもの、信仰の影響力は侮れないな。それでジルフォニア殿、王宮から神殿に一筆書けば宜しいかな?」
ユベールがそうジルに語りかけた。ジルがいきなり大神殿に行っても軽く見られる恐れがある。国家として協力を要請する書状があれば、神殿側もジルの言うことを無視できないだろう。
「はっ」
ジルはそっと頭を下げた。
「それにしても、ジルフォニア殿。今回の働きなかなか見事。アムネシア殿も負けてはいられませんな」
「ははは、確かに」
ユベールの言葉にアムネシアが苦笑しつつ同意した。
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王宮での会議の後、ジルはロゴスにあるイシス教の大神殿へと向かった。イシス教は、女神イシスを崇拝する大陸で最大の信者を誇る宗教である。イシス教の中心は、シュバルツバルトとバルダニアであり、両国に大神殿が存在する。もともと一つの国であった両国が分裂するきっかけになったものこそ、このイシス教であった。
イシス教の教義の上で対立する両国であるが、教会組織に明確な違いがあった。シュバルツバルトは王がイシス教を保護するとはいえ、教団内部のことについて干渉することはできず、イシス教団は王国から自立した存在である。それゆえ、シュバルツバルトでは王宮がイシス教に協力を「要請」する必要がある。これに対しバルダニアでは、王が教会組織の長を兼ねており、自ら教会を指導する立場なのだ。
ジルはいま大神殿の前に立っていた。
「大きい……」
神殿を目の前にしたジルの率直な感想であった。ロゴスの大神殿は、300年以上の歴史を誇る石造りの建築物であり、太い柱を特徴とする当時の美術様式で造られている。この神殿の長である最高司祭こそ、シュバルツバルトにおけるイシス教の最高権力者である。現在この最高司祭についているのが「聖女」シーリスであった。
聖女シーリスは国内外に名高い。現在38才になるが、若い頃絶世の美女と歌われたその容色はさほど衰えていない。彼女は18才にして神を「見た」とされ、聖女として崇められた。
容姿が美しいことも多少の影響はあろうが、シーリスはそれ以上に神がかり的なカリスマ性を持った女性で、多くの信者から支持されてきた。
何より、大陸でもわずかしかいない第五位階の神聖魔法の使い手として知られる。そのため若くして司祭、25才にして高司祭となり、教団の重要な幹部となった。そしてそれから約10年後、彼女は教団内部の投票によって最高司祭に就任したのである。
ジルはこのシーリスに直接協力を要請するつもりであった。神殿の内部に入ると奥に礼拝堂があり、一般の信者はそこに向かう。ジルは近くにいる見習いの司祭に声をかけ、来意を伝えた。王宮からの書状は司祭を驚かせ、すぐに上司の司祭へと伝えられた。
「魔術師殿、どうぞこちらへお進み下さい」
年配の司祭が恭しく案内に立った。神殿の内部を案内されるうち、歴史のある絵画、彫刻、ステンドグラスを眼にして、ジルは頬をゆるめた。聖職者でない者が神殿の中に立ち入るなど、滅多にない機会だろう。神に仕える神殿のことゆえ、ジルが通されたのは質素な部屋であった。もし贅沢を凝らした部屋であったら、かえってジルは気分を害したかもしれない。
この部屋でジルがしばらく待つと、中年を迎えた女性が数人の聖職者を引き連れて部屋に入ってきた。
「初めまして、上級魔術師殿。私はシーリスと申します。この度はシュバルツバルト王国の使いで参られたとか。お話をお聞かせいただきましょう」
シーリスの名乗りを聞きつつ、ジルはなぜかこうした光景をどこかで見たような、そうした既視感を覚えていた。




