061 王宮への飛行
ジルは差し当たり、自分宛ての書状に目を通した。
「ジルフォニア=アンブローズ殿、久しくお会いしていないが変わりはないだろうか。先日私の娘レミアの遺品を届けてくれたことを、わたしは大変感謝している。その貴殿の人間性を信じて大事を託したい。わたしはシュバルツバルト王国への亡命を希望する。我が領地も全て王国に差し出すつもりだ。わたしは帝国によって息子と娘を殺された。娘レミア=シュライヒャーを殺したのは、帝国の特務機関『黒の手』の首領ベイロンだ。そしてそれは、シュバルツバルトのアルネラ王女を誘拐したのが帝国の陰謀だったということを意味する。この事実は、貴国にとっても見過ごすことのできないものであるはずだ。わたしは、この事で証人となる用意がある。恐らく以上のことは、貴殿が判断できる範疇を超えているだろう。だから、もう一通の書状を王国のしかるべき人物、例えばゼノビア殿のような人物に手渡して欲しい。わたしの命運は貴殿にかかっている。善処をお願いしたい。 エルンスト=シュライヒャー」
ジルは書状を読むと、事態の深刻さを改めて認識した。これはシュバルツバルト王国と帝国との戦争になるかもしれない、そう予感させるものであった。
仮にエルンスト=シュライヒャーの亡命を認めるとすれば、その領地をめぐって帝国は黙ってはいまい。ましてシュバルツバルトがアルネラ誘拐の非を帝国に対して追求すれば、両国関係は完全に冷え込むことになる。いつ戦争になってもおかしくないだろう。
この書状がこのまま王国の手に渡れば、少なくとも王位継承争いでアルネラを支持する者たち、そして帝国に対する急進派は帝国を激しく批判することになるのは間違いない。もし両国の戦争を防ごうとするなら、最も良いのはこの書状を握りつぶしエルンストを見殺しにすることである。
が――
ジルはそうする気にはどうしてもなれなかった。レミアの父エルンストに同情していたし、実際に会ったことで、すでに知らぬ他人ではなくなっていたからである。それにどう考えてもジルの身分、立場で勝手に処理して良い問題ではないのも確かだ。これはひとまずゼノビアに相談するのが一番良いだろう、そうジルは考えた。
ジルは夜空を見上げた。まだ夜が明けるまでには数時間ある。事態は一刻を争う。朝になってから馬車を走らせるのでは、エルンストの身が危うくなるかもしれない。ここは最善を尽くし、いま行動に移すべきだろう。だが、王都ロゴスまではかなりの距離がある。歩いて行っては余計に時間がかかってしまう。
「ミリエル、お前フライは使えるか?」
「ええ、使えるわよ。高度な魔法だけど、あなたは使えるの?」
「ああ、最近覚えたばかりだがな。この問題はシュバルツバルトの一大事だ。なるべく早く王宮へ知らせたほうが良い。だからこれからここを出発するつもりだ。ただ俺はまだ長距離を飛ぶのが難しいかもしれない。最悪、お前の世話になるかもしれない」
「ちょっと、大丈夫なの? わたし一人なら問題ないけど、人を乗せたことなんてないわよ」
ミリエルは眉をひそめる。
「そう言うな。これは本当に大事なことなんだ。協力してくれれば、お前やエルフにこれ以上ないくらい感謝しよう」
ジルの真剣な眼差しを正面から見て、ミリエルは顔を赤らめた。なぜ自分が照れなければならないのか、ミリエルには分からなかった。人間の世界で長く生活するうちに、エルフの森では無かったことを色々と経験している。ミリエルはそれを決して無駄なことだとは思わなかった。
王都ロゴスまで飛ぶことを決意した二人は同時にフライの詠唱を始める。
「マルドゥール・アルダイダ・リーンフォール・スールシュロム ジリエスタ・グロス・ハンス・レルムス 万能なる偉大な力よ 我が双翼となりて飛翔せよ」
呪文が完成すると、二人の身体が勢い良く空へと浮かび上がった。実のところ、ジルはフライで実際に長い距離を飛んだことがなかった。まだ試行錯誤している段階で、宿舎の周りを何分か飛んだことがあるだけであった。だが、今はそうも言っていられない。
夜の闇の中を飛行するのは気持ちが良かった。空を飛ぶことで、夏の暑さが和らいでくる。馬車で行けば迂回しなければならない森を越えてショートカットすることができる。フライで飛び続ければ、朝にはロゴスにつくことができるだろう。
だが――
やはりまだジルにとってフライは慣れない魔法であったようだ。ロゴスまであと3分の1の距離のところで、ジルは魔力が尽きてくるのを自覚した。仕方なくジルは下へと降りていく。それを見てミリエルは不審に思いつつ、自らも地面に着地する。
「どうしたの? まさか魔力が尽きたんじゃないでしょうね?」
「……残念だがその通りだ。すまんがお前のフライで運んでくれ」
やはり現在の魔法の実力では、エルフであるミリエルに一日の長があるようだ。そもそも、年齢から言ってもミリエルの方が上なのだ。
「仕方ないわね……変なことしたら承知しないからね」
ジルは真面目な頷きつつ、ミリエルの後ろについて腰に手を回す。
「ちょっと!! どこ触ってるのよ!」
「どこって……腰の他に触れられるところはないじゃないか」
「……ま、まあ良いわ。ちゃんと捕まってなさいよ」
ミリエルが再びフライで空に浮かび上がる。フライは魔法力で飛んでいるため、実のところ人一人が増えたくらいでは魔力消費が大きく変わるということはない。
それまでと変わらない速さで二人は空を飛んだ。そして2時間後、視界の向こうにロゴスの城壁が見えてきた。
「城壁はどうするの? 飛び越えて良いのかしら?」
「……そうだな。もう正門から入ることはできないだろう。衛兵に事情を話せば分かってくれるかもしれないが、事態は一刻を争うんだ。ここは城壁を越えさせてもらおう」
ジルは心の中で衛兵に謝りつつ、城壁を越えて街に入った。二人はしばらく行って王宮から少し離れたところに着地する。さすがに王宮にフライで入るわけにはいかない。入り口の衛兵に事情を話して、ゼノビアに伝言してもらうしかない。幸いジルの名は、アルネラを2度救った英雄としてそこそこ知られていた。何度か王宮を訪ねるうちに、衛兵も顔を覚えているかもしれない。
「さすがに王宮の中にお前を連れて行くわけにはいかない。エルフが一緒では大騒ぎになるからな。街の外で待っていてくれ」
「分かったわ。私も魔法をかなり使ったから、しばらく休ませてもらうとするわ」
ジルはミリエルと別れると、王宮の入り口に向かって歩いて行った。夜中に訪れたジルを衛兵は怪しんだが、幸いなことにジルの顔を覚えていてくれた。ジルは手短に国家の大事であることを説き、ゼノビアに自分が来たことを伝えてくれるよう求めた。衛兵はジルの表情や話の内容から、その重大さを理解し急いで王宮の中へと入っていった。
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その頃ゼノビアは、王宮の中に与えられた私室で就寝中であった。今は夜中の3時である。昼間は任務で気を張っているため、夜は疲れてよく眠れる。しかし今日はいつもと違った。
部屋のドアを激しくノックする音が聞こえる。ゼノビアは不審に思いつつも、何事かが起こったことを悟り、急いで上着を来てドアを明ける。
「何事だ!?」
衛兵がかしこまってドアの前に立っている。
「ただいま、王宮の門のところに、ジルフォニア=アンブローズ殿がお見えになっています。緊急の要件だということです」
「なに? ジルが?」
ゼノビアは、この時間、そしてこの場所で聞く名前として、最も場違いな名前を聞いた気がした。ジルが一体何の用事だろうか?
「分かった。少ししたら、私が自分で門へ行く」
ジルの要件をいぶかりつつ、ゼノビアは外へ出る準備をした。薄いネグリジェを脱ぎ、戦士としての服に着替える。部屋から出る時に、ゼノビアは鏡でおかしなところがないかチェックする。
「ふふ」
ゼノビアは自分のことが可笑しくなって、つい笑いをもらしてしまった。自分が外見を気にするとは、以前には無かったことだ。
門まで行くと、衛兵の側にジルが立っていた。緊急の要件というだけに、深刻な表情を浮かべている。ゼノビアはジルに会えた嬉しさを押し隠してジルに話しかけた。
「ジル、どうしたんだ? お前がこんな時間に訪ねてきたんだ、よほどの大事だろうな」
「ええ、そうです。ですが、ここで話せることではありません。どこか内密な話しができるところで……」
「分かった。私の私室で話そう」
ゼノビアはジルを自分の私室へと案内した。
「それで、緊急の要件とはなんだ?」
「帝国のエルンスト=シュライヒャーのことはご記憶にありますよね?」
「シュライヒャー? ああ、以前君と一緒に娘の遺品を届けにいった男だろ? 帝国の有名な軍人だ。彼がどうかしたか?」
「実はエルンスト=シュライヒャーが、シュバルツバルトへの亡命を希望しています」
ゼノビアは驚いて眼を大きく見開いた。
「なに!? なぜジルがそれを知っているのだ?」
それが本当なら、確かにこれは一大事と言って良いだろう。
「そして更に重要なことは、アルネラ様の誘拐事件の首謀者が帝国であったことです」
「なにぃい!?」
ゼノビアは今度は思わず腰をあげ、ジルにつかみかかった。
「本当なのか!? ジル、なぜ君がそのことを知っているのだ!」
アルネラの護衛を担当しているだけに、ゼノビアは誘拐事件以来、自分でも独自に捜査をしていた。しかし、これといった手がかりを見つけることができなかったのだ。それだけに、ジルがもたらした情報は、ゼノビアにとって青天の霹靂だった。
「これは、エルンスト=シュライヒャーからの情報です」
ジルはエルンストが自分に使者を送った経緯について説明した。レミアの死を明らかにするため、エルフのミリエルを帝国に送ったこと、彼女がみつかりエルンストによって許され、逆に使者としてジルに遣わされたこと、など。
ジルの話しを、ゼノビアは非常に厳しい表情で聞いていた。新たな情報が多すぎて、頭の中で整理するのも難しいだろう。
「これがエルンスト=シュライヒャーから王国宛の書状です」
ジルは机の上に書状を置き、ゼノビアに差し出した。
「この書状は私は中を見ていません。王国のしかるべき役職の方にお渡しするべきだと思いました」
「ふむ、そうか……」
ゼノビアは一瞬自分で良いのだろうかとためらった。しかし今は夜中で必要以上に騒ぐのは好ましくない。近衛騎士団副団長の自分なら、これを読む資格はあるだろうと思い直した。その上で、大臣なり大魔導師なりに書状を渡せばよいのだ。そう決めたゼノビアは、書状を開封して目を通すことにした。




