060 エルフ娘使者となる
バタン――
扉を開けて初老の男が部屋に入ってきた。彼はやや疲れた表情を浮かべ、部屋の奥にある椅子に深く腰掛けた。
「ふーー」
エルンストは深く溜息をついた。そして部屋の天井を見つつ、何事か考え事をしているようであった。時間にしておよそ5分。ミリエルは物音を立てないよう気をつけているが、じっとしていることは存外に大変なことだ。そのミリエルが立てたほんの小さな音をエルンストは聞き逃さなかった。彼自身が静かに物思いをし、館が静まりかえっていたのが災いした。
エルンストは机においた剣を手に取ると、油断なくそれを構えた。彼は部屋を見渡すが、不審なものは何もない。では部屋の天井や館の外に何者かが潜んでいるのか。しかし音は自分の近くから聞こえたはずだ、彼はそう考えた。
「何者だ! わしが帝国の将軍エルンスト=シュライヒャーと知ってこの館に侵入したのか? ベイロンや皇帝に命じられた者か? 姿を見せろ、曲者め!」
エルンストは剣を抜きつつ、部屋の中をにじり歩いた。戦士として力が衰えたとはいえ、超一流の戦士であったエルンストは、自己の感覚を信頼していた。その感覚からすれば、見た目には何も居ないが、部屋の中には確かに何者かがいる気配がある。エルンストは無駄かもしれないが、抜いた剣を振り回しつつ部屋を歩きまわった。使用人がそれを見れば、エルンストが狂ったと思ったかもしれない。
だがこれにはミリエルも閉口した。エルンストが暴風のように剣を振り回してやってくる。広くはない部屋でそれを完全にかわしきるのは難しい。そしてかわす時にまた音を立ててしまう。これでエルンストは、方法は分からないが何者かが潜んでいることを確信した。
ミリエルはついにエルンストに降参した。ジルの情報から判断すれば、エルンストは必ずしも敵対する者ではない。話せば分かってくれるかもしれないのだ。
「分かった! 降参するわ。いま姿を見せるから!」
そう怒鳴った若い女の言葉に、エルンストも驚く。なにしろ何もないところから声が聞こえたのだ。
そして――
エルフの少女が姿を現した。エルンストは驚きを隠し得なかった。自分の部屋に若い女が忽然と姿を現したのだ。
「魔法か……このような魔法があるとは知らなんだ。お主は一体何者……その尖った耳、もしかしてエルフか?」
その事実にエルンストはさらに驚いた。彼は軍人として様々な魔獣や怪物の類とも戦ったことがあるが、まだエルフには会ったことが無かった。エルンストに限らず、この世界の人間にとって、エルフとは存在自体は知られているものの、ほとんど伝説的な種族なのである。
「それでエルフがわしに何のようじゃ。この老いぼれのことなど探って何が目的じゃ?」
エルンストは鋭い視線をミリエルに注ぎ、問いただす。
ミリエルは迷っていた。本当のことを言うか、言うとしてもどこまで話すべきか、事はジルにも関わることだけに即断できずにいた。そもそもジルと友好を深めることがこの任務の目的であるから、彼に災難が降りかかるようなことは避けねばならない。
だが、結局のところ、ミリエルは全てを正直に話すことにした。それはエルンストと対面してみて、その人柄が信用できそうだと思ったからである。
「わたしにあなたを探るように言ったのは、シュバルツバルト王国のジルフォニア=アンブローズという男よ」
ミリエルが明かしたその雇い主の名前に、エルンストは聞き覚えがあった。
「ひょっとしてそれは、まだ若い少年ではないか? 確か魔術師を目指しているという」
「そうよ、覚えていたのね。王国の使者として、あなたの娘、レミアの遺品を届けに来たと言っていたわ」
やはりそうか、エルンストはそのジルフォニアという少年が印象に残っていたのである。使者というにはあまりに若く場違いにも見えたが、その若々しさ、野心的な眼が老人の自分には眩しかったのだ。そしてレミアの学友として、誠実に自分のところまで遺品を届けてくれた優しき少年である。エルンストはジルに対して決して悪い印象を持っていない。
だが――
「それでなぜ、ジルフォニアという少年はわしを探るようお主に依頼したのじゃ」
「あなたがお嬢さんが殺害された経緯について聞いた時、顔色を変えたからよ。ジルは友人として、レミアの死の真相を明らかにしたいと考えているの。だからあなたが、もしそれについて知っているなら知りたいと思っているのよ。それに――」
レミアはそこで一度呼吸を整え、再び説明を続けた。
「それにもう一つ、ジルはあなたが帝国で危険な立場におかれているのではないかと心配しているわ。あなたの反応から、三日月型の傷の男が帝国の人間ではないかと予想している。だとすれば、あなたは同じ帝国の人間にお嬢さんを殺されたことになる。ジルはあなたを監視している人間がいないかも探るように言っていたの」
「かたじけない」
エルンストはそう絞りだすように言った。彼にはジルが見せた優しさが、何より娘レミアの死を悼んでくれていることが嬉しかった。ジルの言うとおり、自分は娘の死の真相を知っている。では、どうするか――
「もうわしは、お主をどうこうするつもりはない。安心せい」
エルンストの言葉にミリエルは内心ほっと安堵の息をついた。これで全くの任務失敗という事態は避けられたのだ。
「しかし、エルフがわしを訪ねてくるとはの。ジル、という少年も変わった友を持ってるものじゃな。いや、それとも恋人かな?」
「ち、違うわよ! ただの知り合いってだけよ!」
エルンストが妙なことを言うので、ミリエルは慌ててしまう。
「うわっはっは! 久しぶりに心の底から笑ったわい。お主、不器用な奴よの」
エルンストは眼に涙をたたえて笑っていた。その涙は、決して可笑しくてだけ流した涙ではないだろう。
「さて、それではお主の知りたいことに答えてやろう。わしは、つい最近帝国から離反することを決めたばかりだ。その理由は、わしの娘レミア、そして息子のエミールを殺したのが『頬に三日月形の傷を持つ男』だからじゃ。奴は帝国の特務機関『黒の手』の総帥ベイロンという。帝国はわしがどんなに軍人として国に尽くそうと、平民出というだけでわしを害そうとした。そうまでされてわしが帝国に忠誠を尽くす必要がどこにある? わしはこの領地とともにシュバルツバルトに亡命を申請するつもりじゃ」
今度はミリエルの方が驚いた。エルンストの状況を探ってこいとは言われたが、事がここまで進んでいるとは思っていなかったのだ。どう考えても、自分が判断できるレベルを超えている。
「ちょっと! わたしが自分で判断できる問題ではないわ。どうしたらいいか……」
「わしは、お主が来てくれたことを好都合だと思っておるのじゃ。シュバルツバルトに亡命しようと思っていたところに、お主がやってきたわけだからな。確かにお主には大きすぎる問題だろう。だからお主にはわしからの使者になってもらいたい」
「使者?」
ミリエルにとって予想外の展開になってきた。エルンストを監視するために来たのに、逆にエルンストの使者として帰ることになるとは。
「そうだ。いまからシュバルツバルト王国とジルフォニア=アンブローズ宛に書状をしたためる。お主はそれをもってジルという少年のもとへ帰るがよい。その後は彼が判断して行動するだろう」
エルンストはそう言って、しばらく机に向かい2通の書状を書き、ミリエルに渡した。
「この書状は決して失ってはならぬ。これはわしの命を危うくするものだからな。だが、もし書状を失った時は、いまお主に話したことをそのままジルに伝えて欲しい」
「あなたの身は大丈夫なの? この館にはすでに監視している者がいるわよ」
「なに!? ふむ、やはり皇帝がわしに監視をつけたということか」
「館の裏手の森に潜んでいたわよ。正体までは分からないけどね」
「十中八九、帝国の者だろう。こうなると長くは持たぬかもな。急いでその書状を届けてくれ。頼めるか?」
エルンストは真摯な眼でミリエルを見た。そのような眼にミリエルは弱いのだ。
「分かったわ。間違いなく、書状を届けましょう。あなたも気をつけてね」
「なに、またエルフに再会したいからな、それまでは死ねんて」
ミリエルはエルンストの微笑みを見ると、再びインビジブルの魔法をかけて館を出ていった。
**
「と、いうわけだったの」
ミリエルはエルンストに見つかってからの経緯をジルに説明した。
「……」
ジルはミリエルの言葉を聞きながら、その意外な話の展開に驚いていた。まさか名将として名高いエルンスト=シュライヒャーがシュバルツバルトに亡命を考えているとは……。
だがレミアを殺害した「頬に三日月形の傷の男」が帝国の人間であったというのは予想通りであった。やはりエルンストには心当たりがあったのだ。ただし、その男が帝国の特務機関の長であり、エルンストの息子をも殺していたことは予想外だった。帝国ではそれほどまでに貴族と平民の格差が大きいということか。
「それで書状というのは?」
「これよ。あなた宛てに一つ、そしてシュバルツバルト王国宛にも一つ」
ミリエルは懐から2通の書状をジルに差し出した。ジルの立場でシュバルツバルト王国宛ての書状の中身を見ることはできない。これはしかるべき相手に渡さなければならないだろう。ジルは差し当たり、自分宛ての書状に目を通すことにした。




