005 初めての訓練
ルーンカレッジの朝は早い。5時にもなると、熱心な学生がランニングや魔法の反復練習にとりかかっている。魔術師になるためには体力づくりも必要で、ルーンカレッジを外界と隔てている巨大な壁沿いをぐるりと一周走るのが、学生たちに人気のコースである。
ジルは入学以来、早朝から訓練を積むことが日課となっている。何事も人と同じことをしていては極みに達することは出来ない。ジルは魔術に関することならどんな訓練であっても負担には思わなかった。彼にとって魔法とは尽きぬ興味の対象なのである。
この中庭では、流石に派手な魔法を使うことなど出来ないが、基礎的な体力や気力を鍛えることは出来る。ランニングの後、ジルは呪文の詠唱態勢に入ったまま、その姿勢を維持し続けていた。魔法を使うには非常な集中力が必要になり、魔法が使えない普通の人間には絶対に不可能な領域である。
実際に魔法を唱えることなく、その集中力を維持することで魔法に必要な持久力を養うことが出来るのだ。
ジルの気によって辺りの空気は張り詰めていた。しかし、遠くから近づく足音が聞こえたことで、ジルは集中を解きその人物を迎えることにした。
「やあ、きたね。おはよう」
ジルが今来たばかりのレニに声をかけた。彼女は慌てて駆けつけたようで、息は荒く身体が汗ばんでいた。
「す、すみません。おはようございます先輩」
「いや、それほど待ってはいないよ。約束の時間のまだ10分前だ」
ジルは懐から懐中時計を出して時間を確認する。2人は初日にここで待ち合わせの約束をしていたのだ。
「僕はもっと前からいただけなので気にしなくていい。――ところで、君は僕のことを『先輩』と呼ぶつもりなのか?」
いままで先輩と呼ばれたことがないので、ジルは戸惑いを覚えていた。これまで周りにいたのは、大抵自分よりも歳上の人間ばかりだったのだ。だからそれが新鮮でもあるし、違和感でもあったのである。
「もっと良い言い方があれば変えますが、ご要望はございますか?」
「えっ、うん、そう言われてもな……」
ジルはまさか自分に振られるとは思わなかったので、ひとしきり考えこんだ。レニはその沈黙を肯定ととったようだ。
「ではジル先輩のままでお願いできますか?」
「先輩か。一歳しか変わらないんだがな」
「いいえ、ぜひ『先輩』でお願いします。ジル先輩ってとっても響きが良いと思うんです!」
なぜか強硬に「先輩」を主張するレニに、ジルは押し切られてしまう。
(ま、まあ呼び方などどうでもいい事だ)
ジルは一つ咳払いをすると、本題の訓練に入ることにした。
「さて、君はすでに魔法を使えるのかな?」
「いえ、まだです。家庭教師を雇うこともできたのでしょうが、父はカレッジで正規に学んで欲しかったようです。ですから、ある程度の知識はありますが魔法を使うことはできません。」
それがレムオン=クリストバイン流の考え方なのだろう。魔法に限らず、学問は必ずしも早く学ぶ方が良いとは限らない。人間としての成長に合わせ、正式に学ぶ方が良いという考え方もある。
「では初めて魔力を扱う段階がかなり難しいことは知っているな。これは初めて言葉を学んだり、馬の乗り方を習うのに近いかもしれない。これまで自分が生きてきた世界の法則とは、全く異なる理に触れるようなものなんだ」
ジルはなるべく初学者でも分かる言葉を選んで説明を続けた。
「これから教本で初歩的な魔法の呪文を習うと思うが、あの詠唱文はスタンダードで一番学びやすいというだけで、唯一絶対のものというわけじゃない」
「どういうことでしょう? 呪文書に載っている以外の詠唱文があるということですか?」
「そうだ。人間の言葉には、それ自体に宿る言霊の力がある。呪文とは、この世界の理とは異なる方程式へとチャンネルを開く言葉であって、その作用を果たすためなら呪文を変えてしまっても構わないんだ」
セードルフは教科書的にしか魔法を使えなかった。だが、それでは魔法を表面的にしか学んでいないということである。いやしくも魔術師を自認するならば、魔法の理を解き明かす探究心がなければならない。教科書を必要以上に神聖視するのは三流魔術師のやることだ、ジルはそう考えていた。
「上級編だけど、呪文を自分なりにアレンジし、魔法の威力や範囲といった効果を変えることもできる。でもまずは、教本に載っている呪文を使えるようになることから始めるべきだな。それじゃあ、一番簡単なライトの魔法で練習してみよう」
ジルはレニを自分の正面に立たせた。レニの服装は運動用のシャツにズボンといったラフな格好だ。レニはやや緊張した面持ちで立っている。初めて魔法に触れる緊張感、自分の時を思い出してジルも気分が高ぶっていた。
「身体の力を抜いて自然体で立ってごらん。そう、そんな感じだ。そして眼を閉じて身体の内部の魔力の流れを感じ取るんだ。脚から腹部へ、そして胸、肩へ」
レニは言われるままにやってみる。身体の力は抜いているが、魔力を感じ取る、というのは存外難しい。いままで全く使われていなかった感覚を使おうとするためだ。実際には存在しない「しっぽ」を動かそうとするのに近いといえば分かり易いかもしれない。
「うー、魔力を感じ取るというのが出来ません。その感覚がよく分からないんです」
「この体内の魔力を感じ取れないようだと魔法を使うことはできないぞ」
ジルはレニの導き手として、わざと発破をかけるような言葉を選んだ。レニは神妙な様子でジルの言葉を聞いていた。
「初めは出来ないのが当たり前だから、これはいずれできるようになるものとして先に進もう。魔力を十分に感じ取れたら、今度は丹田に力を入れ、そうだな、イメージとしては流れる魔力を額の中央に収束させ、球体を結ぶようにするんだ」
これがレニが来る前に訓練していた詠唱態勢というものだ。ここまでの準備段階は熟達した魔術師であれば一瞬でできるようになるが、カレッジの上級生レベルではある程度時間がかかってしまう。そこに魔術師としての優劣の分かれ目がある。
「ここまでが呪文を詠唱する前段階だ。実際にはこの集中力を維持しつつ呪文を唱えないといけない。それはかなり難しいことだぞ」
レニがこれから受ける初級クラスの授業では、まずここまでの動作を学ぶことになるだろう。本格的な魔法の詠唱に入る前に、高いハードルがあるのだ。
レニはジルの説明を一言一句聞き逃さず、忘れないよう胸に刻みつける。指導生とはいえ、授業の前からこうして新入生を指導してくれる者は少ない。レニはかなりラッキーだと言って良いだろう。
「そしてここからが詠唱だ。呪文の詠唱は位階の高い、魔力消費の高い魔法ほどその詠唱は長くなる。魔法の発動まで、その時間を如何に稼ぐかということも重要な要素になってくる」
戦場で魔術師が魔法を使うには、戦士の援護が不可欠である。詠唱する際に攻撃されれば、呪文を完成させることはできないからである。魔法戦士や一握りの魔術師なら、戦いながら詠唱することも可能だが、その領域は遥かに高い頂きである。
「今回練習するライトの魔法は、最も簡単な魔法で詠唱も短いからよく練習用に使われるんだ。僕がやってみよう」
ジルは一瞬で詠唱態勢に入ると、慣れた動作で呪文を詠唱する。何千回と繰り返し唱え、もはや無意識にでも唱えることができる。
「ラムシータ・ベル・アラスール 我が魔力をもって闇を照らす光となれ」
ジルの詠唱とともに、不可視の力場のようなものが形成されたのがレニにもはっきりと分かる。眼には見えないが、なんらかの力の集中だ。詠唱が終わると同時にジルが斜め上を指差すと、その先に光の球体が生まれる。これがライトの魔法であり、暗がりを探索する際には必須の魔法である。
これが第一位階の魔法・ライトであり、暗がりを探索する際に必須の魔法である。
「この呪文の有効時間は約2時間だ。もちろん自由に魔法を引っ込めることもできる。こんな風に」
ジルが一瞬集中すると、光の球体が消滅した。レニが全く出来なかった魔法の発動までを、極めてスムーズに短時間でやって見せた。力の差を見せつけられたことになるが、これは当然であろう。
「まずは詠唱態勢に入る練習だな。魔力を感じ取る練習を第一にやるんだ。それと並行して呪文の詠唱の練習。スムーズに言葉を唱えられるようにならないといけない。当面はこの2つを重視して練習するといい。そうすればそう遠くないうちに、ライトなら使えるようになるはずだ」
多分レニはスジが良い、ジルは初めて出会った時からレニに魔術師としての資質を感じていた。第一位階ならすぐに習得できるだろうと考えていた。
「先輩はライトをいつ使えるようになったんですか?」
「僕か? 僕はカレッジに入る前だった。10歳の頃だったはずだ」
ジルはロデリックに基礎を教えてもらってから、一月後にライトが使えるようになった。もっとも使えるといっても色々ある。詠唱速度や効果時間など、実用性を追求するのは一朝一夕で達成できることではない。
「えーー、10歳ですか?」
レニは思わず口を大きく開けて叫んでしまった。自分と比べてあまりにも早過ぎる。さすが天才と呼ばれるわけだ。
「まあ僕の場合は環境が恵まれていたからだよ。第一に、親が宮廷魔術師だったから魔法の道具に囲まれていたことだ」
ロデリックに対する反感もあったが、自分の大好きな魔法を教えてくれた恩がある。少なくともそれだけは父に感謝していた。
「第二に、身分の高い貴族ではなかったから、礼儀作法やら貴族同士の社交などというものに時間をとられることがなかった。伯爵令嬢であった君とは反対にね」
貴族の令嬢という者は、幼い時から貴族としての嗜みを叩き込まれるものだ。礼儀作法、舞踏、各貴族の家紋や由来など。ジルの家は貴族とは名ばかりの家だったから、それを必要とされることはなかったのだ。
「わたし、ジル先輩に指導していただいて、とても光栄です。先輩の貴重な時間を無駄にしないように一生懸命がんばります!」
レニはジルにまっすぐな気持ちをぶつけた。ジルは意外にもそれが気持ち良かった。人を教え導くというのも、悪く無い経験かもしれない。初めは指導生になることに義務感しか感じていなかったが、ジルは教員のロクサーヌの思惑に乗るのも悪く無い気がしてきた。