044 レムオン=クリストバインという男
レムオン=クリストバインは当初から期待されて家を継いだわけではなかった。むしろクリストバイン家の穀潰しとして疎まれていたと言った方が良い。伯爵家は本当なら兄が継ぐはずだったのだ……。
レムオンの父アランにはカイルとレムオンという二人の男子がいた。2つ離れた兄カイルは、将来を約束された跡継ぎであった。カイルは何をしても要領よくこなし、細かな気配りもでき人当たりも良かった。そのため、身分の高い貴族との交流はもちろんのこと、屋敷の使用人からも慕われる、そんな少年だった。
一方、できすぎる兄にくらべ、レムオンは何においても見劣りした。ややもすれば一日中ぼーとしている、そんな印象を周囲から持たれていた。比較対象としての兄がいなければ、それでも跡継ぎ候補として認められたかもしれない。しかし、すぐ身近にカイルという輝きがあると、レムオンは影としての存在にならざるを得なかった。
二人がまだ幼い時分には、父アランは兄弟に対して努めて公平であるように自己を律していた。どうしてもアランに甘くなり、レムオンをどやしつけたくなった時も、自制心で思いとどまった。しかし老いるにしたがってアランの自制心は緩み、兄には過度に甘くなり、レムオンに対しては虐待ともとれるほど当たり散らすことが多くなった。
もともとアランは若い頃から酒量が多い方であり、酔った時には人に当たることも多かった。普段は主に言葉による暴力であったが、酒に酔った時は文字通り肉体に対する暴力も伴った。その場合暴力は稀にカイルに及ぶこともあった。酔が覚めた時、アランはカイルに暴力を振るったことを後悔したが、レムオンに対してはついぞ後悔することはなかった。
カイルが18歳となった日、兄は正式にクリストバイン家の跡を継いだ。当主であったアランの行状が荒れていることは誰の目にも明らかであり、自分でもそれを自覚していたのであろう。アランは頼りになるカイルに全てを継がせたのである。
レムオンはそんな兄を見ながら、日陰者として生きていた。しかし特別不満があったわけではない。世の中に平等や公平など無い、世の中はそんなものだ、そんな諦めに似た気持ちがあったのである。
カイルが家を継いで一年後、父は病気で亡くなった。全てを息子に任せて安心したのであろう。もともと多かった酒量は一層増し、内蔵を痛めたのであった。しかしアランの死に方はそれほど悪いものではなかったかもしれない。ともかくも最後は安心して死んでいったのだ。
父が死ぬと、家にはカイルとレムオンだけになった。兄と弟は幼い頃から至って疎遠であった。父がレムオンを疎んじているなかで、カイルもレムオンと仲良くすることはできなかったのである。カイルは特に弟を迫害するようなことはしなかったが、不幸な弟に配慮することもなかった。要するに体よく無視することにしたのである。レムオンは屋敷の中で存在しないものとして過ごすことになった。
貴族は領地の兵を率い王国の戦争に参加しなければならない。カイルは軍人としてもなかなか有能であった。少なくともそう周囲から認められていた。飛び抜けた戦功を挙げたわけではなかったが、出陣する毎になんらかの手柄を挙げて帰ってきた。カイルは人付き合いも良かったことから、高く評価され軍人としても重要な役割を任されるようになっていった。
そして重要な戦いが始まる。バルダニア王国との戦いである。
シュバルツバルトとバルダニアはもともと一つの国として帝国から独立した。しかしその後、イシス教の教義上の対立から2つに分裂することになった。シュバルツバルトからバルダニアが独立する形で、である。
なまじ同じイシス教であるだけに、教義の違いによる教団内部の対立は、激しい対立を生んだ。帝国との関係よりもお互いとの関係が急速に冷えきっていったのである。
このような宗教上の対立が両国の戦争の大きな背景であるとすれば、国境紛争はその直接的な契機であった。シュバルツバルトの都市ギール付近の国境地域は、貴重な鉱物資源を生産する地帯として有名であった。鉱山はシュバルツバルト側にも、そしてバルダニア側にも存在していたのだが、ちょうど国境線上に比較的大きなモデルン鉱山があり、両国の争奪戦の対象となったのである。
こうして従来外交上批判し合うだけの対立であった両国は、直接刃を交える戦いに突入していったのである。
国家の威信と経済的な利益がかかった戦いだけに、シュバルツバルトは精鋭をギールへと派遣することにした。そして近年名を上げていたカイル=クリストバインも、5つに分けられた軍の1軍の指揮官として抜擢された。
カイルは当時あまりに若かったのでこの人事には反対もあったが、若き世代の旗手と目され期待されていたことから、賛同する声の方が遥かに多かったのである。カイルは約5000の兵を率いてバルダニア軍と対峙することになる。
両国の戦いは、鉱山の近くに広がるスリント荒野で行われた。両軍合わせて5万を越える戦いができるところなど、自然と限定されてくる。スリント荒野は広いだけの何も取り柄のない荒野であったが、それだけに会戦には都合が良かったのである。
期待されていたカイルは、シュバルツバルト軍の右翼を任された。軍勢はややシュバルツバルト軍の方が多く約2万8千、バルダニアは約2万2千であった。ただバルダニアは少ない兵を集中して運用し、右翼のカイル軍に対して2軍をぶつけてきた。5000のカイル軍に対し8000のバルダニア軍が向かってきたことになる。しかもバルダニア軍は正面と右側面からカイルの軍を挟む形で攻撃した。
カイルは不利な状況であったが、何とか持ちこたえなければならなかった。彼我の戦力からすれば、華々しく勝つことはできないとしても、戦線を維持することはできたはずである。右翼が多数の敵を引きつけていれば、その分中央から左翼が有利となり、そこから戦いを決定づけることもできたのである。
しかし――
カイル軍は脆くも崩れたった。本来部隊長や兵を叱咤し軍の維持に務めなければならない指揮官自身が、パニックに陥りろくに戦いもせずに逃げ出したのである。右翼が崩れさると、勢いづいた敵が中央の本軍へとなだれ込んだ。
中央と左翼のシュバルツバルト軍にとって、崩壊し右往左往する右翼軍の敗残兵たちは味方ではなく、むしろ自軍の混乱を拡大する元凶でしかなくなっていた。結局のところ、カイルの軍の失態によって、シュバルツバルトは全軍崩壊へと至ったのである。
カイルはこの敗戦の最中、脇目もふらず逃げ出し、しかも自軍の方へと逃げたことで、結果として自軍を道連れにした。この混乱のなかで、カイルは名も無き雑兵の手によって討ち取られ、自らの命も失ったのであった。
カイルがなぜ大事な戦いで不名誉にも敵前逃亡したのか。これは今も議論が分かれている。軍関係者のなかで最も支持されている説は、そもそもカイルは一軍の指揮官の器ではなかった、というものである。
カイルがそれまでの戦いで挙げた戦功はそれほど特筆すべきものではなかった。しかしそれにも関わらず、カイルを過度に評価する風潮があり、ついには充分な経験を積ませることもないままに、指揮官という過度な役目を与えてしまったというものである。
しかしこの説は、カイルを起用したシュバルツバルト軍上層部の判断を否定するものであるから、公には議論されることはない。後にレムオンは部下だった男から経緯について聞いた時、これが真実だろうと確信した。
レムオンの知る兄は、自分を優れていると見せるのが上手いだけで、実は非常に臆病な男であった。それを隠すために人との関わりを積極的に求めて覆い隠そうとする。軍なら部隊長、本当は文官であれば、実際の兄に相応しかったのではないか。
指揮官になる前に挙げた幾つかの戦功も、真実兄が挙げたものなのかレムオンは疑っていた。他人の挙げた武功を金で買ったり、部下の手柄を横取りしていたのではないか、レムオンは実の兄に対して非情にもそう疑っていたのである。
そしてそれは紛れも無い事実だったのである。自領に逃げ帰ってきた家臣の口から、兄の不正が告げられた。レムオンは亡くなった兄とこれからの自分のことを思い、深く溜息をついた。




