きみが好きだって話
「天の川を渡れたら」「悪い往生際」「小指の約束」
「……ちくしょう」
起きてそうそう、そんなことを呟かなければならないのが悔しい。
隣に寝ているのは俺の彼女であって、彼女とは付き合い始めて3年、高校を卒業してお互い違う大学に通い始めたものの、俺の部屋から通うほうが早いなんていう理由でたまに泊まりにくる…そんな仲だ。
昨日は5か月ぶりに泊まりに来た。お互い忙しくて、会うのも2か月ぶりだったか。
目を覚ますとそんな彼女が狭いシングルベッドの中、横で眠っていて、幸せこの上ない状況だというのに、彼女の頬に伝ったであろう涙のあとがそれを台無しにする。
何も、別に彼女の涙が嫌いだとか、泣かれると面倒くさいだとか、そんなことは考えない。ただ、泣いている理由の想像がついてしまうのが、そしてその理由がきっと俺ではないことに、さっきの言葉を呟きたくなってしまう原因なのである。
彼女、前田悠子と俺が出会ったのは高校3年の春。この時、彼女はボロボロだった。
悠子には高校1年の時から付き合っていた彼氏がいて、それはもう穏やかで、それはもう幸せな時間を過ごしていたのだという。彼女の友人であり、彼の幼馴染であったカップルがよくそう語ってくれたので、俺はそんな姿を目にしたことはないのに、なぜか当時のことに詳しくなってしまった。
しかし、高校2年の夏休み明け、彼は、越野悠太は、自動車との接触事故で、こともあろうに悠子との待ち合わせ場所に向かう途中で、あっけなくこの世を去った。
そして、俺は偶然その現場を目撃して、越野悠太の最後の言葉を聞いた人間でもある。
悠子は本当に越野悠太のことが好きだった。好きだった読書ができなくなったり、あの日待ち合わせ場所にしていた図書館の周りに近づけなくなったり、眠ることすらままならなくなってしまったり、俺が出会った当時の彼女の状況がそれを切実に物語っていた。
紆余曲折を経て俺と付き合うようになった悠子だけれど、付き合い始めて3年が経った今でも、こうして「越野悠太」のことを思って涙することがある。
要は、嫉妬しているのだ。かなうはずもない男に。
なんだか悔しくて、泣くなら俺のために泣いてほしくて、付き合った今でも俺は実は越野に勝てていないんじゃないかと、そんな醜い感情がぐるぐると心の中を巡り、それごと拭うように、そっと悠子の頬に手を伸ばした。
「……ちはる?」
「悪い、起こした」
「ううん、そろそろ起きなきゃいけなかったし……」
「そ。今日早いの?」
「……そういうわけじゃ、ないんだけど」
「人肌恋しくなっちゃった?」
ぎゅ、と抱きしめると、唇を尖らせながらぷいと横を向かれてしまった。
「千晴のばか」
「はいはいごめんね。で、朝飯、パンないけど」
「お茶漬けでいい…」
「お茶漬け“で”?」
「お茶漬け“が”いいです……」
「はいはい」
くわっとあくびを漏らす悠子の頭を撫でてから、ベッドから抜け出す。そのまま歩き出そうとすると、後ろから布が投げつけられた。
「千晴服着て」
「……いい加減慣れない?」
「服着て」
「さっきまで横にいたんだけど」
「千晴」
悠子がベッドにもぐったまま、下を向きながら困ったように眉根を寄せた。付き合って3年にもなるのに、明るいところで男の裸を見るのは恥ずかしい、なんてうぶなことをさらっと言ってのける。可愛い彼女なのだ。
「はいはい、ありがと」
すぐ作るから待ってろよ、とキスを落として、シャツを羽織りながら台所に向かった。
***
「今日は天の川見られないね」
一日の講義を終えて、バイトから上がって携帯を確認すると、悠子から今日も泊まるとの連絡が入っていた。
家に帰ると悠子は本も読まずにベランダから空を見上げていて、そんなことを呟いている。
そういえば、今日は七夕だったか。
「七夕だから泊まりたかった、とか?」
「…だめだった?」
「全然だめじゃない、ていうかむしろうれしいに決まってるだろ」
バイト上がりで疲れていても、彼女が待っていてくれるなら、こんなにうれしいことはない。
「七夕は毎年曇りだよね」
「そりゃあ、梅雨は七夕なんて待ってくれないもんな」
「梅雨が七夕を待ってくれない、か。千晴は本当に面白い言い方をするね」
「はいはいどーも」
バイトの制服を洗濯機に入れていると、ねえと悠子が背中に額を寄せてきた。
「どうした?」
「天の川を渡れたら、会いたい人に会えるのかなあって、考えてたの」
曇っているから、渡れないね。
そんなことを呟く悠子に、悔しさが募る。
そこまでして、越野悠太に会いたい?
「……悠子はさ」
思った以上に低い声が出てしまった。悠子がぴくりと身じろいたのがわかる。
「知ってた? 雲の上では天の川がちゃんとあるって」
「……え」
「だから、いつでも行けるんじゃねえの。あいつのところに行きたいんなら」
「ちょっと、千晴」
今朝胸に渦巻いたのと同じどす黒い何かがぐるぐるとまわる。悠子があわてるのが分かっても、口をついて出た言葉は止まらない。
「…わかってるよ、悠子がまだたまに泣いてるの。一番幸せな時に離れないといけなかったから、あいつのこと忘れられないのも、……全部受け入れるって言った」
「千晴」
「だけど、悠子の中にいるのが俺だけじゃないこと、自分でも引くぐらいに嫉妬してるんだよね。往生際悪いよな、受け入れるって言ったのに」
お前の中に、俺だけがいればいいのにって、俺のことだけ思っていればいいのにって、何度思ったか。
知らないだろ、こんなどす黒い、気持ち。
「千晴、聞いてよ」
意外にも、俺の施行の暴走を止めたのは小さな掌だった。悠子は目の前で眉を寄せて、唇をとがらせて、泣きそうな顔をして、俺の頬をぎゅうとその掌で挟みながらこっちを見ていた。
「千晴は全然わかってない」
「は」
「天の川を渡って、私は千晴に会いたかった」
ばか、と手のひらに力がこもる。
「1年なんて私には待てないよ。2か月だって惜しかったよ。……会いたかったんだよ」
「だけど」
「往生際が悪いってなに? 千晴は私が二股かけてるって言いたいの?」
「そんなこと言ってないけど」
だんだんと悠子が攻めの姿勢に入ってくる。
「言ってるよ。私が越野くんを忘れられなくて、それが悔しいんでしょ。それって私が二股かけてるってことじゃん」
千晴、ひどいよ。
今にも泣きそうなその声に、胸を締め付けられた。
「千晴が乗り越えさせてくれたのに。3年もずっと一緒にいて、幸せだって思わせてくれたのに」
俺は、もっと彼女を求めてもいいのだろうか。
「だいたい往生際が悪いなんて、まるで千晴が私をあきらめなきゃいけないみたい。ひどいよ、私はどうすればいいわけ。千晴が好きな私はどうすればいいわけ」
ああもう、彼女が正しい。そしてかわいい。
「ごめん」
「ばかじゃないの」
「ごめん」
「次そんなこと考えたら本当に越野くんの後追いかけてやるんだから」
「それだけは本当に勘弁して」
とうとう泣き出した彼女を抱きしめてなだめながら、本当に俺はばかだなあと思う。
不安になると、周りが見えなくなる。これほど怖いことはない。
「……ちなみに今朝泣いてたのは」
「千晴が越野くんみたいにいなくなる夢見た」
そんなのごめんなんだから、と悠子がぐりぐりと俺の腹に頭をこすりつけてくる。
「うーん、越野悠太のこともあるし、未来までは約束できる自信ないけど」
そんなことを言いながら、小指を差し出した。
「悠子のそばにいられるように頑張るよ」
「ぜひ頑張ってください」
きゅ、と小指が絡められた。
「ちゃんと今はそばにいるから」
「うん」
「とりあえず飯食おうか」
「肉じゃがつくった」
「お、楽しみ」
こうしてそばにずっといられたら、と思う。
越野悠太が悠子のことを本当に好きで、付き合っていたことも知っている。だけど、往生際も何もないのかもしれない。いま悠子のことが好きで、隣にいられるのは俺なのだから。
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