第7話 ~“きみを救う魔法” <後編> -解放の名- ~
「グリシーヌ、元気だった?」
「……なにあなた。昨日の今日でまた来たの?」
ひょいと顔を覗かせたぼくに、グリシーヌが少し呆れたように言う。
それでも、かすかにその頬が上気しているのを見て、
ぼくの胸は、どくん、と跳ねた。
「――ね、フリージアって知ってる?」
「……フリージア? なにそれ、なにかの花の名前?」
グリシーヌが、いぶかしげに聞いた。
「うん。グリシーヌも一度は聞いたことあるかな?
青の国にあって、青だけじゃなく、色々な色の花を咲かせる、
ラズーリ禁猟区特有の花――」
ぼくは、その花を、そっと手渡した。
そして、すうっと、ひと呼吸した。
鼓動がとくり、とくりと跳ねるのに、
頭はこれ以上ないほど鮮明に冴え渡っていた―。
「“今からきみは、自由の花<フリージア>。”
――“きみは、自由の名のもとに、色々な色になれる――”」
そう断言したぼくの胸から、青い光が羽ばたいて、
グリシーヌの胸に吸い込まれた。
言葉は力を与える。
そのように振る舞うことができる絶対の権利――。
「命名の儀式…?! あなた…」
「もちろん、きみが嫌じゃなければ、だけど…」
目をそらし、頬を赤らめたぼくに、
グリシーヌは、何回か、まばたきをして、やがて唇を歪ませた。
「あんたって、変なやつ……」
その紫の瞳は、まるでアメジストのように、艶やかに潤んでいた――。
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グリシーヌは、回想を終えると、読んでいた分厚い本をぱたんと閉じた。
あのあと。
リシアンとグリシーヌは、少しだけ雑談に花を咲かせた。
グリシーヌの頑なな心は、
いつのまにか、ふんわりと綻んでいた。
まるで冬越しの固い蕾が……ゆっくりと、可憐な花を咲かせるように――。
すこしずつ……そしてひそやかに――。
青の国の、瑠璃色の目をした、風変わりな少年。
グリシーヌは、そのときはじめて、恋をしたことを、知った。
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「……リシアン、なにをにやけてるでやんす」
紫尾の冷ややかな言葉に、ぼくは我に返った。
「……え!」
「え?」
「に……にやけてないよ」
「にやけてた」
「にやけてない!」
「ほんっとぉーでやんすかねー」
「……ないってば! もう紫尾、からかわないでよ!」
ぼくは勢いよく目を瞑りながら、顔をぶんぶんと振って否定した。
顔が熱い。恥ずかしさに思わず身体が震えた。
フリージア。
我ながらなんてだいそれたことをしたんだろう。
まさか、自分に命名の力があるなんて思わなかった。
本来、直系の王族にしか使えない、
“真名”つまり、……ほんとうの名前……を書き換える、
御言宣が、使えたなんて。
赤い顔を隠すように、紫尾にそっぽを向きながら、そっと唇を動かす。
“フリージア”
過酷な大地に咲く、可憐な自由の花。
あのとき、グリシーヌの…・・フリージアの潤んだ瞳に、
その端に浮かぶ、宝石みたいな、綺麗な涙の珠に、
ぼくは、一瞬で目を奪われた。
その花びらみたいに色づいた頬に。
ぼくは、叫びたい気持ちを必死でこらえるしかなかった。
“ああ――きみはなんて綺麗で、可愛いらしいんだ! ”
きざな優男みたいに、やかましく主張するその本能が、
まるで太鼓のようにぼくの胸を叩いた。
どんどん、どんどん。
ぼくの心を散々叩きつくしたそれは、
まるで魔法のように、ぼくの魂を書き換えてしまった。
……一瞬のうちに。
そう、ぼくはグリシーヌに恋をしたのだ――。