~そして、彼(そ)の名を歌う~ “愛に染まる” ―後編―
リキアは泣いた。もうなにもいらない、と。
叶った。叶ってしまった。
ずっと欲しくて、ほしくてほしくてたまらなかった人が、今この身体を抱きしめている。
伝わった。やっと、つたわった。
泣きすぎて、世界はにじんで、頬は熱くて、もうどうしようもなく、胸が高鳴っていた。
どうしていいかわからなくて、ぎゅうっ、とリシアンを抱きしめかえす。
再び、強く抱きしめられて、とまどった。
リシアンはこんなに、力強かっただろうか。
こんなに、こんなにも、頼もしかっただろうか。
暴れだしたくなって、思わず口びるをかむと、リシアンは、そのくちびるに触れた。
呼吸が触れた。
気がつくと、リシアンのまぶたが、そこにあった。
距離が、ゼロになる。
ちゅ……っ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
柔らかな唇を離し、リキア、とぼくは思う。
ずっと、思っていた。助かりたいと。
誰かに、手を差し伸べて救って欲しかった。
あの夜の世界で、お義母さんに出会って、ぼくの願いは叶えられた。
本当の父さんや母さんに見捨てられたぼくは、その時初めて、ここにいていいのだと、生まれてきてよかったのだと思えた。
常闇の世界のお義母さんは、その後、ぼくを置いて死んでしまったけれど。
そして、グリシーヌに出会った。
みつけた、と思った。ぼくが、救うことのできる少女。
グリシーヌに惹かれていた。
ドキドキしていたし、笑った顔も、泣いた姿も可愛くて、愛しかった。
甘酸っぱい柑橘のにおい。もどかしくって、こそばゆい、胸の奥。
そう、ぼくは、グリシーヌが好きだった。
おつきあいをしてからの日々は、輝いていて、心地よかった。
いつも笑顔を、あげたかった。
鳥かごのなかで、息をつめている彼女に、優しい唄をあげたかった。
かなうなら、この背中からもいで、真っ白な翼だって、あげたかった。
本当はぼくにだって、自由の翼なんかは、なかったけれど。
それでも紫緒は、ぼくに祝福をくれた。
オラシオン<祈り>。その名の通り、彼は、ぼくの願いを叶えてくれた。
常闇という、ゆりかごの世界を、プレゼントしてくれた。
そう、ぼくの最初の友達、最初で最後の相棒と、ぼくはこうして、ここまで歩いて来たんだ。
ふたりの特別。
欲しい、と泣くばかりではなく、あげたいという感情を、ぼくはグリシーヌと紫緒に、教えてもらった。
なのに今ぼくは、暴れ出す心臓を押さえつけて、リキアを強く強く抱きしめている。
自分だけのものにしたい。リキアを閉じ込めたい。
口が悪くて、態度も大きい、言葉遣いだって少年みたいで、がさつで、女の子らしくない。
最初はぼくを憎んで、殺そうとだってしてきた。
なのに、ぼくは、リキアを嫌うことができなかった。
救ってあげたい。
それは、グリシーヌの時の、淡い苦しさとはまるで違う、鮮烈な感情だった。
昼の世界で再開したときのリキアをみて、心がはねた。
そのはじけるような、無邪気な笑顔に、鼓動が高鳴った。
いつしか、ぼくはリキアを、目で追うようになった。
そしてぼくがみつめていると、必ず彼女はすぐに気づいて、微笑むのだ。
悪戯っぽく。
そして、たまらなく……嬉しそうに。
(お前は、僕のことが好きなんだろう? ――お見通しだ!)
そう言われている気がして、ドキドキした。
その頃には、すべてが手遅れだった。
そう、ぼくの心は、とっくにリキアに奪われていた。
グリシーヌに対して感じる、淡く心地よい穏やかな感情は、リキアを欲しいと叫ぶ、激しい感情の荒波に呑まれて、消えていった。
こんなに激しく、喜ばしく、どうにもならない。
これが「愛」だと、気づいたのは、たった今。
ぼくは、リキアが欲しい。他の誰でもない、彼女が。
彼女の、すべてが欲しい。
「リシアン……」
濡れた瞳に、ぼくのなかの何かが泡立つ。
「リキア」
「うん」
「ぼくの彼女に、なってください」
「……ああ……!」
嬉しそうに瞳を潤ませ、リキアは頷いた。
「いいの? ほんとうに?」
急に胸がぎゅっとなって、思わず問いかける。
「……ああ……当たり前だろ……!」
――だって僕は、そのために、生まれてきたんだからな……っ!
リキアは、高らかに宣言すると、今度こそ破顔した。
弾む息が、交錯する。
胸と胸の距離が、ゼロになる。
僕たちは、夢中になって何度もキスをした。
雪が降っている。もうすぐ、桜が咲くだろう。
リキアは、きっとこれまで以上に、綺麗になる。
中学3年生の春、僕たちは、またひとつ大人になる。
未来はまだ未定だし、過去は塗り替えられない。
それでも、今この時、確かにぼくには聞こえていた。
見えないし、視えなかった彼女が……ぼくのほんとうのお母さんが、ぼくを再びみつけてくれて、再び抱きしめてくれたように。
お母さんに見捨てられたと思って、心を閉ざしたぼくを育ててくれて、たくさん愛してくれた、もうひとりのお母さんが。
重い病気と戦いながらも、生きて、生き抜いて、見守ってくれていたように。
――聞こえていた。<はじまりの鐘>が。
――新しい、未来への旋律が――。
ぼくらは歩み続ける。
紡ぎ続けて、悲しい終わりを、喜びのはじまりに繋いでゆく。
それは、果てしなく続く、永遠の旅路だ。
お母さん<御空之大神>とその双子のお姉さん、<篠姫之神>の約束からはじまった物語。
お父さん<ザラスシュター>が形にして、紫緒<オラキオス>が叶え、管理神<問審官>が受諾し、常闇の世界を生んだ。
奇跡は、その時からはじまった。
すべての願いが満ちたその時、ぼくらは祝福の鐘を聴くだろう。
根拠はない。確証もない。
でも、ぼくの心が、魂が、その奥底が叫んでいる。
――それは、ぼくらの未来だ!
ぼくは、きっと叶えるだろう。
たとえ運命に、神様に阻まれても。
何度だって叫んで、戦い続けるだろう。
ぼくは生きてる。今この時、確かに生きている。
だから。
もうなにひとつ、取りこぼさない!
紫緒も、リキアも、お義母さんも、他ならぬ、ぼく自身だって。
そのためなら、ぼくは世界を背負おう。
青の王に。
世界の贄に、ぼくは、なる。
「――いま、悪いこと考えてるだろう」
リキアは、おもむろに言った。
腕の中でこちらを見上げる、その潤んだ瞳が、射るようにぼくの鼓動を凍らせる。
「……だめだからな」
思わず目をそらすぼくに、リキアは重ねて言う。
「僕の前からいなくなったら、許さないからな」
「……うん」
ぼくはぎゅっとリキアを抱きしめる。
「……いなくならない。――でも」
約束を、果たさなきゃ、とぼくは小声で言った。
紫緒がいなくならないように。
問審官<カミサマ>なんかに、奪わせないように。
息をつめて、ぼくは、こう続けた。
「ぼくが、なんとかする」
「だめだ」
リキアは間髪を入れず否定した。
「……なんで」
「お前は、僕のものだ。なんぴとたりとも、お前を傷つけることは、許さない。――たとえ、それが……お前自身だったとしてもだ」
リキアは、そう言って、ぼくの瞳に手を伸ばした。
おびえるように目を閉じるぼくの、そのまぶたの端に、リキアは触れた。
そっと、水滴がぬぐわれる。
優しくて、柔らかい手だった。
そうか、ぼくは、泣いていたんだ。
そう気づいて、唇をかみしめるぼくに、リキアは言った。
「お前は弱い。――だから、僕が、守ってやる」
「リキアは、女の子だよ」
「――ああ」
リキアはうなずいた。
「……そしてぼくは、男子だ」
「だからなんだ」
リキアがむっとした顔でいう。
「ぼくが、リキアを守るほ……」
「……馬鹿」
リキアは、ぼくの額をこづいた。
勝気なその唇と瞳が、緩んでいた。
その「馬鹿」は、まるで愛しい者を呼ぶような、抱きしめるようなそれだった。
再びこの瞳を、のぞきこんだリキアは、たしなめるように言った。
「この僕が、じきじきにそうしたいと言っているんだ。それとも、可愛くてけなげな、この僕のお願いを、お前は聞けないのか?」
できないことはするな、とリキアは、どこか嬉しそうに、くすぐったそうに言った。
「それって、……」
お願いというより、たちの悪いワガママか、命令だよね……。
心の声が伝わったらしく、リキアは偉そうに言った。
「なんでもいい」
――だから、おとなしく、僕に守られておけ――。
リキアはそう言うと、ぼくのまぶたに、軽く口づけた。
そうして、もう片方のまぶたにも口づけると、一拍おいて、額にもしめった唇を、ゆっくりと重ねた。
それは、白の国の誓約の儀式だった。
神前で身を清め、父なる神に、自分のすべてを捧げるという、誓いの接吻。
「――これが、僕の誓いだ」
「……リキア」
「黙っていろ。今、お前にしゃべられては敵わない」
「もしかして」
――照れてる……?
俯いたリキアの顔は、耳まで薄紅色に染まっていた。
「リキア」
「うるさいっ……、……黙れ……っっ」
顔を隠すように両腕をクロスするリキアに、ぼくはもう一度言った。
「――リキア。ぼくも……君を守るよ」
だってこんなに愛しく、力強く、この胸を叩いたのは……君しかいないから。
リキア。ぼくの、唯一無二の伴侶。
ぼくの、最後の恋人。
ぼくは、はじめて、心から思った。
捧げたい。
ぼくの身も魂も、この子に差し出したい。
リキア。ぼくは、君に、ぼくのすべてをあげたい。
だから、問審官。裁く神にして、試す神よ。
あなたに、もうぼくはやれない。
この身体のひとかけらだって、あげられない。
ぼくは、未来永劫、リキアのものだ。
ぼくは、戦う。
これまで、穢れを知らないまっしろな羊のごとく、誰をも敵に回さなかったぼくだけれど。
ぼくは、あなたの敵になる。
反逆者にだって、悪役にだってなる。
それが、ぼくにできる、最初で最後の革命だ――。




