~そして、彼(そ)の名を歌う~ ―前編― “愛に染まる”
僕はこの日、お義母さんを亡くした。
とうとうか、と覚悟はしていた。
だってその躰は、とうにやせ細っていって。
しゃべれる時間もだんだん減っていって、ああ、またか、なんて思っていた。
最期は、あっけなかった。
僕が学校に行っている間に、お義母さんは、ひっそりと息を引き取った。
後から聞いた話だが、僕には危篤を伝えないで、と医師や看護婦の人達は、口添えされていたらしい。
あの常闇の世界で味わわせた、辛い、辛すぎた別れの瞬間を、二度とあの子には味あわせたくないのだ、と。
勝手なんだよ、と、川辺を歩きながら思う。
ふいに、喉の奥から、嗚咽が漏れだした。
とうに、授業は終わっている。
一緒に帰ろう、と言ってくれたトオヤやリキアを押しのけて、僕は一人でここまで帰ってきた。
ひとり、でいたかったんだ。
だって、最初から、ひとりだった。
人はひとりで生まれて、独り死んでゆく。
それだけのことだろ?
……でも。
躰を抱きしめて、しゃがみこんだ。
その時、僕の傍らを、通りすぎたものがいた。
その子は、河原の石を綺麗によけながら、すたすたと歩くと、そのまま川に身を沈めた。
「な……っ!!?」
慌てて、僕も飛び込んだ。
ばしゃん!! と、水滴が飛び散る。
――冷たい!! 寒い寒い、寒い!!
こんな冬の川に飛び込むなんて、どうかしてる!!
「なにやって……!! リキア!!」
「ああ、僕だ、リシアン」
濡れそぼって冷え切った体を抱きしめると、リキアは平然と言った。
「なんでこんなことを……!! 溺れたらどうするの!?」
「溺れるような水位でもないだろ。だいたい、僕は死なない、と言ったろう?」
灰がかった薄青の瞳は、ひとかけらの感情も語らなかった。
「何言って……! ここは、昼の世界だよ!? あっちとは違うんだ! 溺れたら死ぬ!! 簡単に死ぬんだ、人間なんて!!」
「果たして、そうかな」
リキアはそこではじめて、唇の端をつりあげ、皮肉めいた表情を作った。
「お前が思うほど、人は強い。少なくとも、僕は、お前を置いては死なない」
「勝手なことを! 守れない約束なんて……!!」
――しないでよ!! と叫ぶ唇は、ふさがれた。
冷たくて柔らかいものが、僕の唇に触れ、そっと表面をなめると、離れていった。
「約束する。リシアン。僕は、死なない。なあ、リシアン、知っているだろう? 僕はしぶとい。多くの者の運命をねじまげてきたあちらの魔法が、こちらでも使えないと、どうして断言できる? 実際に、お前は紫緒を呼んだろ。ならば、僕は不死を呼ぶだけだ」
白の精霊、イモルティア<不死の涙>を、とリキアは言った。
「リキ、ア……」
「愛世、と」
愛世と呼んでくれ、とリキアは言った。
「あい、せ?」
「そうだ。愛染愛世。愛に染まり、世界を愛す。死んだ母が僕につけた名前。僕は、愛人の子だった。だから、認知されなかった。母が死ぬと、親父の息のかかった孤児院に入れられた。……なんとも愉快な人生だろう?」
その唇は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「リキア」
「愛世、だよ」
リキアは、繰り返し言った。
それは、たしなめるようなそれだった。
「でも、お前とあちらで出会って、僕は、はじめて世界を愛したいと思った。誰かを……お前を、愛したいって」
「愛世」
「そうだ。母は、僕に愛してほしかったんだろうな。世界を、誰かを。だから、不遇な人生を歩むことを知っていて、こんな名前をつけた」
「あい……」
リキアの、愛染の言葉を止めたくて、僕はもう一度、その名を呼ぼうとした。
「ふふ。いい名前だろ? 今では、結構、気にいってるんだ。お前のおかげでな」
「でも、僕は」
僕はグリシーヌを選んだのに。
「でも、もくそもない。世界を憎んでいた僕を、お前だけが受け止めてくれた。僕はお前を呪って殺そうとしたのに、こんな呪われた僕に、祝福をくれた。その日から、お前は僕の特別になった」
「…………」
困惑したように唇を噛むと、リキアはそこに触れた。
つい、と指先で、なぞられる。
「お前は、この心臓の、一番柔らかいところに、触れてくれた。だから僕は、お前に恋した。お前なしでは、いられなくなった」
「こころの?」
「ああ。一番奥に隠した、大事なところだ。そんな場所にお前はためらいなく触れて、口づけた。その瞬間、お前が欲しくなった」
「え……」
「運命だと思った。お前に出逢うために、僕は生まれてきたんだって。だから、お前に言うよ。リシアン。……涙花。お前の涙は、僕がなめとる。だからお前は、綺麗に咲いていろ……」
そういって、リキアは、僕の顎をつまんだ。
吐息が鼻息にかかる。
鼻が触れ合って、そこではじめて、リキアは、ためらうようなしぐさで、一歩引いた。
その頬が赤い。真っ赤だ。
「だから、その……」
リキアは、目を伏せて、震え始めた。
「……リキア」
びくっ、とリキアが、肩を震わせた。
「―─リキアリキア……リキア!!」
ぼくは、そんなリキアを抱き寄せた。
ひっし、と抱きしめた、その腕が震えている。
濡れそぼった体が、熱くてあつくて、たまらなかった。
「り、りしあ……」
リシアン、と言いかけたリキアの唇を、すばやく奪った。
「――ん……む……っ!!?」
リキアの狼狽が、伝わってくる。
その唇を離したときの、リキアの潤んだ瞳に、ぼくは確かに欲情した。
もうなにもかも吹っ飛んで、ぼくはもう一度その唇を貪った。
ぼくのなかの幼い、幼かったはずの獣が、おおぉぉん、と叫ぶ声を、ぼくは聞いた。
確かに、聞いた。聞いて、しまった。
もう、偽れない。もう、隠せない。
なにもかも捨ててしまったっていい。
ただ、きみが、リキアが、<愛染>が欲しい。
リキアの顔がみられない。ぼくは、なんて汚い。
グリシーヌのことをすきだった。
――いつだって、彼女のことばかり考えていた。
甘酸っぱくて、穏やかで。夢見がちな、恋だった。
その淡い夢を、突き破るように、食い破るように、その感情は生まれた。
リキアが欲しい。
リキアを、ぼくだけのものにしたい。
なんて醜いんだろう。
守りたいとか、包んであげたいとか、最初は確かに綺麗だったはずの感情が、どろどろと渦を巻いて、ぼくの心を踏み荒らし、全身の血液のなかで暴れまわり、のた打ちまわる。
もう、なにを信じていいのかもわからない。
ぼくはもうヒーローでさえない。ヒーローになんてなれない。
こんな感情、もう消えてしまえ! えぐり取って、死んでしまえ!
「……リシアン」
リキアの声で、はっと目がさめる。
スローモーションのように、リキアの顔が近づいてくる。
……ちゅっ。
伏せられた睫が、花開くようにその全容をさらす。
灰色にかげるその薄青色が、まるで聖なる水のように、ぼくの心を洗い流す。
「……リシアン。お前は皆のヒーローなんかじゃない。お前は、ただ、僕だけのヒーローだ……。お前の独占権は僕にある。お前の悩みも、痛みも、ぜんぶ僕のものだ」
「お前は清らかなんかじゃない。お前は正しくなんかない。普通の少年で、平凡な子どもだ。いくらでも間違うし、それでいい」
「僕が正してやる。間違ったらなぐるし、うまくできたら抱きしめてやる」
「僕がいる。だから、あんな女豹はやめて、僕にしろ。 僕をお前のものにして、お前を僕のものにさせろ」
──だから。
「――契約しろ、リシアン。僕と病める時も、健やかなるときも……、僕の隣で、僕のことだけ考えていろ……」
強気な口調とは裏腹に、リキアは必死な顔をしていた。
歯を食いしばるようにして、その綺麗な顔を歪ませていた。
心が、どくん、と音を立てる。
とくとくとく……。
心臓の鼓動が、まるで息を吹き返したように、穏やかに溢れ、流れ出した。
ああ、なんて音楽だろう……。
こんな音色は、聞いたことがなかった。
こんな、浮き立つような色をした、歓びの歌<カンタータ>は。
奏でるリズムのままに、ぼくはもう一度リキアを抱きしめた。
「うん……」
誓わせて欲しい。この不実なぼくですら、きみが赦すというのなら。
きみのその決意に、応えよう。
あの日、ぼくがきみを赦したように。
赦し、赦され、愛し、愛されることを。
彼女と共に、羽ばたくことを。
神様、あなたは許してくれますか——?




