“愛染” “篠乃” ~ひとつの願いが芽吹くとき~
「元気かクソババア!」
昼下がり、少女は大きな声でどんどんと扉を叩いた。
がちゃり、とオートロックの鍵が、音を立てたのを確認して、
少女は堂々と診察室に入った。
「よう小娘。
相変わらず貧相な体じゃが風邪など引いておらんか?」
コーヒーを飲みながらカルテをみていた赤毛の女医が、
古くさい口調で答える。
年は30を超えているが、起伏のある体つきと、肉感的な唇が、
なんともいえない、アダルトな色気を醸し出している。
その表情は老獪だが、いたずらっぽい瞳との対比が、
ちょっとしたギャップを感じさせる。
「ぼくが風邪などひくわけないだろう?
年増こそ、
医者の不養生などしていないだろうな?」
相対する少女は、伸ばしかけのボブカットに、絹のような白い髪、
そして兎のような赤い瞳をしていた。
ワインレッドのキュロットスカートから伸びる足は、
すらっとした健康的なものだが、白い陶磁器のような肌は、
どこか深窓の令嬢を思わせる、
無垢で儚い印象だ。
それでいて、どこまでも強気で不遜な態度なのだから、
そのすべてが否応なしに目立つ。
――少女の名は、愛染愛世という。
「甘くみてもらっては困るの。妾は万能なのじゃぞ。
低俗な病など、あちらから逃げていくわ」
ババア……もとい女医である神宮篠乃は、
赤いポニーテールを揺らし、かかっと笑って答えた。
「それはよかったな。
まあ今日は、特別に差し入れを持ってきてやったからありがたく食えよ。
ババア好みの羊羹だ」
愛世は、ぐいっと紙袋を差し出した。
老舗の高級菓子だということは、包装をみれば明らかだが、
愛世はこれといってお金に不自由していない。
だから、気軽に渡したつもりだったようだが。
「ガキが、気など使うなと言っておろうが、気持ち悪い奴じゃの。
まあ、ゆっくりしていけ。
そして成績を落として小僧にフられろ」
「余計なお世話だ、三十路いき遅れ。
ぼくとリシアンは、永遠に両想いに決まっているだろうが」
少女の口調と態度は、一貫してまったく少女らしくないうえ、
不遜にもほどがあるが、女医はまったく気にするそぶりがない。
ようするに、このふたりは旧知の仲なのだ。
「あっそう。どうでもいいが、
そなたのその無意味な自信はどこから来るんじゃろうな。
グリセリンとか言う小娘はどうしたんじゃ?」
「グリシ……女豹か。
あんな年増はぼくのライバルとは言えないな。
リシアンも、ぼくみたいな美少女が好みに決まっている」
グリシーヌは、れっきとしたリシアンの彼女なのだが……。
だが、愛染愛世こと、もと常闇の白の聖王、
リキア・エイドスには、並ならぬ自信があった。
自分は絶対にリシアンをモノにすると、最初から確信しているかのような。
……実に攻め攻めの、肉食系女子である。
だが、そんな勝ち気さも、繊細な見た目と相まって、
確かに周囲の目を引く、チャームポイントといえるかもしれない。
ややおてんばがすぎ、かなり口が悪いことを除けば。
「はいはい。胸囲Bがよく言うわ。
もっと栄養をつけないと惨敗するぞ? 肉を食え肉を」
「……ハッ。豚みたいに肥えろというのかこのぼくに。
心配しなくても、もう作戦ははじまっている。
あの女狐が、どんな顔をして敗北するか見ものだな」
鼻で笑うリキアだが、見てほしい、足先がさっきからむずむずしている。
「……はーん。女狐ねえ。
実はあの小娘のこと、結構気に入っておるじゃろ」
「……なっ……!」
リキアの余裕が崩れた。それも大きな音を立てて。
動揺したのか、目を丸くして頬を薔薇色に染めている。
「お友達になりたいなら、素直にそう言えばよかろうに。
まったくお前はダメなやつじゃのう。千年前から何も変わっておらんな」
「ふん……! ロリババアこそなんだあの容姿は。
若作りというより、詐欺だろう。
あの世界のことを持ち出すなら、ぼくも黙ってはいないからな。
天女だか乙女(笑)だか知らないが、ババアはババアらしく、 うら若きこのぼくに、嫉妬してればいいんだ」
むりやりごまかした感がぬぐいきれない少女だが、
これでもあちらの世界では、千年にわたり少年のごとき姿で生きていた、
れっきとしたババ……いや言わないでおこう。
もっともこちらの世界では、見た目通り中学生なので、
これからが花ざかりなのだが。
「……ふーん」
篠乃はにやにやと笑った。
「なんだ気色悪いな。言いたいことがあるなら、言えばいいだろ」
「いや、お前も成長したなと思ってな」
篠乃は口調をがらりと変えた。
リキアはその顔を一瞥した。
軽やかで包むような微笑は、もうあちらの世界の神や天女ではなく、
ただの医者の、そしてただの女の顔だった。
そうして、その表情のまま、さらりとリキアの頭をなでた。
「よしよし」
篠乃はそれだけ言うと、もう軽口をたたかず、
うりうりと愉しそうに、その手のひらを往復させた。
リキアは、依然として、いやそうに顔をしかめていたが、
されるがまま、その体をゆだねているようだった。
母のようだ、とリキアはひとり思う。
乱暴な手つきのなかに、優しさがあった。
いつか、と思う。
いつかこの医者の、娘になってやってもいい。
もうリキアは、誰をも呪わない。
――最初の願いは、かなえられた。
愛されたい。許されたい。
愛したいし、許したい。
その叫びに気づいてくれたのは、ほかでもない思い人、リシアンである。
タールのような、終わりの見えない闇に、光を灯したのは、彼だった。
少女は恋をした。
そうして高鳴る鼓動に気がついた頃には、
心臓を突き破って、喉から生まれ出づる、
怨嗟と渇望は満たされ、
羽ばたき、青空の彼方へと消えていた。
だから、この願いも、もうすぐかなう気がして。
リキアは、気づかれないようにその口元をほころばせた。
――愛染愛世は、世界を愛している。




