“理緒” ~ひとつの夢が咲くとき~
ひとりになりたかったんですの、と理緒先生は言う。
ちょっぴりさびしそうな笑み。
それでもその口調は、
とっておきの打ち明け話をするように、ほのかに明るかった。
「大勢の男性に好かれましたわ。
でも、それはわたくしのこの少しばかり恵まれたプロポーションと、
女医というブランドのおかげ。
本当のわたくしをみてくれる殿方は、ひとりもおりませんでしたわ」
それに気づいたのはだいぶあと。
だからこそ、途方にくれた。
「……わたくしは、ばかな女だったんですの」
控えめに微笑みながら、明るく、理緒先生――リオンさんは言う。
気づいた時には、初めてのお付き合いのだいぶあと。
広大な道の真ん中に、ひとりきり。
泣きべそをかきたい気持ちでいっぱいだった。
すみっこに座りこんだ。
いっそ、子どものように泣いてしまえたらどんなに楽だっただろう。
初恋にやぶれた少女のように、大泣きできたら。
そんな時でしたの、とリオンさんはちいさく微笑む。
「――御前、泣いているのでやんすか?」
疑問に思って目を上げる。
それは、ちいさな体だった。
青紫に発光する、わたあめのようにまんまるな身体。
緩やかなラインを描く、しゅるりとしたしっぽ。
ふにふにとしたマシュマロのような触覚。
加
えて三日月のような、きらきらした目をした、可愛いらしいお化け。
それが、わたくしの前にいた。
 
「御前、まさか話すこともできないのでやんすか?」
呆れたように、ぷふん、と鼻息をひとつ。
偉そうだが、それはそのチャーミングな容姿とあいまって、
どこか強がるこねこのように、可愛らしかった。
「わたくしは……」
そうだ。わたくしは、誰なのだったか。
意識が曖昧で、ひどくぼんやりしている。
視界も霧がかったようで、まるで夢のようだった。
そうか、夢。これは夢なのだ。
わたくしはおかしくなって、少し笑った。
「わたくしはリオン。ミュステーリオンですわ」
不思議とすらすらと口をついた。
子どもの頃読んだ、童話に出てくる、謎解きの神。
恐ろしげで、謎めいた、美しい知識の神。
あんな風に聡明で、超越した存在になれたなら、
このちっぽけな悩みなど、消し飛んでしまいそうだった。
「……そうでやんすか。ならば、そう振る舞うがいいでやんす」
一区切りすると、しゅるん、と近づき、まっすぐにわたしの瞳を覗きこむ。
「ここは昼の世界と夜の世界の狭間。――御前の望みが叶う場所。
……言ってみるでやんす。
古き信託の神、オラキオスのなれの果て、
オラシオンの名において、御前に力を与えよう」
「オラ……シオン?」
「なんでやんすか?」
「とっても素敵なお名前。それに、おそろいですわ」
「……?」
「<リオン>と<シオン>。まるでふたごの家族みたい。
……ふふ、シオンさま、あなたは素敵な紳士ですのね?」
その存在が、自分とはほど遠い、
高次の存在だと、もう気づいていた。
だけど、その存在――きっとおとぎ話の神さま……は、
それでも、可愛くて、可愛くて、仕方なかった。
容姿といい、しゃべり方といい、存在といい。
そしてなにより素敵なのは、
そんな彼とわたしは、愛称にすれば、たったのひと文字違いなのだ。
そのことが、全身を包み込むぐらい、しあわせで、たまらなかった。
……みつけた、と思った。
――賭けよう、と思った。
人間でなくなってもいい。
いっそ、今までの自分をぜんぶ捨ててしまったらいい。
わたくしは、リオン。知恵の神、ミュステーリオン。
わたくしは、このひとのくれた運命に、すべてを委ねよう。
そう思った瞬間、胸が熱くなった。
軽やかに、踊る心音。
まるでなにかに包まれているかのように、上がる体温。
その高揚感と、開放感といったら!!
わたくしは、微笑み、おじぎをする。
「神さま。わたくしを、あなた様の僕にしてくださいませ」
心からの言葉だったが、
彼、いいえ、シオンさまは、やや不機嫌そうに目を細めた。
「断るでやんす」
「……なぜ?」
なんとなく、わかっていた。
けれど、口をついたのは、疑問の言葉だった。
「御前は、自由でやんす。
我のようななれの果てには、御前は見合わない。
御前は、我なしでも、じゅうぶんでやんす」
「――それは…」
心ぼそそうに不満を述べるわたくしに、彼は続ける。
「だから、その翼で、羽ばたいてゆけ。
御前は、紫の神にふさわしい。
その美しい神格でもって、知識を、真実を乞う民に、
手を差し伸べ、導くことが、御前にふさわしい生き方でやんす」
まるで、とびきりの賛辞を贈るかのような言葉に、
身体が震えた。
「貴方様は……」
なんてやさしい。なんて、あたたかな、言葉だろう。
まるで、道に迷った子羊に手をさしのべる、メシアのような。
「……御前は、知恵の神ミュステーリオン。
御前にひとつの美しい国と、たくさんの迷える民を託そう。
御前が、御前であるために、御前が、迷わぬように。
――御前の望みを、叶えよう」
その言葉はもうまどろみのなかだった。
そうして、わたくしは、常闇の国の女神になった。
紫の国に立つ、知恵と神秘、知識と謎解きの神、ミュステーリオンとして。
それは、甘いだけではない、けれども祝福にみちた世界だった。
現実世界の縮図で、そこに隠された真実を強調したような、
ゆりかごの世界だった。
――わたくしは、そうして、恋をした。
その、可愛らしい神さまの、ほんとうの姿をみることもなく。
ただ、その魂に、そのこころに、心からの崇敬を寄せた。
でも、彼がなにものだって、きっとわたしは恋をした。
人でなくとも、神でなくとも、惹かれただろう。
最高神オラキオスでなくとも、青の神オラシオンですらなくなっても、
ただの使い魔、紫緒となっても。
わたくしにとって、あなたは最高の神さまだと、思った。
こんな取るに足らないお嬢様あがりの女医に、
その消え失せかけた最後の神権をもって、
願いを叶えてくれた彼を、誰が嫌いになるだろう。
誰が恋焦がれずに、いられるだろう。
だから、わたくしは、今日も微笑む。
この運命に、すべてを委ねようと、そう決めたのだから。
――もう、わたくしは迷わない。
 




