~きみの、“ほんとうの願い”~ -後編-
『 御前に、この我を語る権利は無い…… 』
めらめら、と吹き出す藍色の業火をまとい、
その躰が、みるみるうちに膨れ上がり、燃えあがる。
廃墟と化した城を、突き破るようにして、
その巨躯が姿を現した。
群青色の躰は、
まるでひとつの巨大な雲のように、天を覆っていた。
金貨色だった眼は、まるで……燃え上がる黄金の炎だ。
めらめらと激しい怒りをたたえた、
でも、どこまでも高貴な、美しい炎が、ぼくの眼に焼付いた―-。
――鐘の鳴る音がする。
それは、ぼくの知らない紫緒。
ぼくの知らない――<運命の序曲>……。
紫緒は――いや、<オラキオス>は言う。
『灰の神は死んだ。おおかた、その霊力を奪い取ったのは、御前だろう?
我を侮るなら、その命、なきものと思え…… 』
もう一度、奏でられた、荘厳なパイプオルガンのような声。
響きわたるというより、響き壊すように、びりびりと鼓膜をふるわせる。
その衝撃に、もろい壁の数々が、崩れ落ちた。
「――ふん。その程度のこけおどしで、我が怖がるとでも?
いかにも。灰の王は我、灰の神の力を我がものにしたのは、我じゃ。
だが、誰が我を責める?
破滅の神、彼の神の力の暴走により、灰の国は壊滅した。
荒廃した国に彼は必要か? 否じゃ。
神が国を滅ぼすなら、我こそが神になる!
彷徨える子ども、
絶望に幸福を望む子らに、ひとときの夢を――。
その我が間違っておると、お主は申すのか――!?
無知な子どもを騙し、その信頼を裏切ったお前が――!」
紫緒の動揺が伝わってくる。
びりびりと、ぼくの指の端まで。
「……紫緒」
ぼくの声に、紫緒はその膨れあがった体を、ランタンに収めた。
「――我はただ……」
「わかってる」
ぼくはちいさく微笑んだ。
紫緒は、いつだってぼくの味方だ。
戦う力を持たないぼくを、いつだって守ってくれる。
紫緒は、ぼくを騙そうとしていたわけじゃない。
ただ、言えなかった。自分が最高神で、神霊だったなんて。
そして今は、ただの使い魔の力しかないなんて。
そんな弱音は――吐きたくなかったのだ。
そんな不安は――みせたくなかったのだ。
唯一の家族を失い、途方に暮れたぼくを想って――……。
「ザラスシュターさん。
あなたは、少しも、間違ったことをしていません。
灰の国は、ひどい有様でした。
飢え渇くひとたちが彷徨う、死の国。
弱いばかりの灰の子どもたちは……。
いえ、灰の国にかぎったことじゃない。
他ならぬぼくたちは、しあわせなゆりかごを欲した。
甘く、やさしい、常闇の夢……。
ぼくは、忘れるところでした。
この常闇の世界……それはあなた、
ザラスシュターさんが生み出したものですね?
現実と夢の狭間で、
ぼくは大きな怪我を負った。
それを癒したのは紫緒だった。
でも、ぼくの脳はそれを認識できなかった。
だって、ザラスシュターさん、あなたがこの世界の動力、
<ドリームエンジン>の開発者なんでしょう……?」
灰原賢悟。
全世界に散らばる、いわくつきの大病院の管理者。
それが、ザラスシュターさんの、昼の世界での顔――。
白鐘さん――常闇の白の神が話していた、
ドリームエンジンとは、これまでの情報から想像するに、
おそらく、ぼくたちの脳内に存在する、
エンドルフィン……セロトニン。
快楽と幸福をつかさどる脳内物質を操作する、なんらかの装置だろう。
その仕組みは、ぼくたち無学な一般人には、
とうてい、うかがい知ることはできない、
いわば、超科学技術<オーバーテクノロジー>。
「……ほほう? お主、やはり……。
その超人的な直観力、青の国の最高峰の仔の証とみた。
瑠璃の魔女が、お主を育てたのも、必然か。
さすれば、オラキオス。
……おまえこそが、かつての青の神というわけか。
なるほど、合点がいったわい。
濃度、密度共に、最高峰の癒しの力…。
じゃが、その力は、ほとんど枯渇しておる。
いったい、どれほどの禁忌に手を染めれば、
そこまで墜ちることやら。
リシアン……いや、“涙花”。
その顔には、覚えがあるぞ。
転生したのは、リキア・エイドス……
“愛染”だけではないというわけか」
「……っ?」
――転生。
常闇の最高神、篠姫さんのみに許された力。
もしかして、紫緒が今の紫緒になったのは……。
「そう、すべては、お主のため。
そうじゃろう? オラキオス、いや青の神、オラシオン。
お前は愚かにも、自らの名前ごと、存在ごと、贄とし、
かつての<涙花>を蘇らせたのじゃろ?」
「――ぼくの、ため……?」
茫然としながらつぶやく。
紫緒が、ただの使い魔に貶められたのは、
ぜんぶ、ぼくのせい……?
ゾロアシュトラ教の最高神、オラキオスから、青の神オラシオンに。
そして最後には、ただの使い魔――<紫緒>に、堕ち。
ぼくを治癒するために、その力を使い果たし、
その紫緒としてすらも、この世に存在できなくなった……。
ツァラトゥストラさん……メイエル・ザラスシュターさんに、
眠りについたその心臓<アルミナ>を呼び覚ましてもらわなければ、
そのまま二度と、生き返ることもなく……。
もしかしたら、ほんとうに、この世界から消えてしまったかもしれない。
いや。絶望してる場合じゃない。
<かつての涙花>とは、いったい誰のことなんだ……?!
「……ザラスシュターさん」
足がすくむ。唇が震える。それでも聞かなければ。
紫緒がぼくに隠していた、「ぼく」という存在の真実を――!
「……もうよい」
ぶわ…!
青い花びらが、またたくまにあたりに咲き、散りほこった。
ただよう木蓮のにおい。
紫緒。
いや、オラシオンは、その天をつくような体を花開かせ、重い唇を開いた。
「リシアン……まずは、我の謝罪を聞け。
我は、御前を騙していた。御前に偽っていた。
我は本来、御前の使い魔でも、
ましてや古今東西の羅針盤でもない。
我は、あまねく願いにより、形造られた、
信託の神、オラキオスのなれの果て。
そして、御前こそ、我、かつての青の神、オラシオンの唯一の息子……、
涙花<ルキア>の生まれ変わりなのだ…」
――ルキア。
その名前は、まるで、青の王ルキウスさんと、白の王リキアの混合……。
いや、リキアは虹の神、篠姫さんの手によって、
ルキウスさんの妹として転生している。
神の子は王。
だとしたら、ルキウスさんは、そしてぼくという存在は、いったい……?
『ルキウス……<粉雪>とは……御前の写し身――。
いわば泡沫の影武者。
ゆえに<粉雪>は昼の世界では、けして存在し得ぬ。
御前という、本物がいるかぎり、
ルキウスは同じ時の中、生身を保てない。
精神でしか、霊体のみでしか存在することは叶わぬ。
虹の神、篠姫之大神の、
胎内に一度は存在を許されていたが……。
大神の力の代償は、他者の願いをすべて叶える代わりに、
自分の願いすべてを棄却するという、
最も苛烈なる呪い。
常闇の呪いは、なくならない。
なぜなら、その呪いこそが祝福の代償。
人々の願いこそが、
この世界を動かす唯一の動力<エンジン>であるならば、
人々の昼の世界での絶望こそが、その動力源<エナジー>。
ふたつの世界は、お互いにお互いを片翼とし、
もはや、お互いなしでは、存在しえない。
、
朝顔、
昼蝉、
黄昏……
――そしてこの、常闇の世界にしても同じ。
互いを縛り、互いを支えにし、
永遠につづく写し鏡のように、同時に存在している。
ドリームエンジンなどは、後付けの物にすぎぬ。
ただ、相互変換成功率を上げるだけの、 偶発物。
とうにこの世界は、終わりのない迷路のなか。
それは、常闇のメシア、<ルキア>にすら、
改訂することはかなわぬ、
絶対にして、不動の定め……」
そこまで語ると、オラシオンはどこか遠い目を、ぼくに合わせた。
「……御前よ。この我のことが憎いか。
影武者<ルキウス>に青の王を継がせ、
御前には、ただの仔としての幸福しか許さず。
ついぞ一度も愛すことのなかった、この我を――……」
ぼくは、息を飲みこみ、そして吐いた。
「――紫緒。ぼくは、あなたをおとうさんなんて、呼ばない。
だけど、憎むなんて、恨むなんて……。
ましてや、愛されてないなんて、思ってない。
きみは、確かに、実のおとうさんとしては、ぼくを愛さなかった。
だけど、きみは、ぼくを普通の子として、
友人として、相棒として……愛し、慈しんでくれた。
青の王とか、メシアとか。
そんな重い運命を背負わせることも、期待することもなく。
ただ、ぼくに平凡なしあわせをくれた。
……そう、きみが、ぼくに翼をくれたんだ。
遠く、遠く。どこまでも飛んでゆける翼を。
――ねえ、紫緒。
きみはぼくのために、すべてを投げ打った。
ぼくのしあわせのために、すべてを捧げてくれた。
でも、ぼくはそんなものは……いらないよ。
きみのしてくれたことは、とてつもなく偉大だし、すごく嬉しい。
――ぼくのために。
いつだってぼくだけのために、存在してくれたそのことに。
その、まばゆい愛に。
ぼくは……感謝したい。
でもぼくは、きみの犠牲なんて望んでない――。
きみがいたから、ぼくは生まれた。
涙花<リシアン>として、新しい人生を生きた。
だけど、きみは、自分自身を粗末にするべきじゃない。
だから、ぼくはきみに返す。
きみの大事な友達。ぼくの偉大な使い魔。ぼくの唯一の相棒。
紫緒。きみに命令する――」
そう、これが、ぼくの最後の命令……ぼくが持てる、最大の権限――。
「“きみはぼくの使い魔なんかじゃない。
ぼくの神、<青き聖なる炎>、オラシオンだ――!”」
微笑んだぼくは、両手にかき集めた花びらを、宙に放った。
柔らかくまばゆい、光の洪水が、ぼくの掌からあふれだし、
――青いばかりの美しい、美しすぎる花火が、その周囲を彩った。
甘くさわやかな木蓮の薫りが、
廃墟に空いた穴を軽やかに抜け、灰色の空に飛び込んでいく。
――青空。
そう、聖なる青<ヘブンリーブルー>が、
くすんだ空を、一瞬で染め上げた。
それは、ほんとうにひとときの奇跡だったけれど。
――紫緒。ぼくの、永遠の相棒。
もうあなたは、ぼくに縛られなくていい。
偉大なその存在を、ちいさな檻に押し込めることも、
ぼくを騙したなんて、罪悪感に囚われることも、
ましてや、使い魔なんて、
窮屈な契約を、まっとうすることもない。
「――オラシオン。
あなたは、ぼくの神。
ぼくはあなたに、ぼくを捧げる。
誓わせてください。
あなたに仕え、あなたのしもべとして、
冠を戴き、青の国に朝焼けをもたらすことを――」
ぼくは身体を折り、頭を垂れ、
その両手をそっと床につけた。
冷たく汚れた床が、清廉な空気にさらされ、
うつくしい純白の大理石に変わってゆく。
「リシアン」
戸惑ったような声が、響くようにして聞こえるが、
ぼくは気にしなかった。
「……神さま。
あなたの愛は、とても美しく、だからこそ、ぼくには重すぎる。
どうか、その罪意から、ぼくを解放してください。
そしてなにより、あなたを解放してあげてください。
ぼくの臣下として生きるのではなく、
あなたの臣下として、ぼくを使ってください。
これが、ぼくがあなたに尽くせる、最上級のお礼です。
あなたは、ぼくに最高の人生を与えてくれた。
ぼくは、もう、それ以上を望みません……」
これがほんとうに、正しいことなのか、わからなかった。
それでも、これ以外にできることは、ぼくには、きっとない。
――罪滅ぼしのつもりなんかじゃない。
ただ、心をこめて、お願いしたかった。
ぼくから“紫緒”への、神さまへの、最後のお願いを。
鼓動が脈打つ。
ぼくは、今、神さまにお願いしている。
古の最高神。常闇の父なる神に――。
一秒、二秒、と静寂がつづく。
ぼくはいまさら、うろたえた。
土下座で頼み込む。
神さまへは当然の作法だ。最低限の礼だ。
けれど、彼は紫緒なんだ。
“紫緒”は、そんなこと望まないんじゃないか。
三秒、四秒。
鼓動が、激しく胸をたたく。
もしかして……もしかしてぼくは、慌てるあまり、
一番、してはいけないことをしてしまった……!?
五秒、六秒――いや、もう時間なんてわからない。
――紫緒の顔がみれない。
紫緒は……紫緒は……紫緒がほんとうに望んだことは……!?
「……面をあげるでやんす」
ぼくは思わずはっとした。
目の前に飛び込んでくるのは、金貨色の瞳。
もみじのような手。ちいさなちいさな、そのからだ。
「し……神さま……」
「紫緒でいいでやんす。おまえは誤解している。
我のしあわせは、おまえのしあわせ。
我は自由なんて、力なんて望んでいない。
ただ、おまえの傍で、おまえを見守っていたかった。
おまえが王になりたいというのなら、それを叶えよう。
だが、それはおまえのほんとうの望みではない。
おまえに翼があるというならば、それでどこまでもはばたいてゆけ。
常闇の世界のすべてを見、聞き、触れてみせよ。
それが、我――紫緒の、おまえへの、唯一の望みでやんす」
そういって、紫緒は、くるんと宙返りすると、
みゃおん、とその姿をさらけ出した。
黒く、それでいて一級品のビロードのように青く輝く、
その猫――<シオン>の姿を。
「……この世界だけじゃない。
あちらの世界でも、おまえを見守っているでやんす。
いまはまだ、なんの力も持たない、この非力な体が精一杯でやんすが。
我は、おまえを独りになんかしない。
なぜなら、おまえは、いつまでたっても……。
無力で、非力で。
貧弱で、惰弱な……、
あぶなっかしい、ただのガキでやんすからね――!」
言い訳のように、まくしたてたその声は、でも、どこか清々しい。
まるで、これまで口にできなかった本心を、すべて、
あの奇跡のような大空に向けて、ときはなったようで……。
――神さま。
あなたは、ぼくの父親として、振る舞いたかったわけじゃない。
神であるということは、その子が王であるということ。
でもあなたは、ぼくを王にして、
不自由を与えるなんて、望んでいなかった。
そう、あなたが、ううん、“紫緒”。
きみが望んだことは……。
ぼくの手は、気が付いたら口を覆っていた。
瞳が熱くなり、すべてがあふれ、にじんでいく。
「――うん、紫緒……っ」
駆け出した。
その体を抱きしめた。
みぎゅー!
苦しそうに手足をばたつかせた紫緒を、全身で確かめた。
やがて緩んだ拘束に体を弛緩させると、紫緒は……シオンは。
ぐるるる、とちいさく喉を鳴らし、
満足そうに、まるで本物のねこのように……。
ただの、運命も呪いも、
真相も理もしらないどうぶつのように……。
そう、照れもきらいも、
意地も誇りもしらない、ただのこねこのように……。
そのちいさくて滑らかな身体を、すりり、とこすりつけ、鳴いた。
そう、きみはおとうさんでも、神さまでもない。
ぼくの、ぼくだけの、相棒<しお>だ――。




