~ きみの、“ほんとうの願い” ~ -前編-
息を切らしたぼくは、光の梯子をみた。
埃と障気によって、くすんだ灰色の梯子…。
崩れた天井の下、穢れた光を浴びながら、
そのひとはなにかを掴むように、
虚空に手を差し伸べ、呟いていた。
「――は死んだ。神は死んだ。神は死んだ……!!」
「……あなたが、ツァラトゥストラさんですね――?」
「――ああ。そうだとも……」
その人は振り返った。
「我こそは常闇の賢者。
<ツァラトゥストラの眠り病>の発明者だ――」
リシアンは、首をかしげた。
このひとが、みんなを<揺りかご>に閉じ込めた、そのひと――?
堂々としているのに、その声色はどこか皮肉げに聞こえて。
しゃがれた声。
床につかんとする長い白髭。
垂れた皮膚。
無数の皺に彩られた面。
目は千年の時を経たように疲れ果て、その腰は曲がっていた。
「――ふん、こんなものはいらんわい――」
賢者が手にした杖を放ると、その年老いた体は大きく傾いだ。
「――っ、大丈夫ですか!?」
思わず手を伸ばし、支えようとしたぼくを一瞥すると、
その手は振り払われた。
「……ふん、同情か? いらんわい」
ごほごほと咳をすると、
もとは豪奢だったろう、ぼろの椅子に座った。
そのまま、気だるそうに髭をしごき、
明後日をみると、賢者は言った。
「……お前よ。使い魔はどうした」
「……紫緒……は……」
床を見つめ、片腕を抱きしめたぼくに、彼は言った。
「……ふん、おおよそ、力を使い果たし、
心臓<アルミナ>が休眠状態になっているのじゃろう。
――どれ、貸してみろ」
「…?」
このひとを、信用していいのだろうか―。
賢者の溜め息が聞こえた。
躊躇うぼくの手から、
ランタンを乱暴にひったくると、賢者は言った。
「どれ……よくもまあ、こんな状態で死なずにすんだものだ。
いくら凍結状態にあるとはいえ、
霊力はとうに枯渇しておる……ほれ」
その手が光に包まれ、視界がくぐもった白に染まった。
「……っ」
目を閉じた一瞬のうちに、ランタンに青い光が灯っていた。
そのまま、凝縮された光が、
ひゅるん、と舞い出て、ひとつのかたちをとる……。
青紫の、たましい型の、それは――……。
「……紫緒……!」
ぎゅっと抱きしめると、腕を透けながらも、じたばたとする紫緒――。
「――苦しいでやんす!
まったく、これだから惰弱は、泣き虫で……!
暑苦しくて……! ――困るでやんす……!!」
ぶつくさ言いつつ、紫緒は、けして逃げたりはしなかった。
「――っ、紫緒、紫緒、紫緒……!」
かならず。必ず会えると、信じていた。
だけど、こんなに簡単に会えるなんて。
どんな高い代償も払い、どんなつらい呪いも受けるつもりでいた。
それだけぼくは、きみに、どうしても、どうしても。
どうしてもどうしてもどうしても、会いたかったんだ――!
「……おい」
静かにせい、と賢者は呆れたように言った。
「……おまえは――ツァラトゥストラでやんすね――!
おいリシアン、そいつは敵でやんす――、
距離を取って、臨戦態勢に――」
「――ううん、その必要はないよ、紫緒」
ぼくは、今にも飛びかかろうとする紫緒を、静かにいさめた。
「なにを――?」
「ツァラトゥストラさん。
紫緒をありがとうございます――。
あなたには、どんなお礼も言い尽くせません。
ほんとうに、ほんとうにありがとうございます……!」
ぼくは全身全霊で、感謝を伝えた。
本当に嬉しい。嬉しすぎる。
言葉も思考もとても追いつかないほどに。
でも――ぼくは、今、冷静にならなければいけない。
だって、真相は、なにひとつ解明されていないのだ――。
「――親切なあなたに、聞きたいことがあります。
あなたが、そんなになるまで……、
子どもたちを眠り病にし続けた、その理由を、
ぼくたちに、教えてくれませんか――?」
「……ふん、不遜な餓鬼じゃわい」
髭をしごき、おざなりに賢者は言った。
出会ったときから、思っていた。
このひとがこんなにも、疲れ果てている原因は――。
「語るより、観たほうが早いわ」
賢者がそう言った瞬間、目の前に、何枚ものおおきな絵が現れた。
ヴン……。どこからか、機械に似た音がした。
それはまるで、現実を写しとったように、どこまでもリアルな油絵……。
いや、それだけじゃない――!
その絵に描かれたものは、動いていた!
そこに描かれていたのは――……。
瓦礫の山のなかで足を血まみれにして、
さ迷う子どもたちだった。
『……パパ、ママ……』
かつては家や木の一部だったろう、
大きな破片がささって、動かない子どもまでいる――!
蠅が飛び交い、腐ったなにかが、山のように積まれている――。
考えたくもない、それは、腐乱した、人間の死体だ――!
絵が唐突に切り替わる。
――どこかさびれた町の郊外。
次々に、石を投げつけられる少年がいる――。
「お前の居場所なんてねーんだよ!!
このクズ! ふろーしゃ! ……ぎゃはは!」
ぼろの服からみえるのは、虐待されたような痛々しい跡。
唇をかんで、足を引きずりながら、その少年は、歩き続け――。
その次は。
次は。
次は――。
「もうやめてください!!」
気がつくと、ぼくは叫んでいた。
「……なんじゃ、もう終わりか。
お主はもう少し、度胸があると踏んでおったのに。とんだ興ざめじゃ」
冷たい床。
――血の散る床。
張り付く長い髪。
――熱の失われた、その骸……。
(……お義母さん……!!)
……心臓が早鐘を打つ。
おぞましい寒気が、全身を支配する。
すでに、それらがただの絵じゃないと分かっていた。
残酷で冷酷な、陰惨で救いのない、それは――。
まぎれもない、現実だ――!!
「おまえ……!」
再び飛びかかろうとする紫緒を、ぼくはいまだ震える腕で制した。
「……あなたは、子どもたちを守りたかったんですね。
ツァラトゥストラさん。
いえ――ゾロアシュトラ教の始祖、
“メイエル・ザラスシュター”さん」
息を整え、冷静になろうとつとめる。
それでも、紫緒がいなかったら、その場に崩れ落ちていただろう。
思い出と呼ぶには、残酷なほど新しく、生々しい記憶。
今も、身体中を暴れまわる悲しみ。
乗り越えるにはあまりに、あまりにぼくは幼く。
どんな冒険も、どんなあたたかい絆も、
その痛みを埋めるには、とうてい足りないと思ってしまうほどに……。
「……ふん」
賢者はただ鼻を鳴らしただけだった。
沈黙の肯定。
ゾロアシュトラ教。
白の国の全土を支配する、
聖カソリキア教のもととなった、と言われている、今はなき宗教。
その始祖の名前こそ――メイエル・ザラスシュター。
「一応、問うてやる。――お主、なぜ気づいた?」
「ツァラトゥストラをラズーリ語で言うと、ザラスシュターでしょう?
それは、ラズーリで育ったぼくには、
最初から気づくべき簡単な答えでした」
「ふん。ラズーリ……ラズーリ禁猟区か。
瑠璃の魔女め。そんなところにおまえを隠していたとはな。
――なるほど、ラズーリの禁じられた森……堕ちたものだ。
まあ、聖女の末路としては、おあつらえ向きじゃの」
くつくつと笑う賢者に、紫緒は吠える。
「なにがおかしい……!
それ以上、ルチアを侮辱する気なら、
この我が許さないでやんす……!!」
「……ふん。今のおまえになにができる。
ゾロアシュトラの最高神……神霊オラキオスのなれのはて。
もうおまえには元の力はびた一文残っておらんだろう?
それとも、新たな契約によって与えられた、
仮初めの力で、この我にかなうとでも?」
「紫緒が――ゾロアシュトラの……最高神?」
「……ッ!」
紫緒が悔しそうに、たたらを踏む姿を、
どこか、ぼんやりとした頭でみつめた。
「そうじゃ。
そいつは古の時代を生きた、ゾロアシュトラの始祖神。
かつては、この世界のすべてを掌握しておった父なる神。
――託宣の神、といえばわかるかの?
人々の祈りから出でし、神にして霊、龍にして獣。
炎。水。風。雷。土。すべてを体現する、旧世界の象徴――」
ぴりり、とあたりが冷え込む。
手が冷たい。息が白い。
紫緒が……怒っている。
『 御前に、この我を語る権利は無い…… 』




