第6話 “涙花” ~この愛しい世界で~
退院の日、ぼくは篠姫さんに挨拶をしにいった。
胸がとくとくと跳ね、ぼくは足早に診察室へと向かう。
言うべきことは、もうわかっていた。
「篠乃先生」
ぼくはこんこん、と扉を叩く。
「なんじゃ、こんな朝から」
すぐに、いつもの老獪な返答が返ってきた。
この世界での篠乃先生はまだ、齢30の医者でも、
あの世界では偉大なる最高神、虹の神だったのだから。
ぼくは扉の前で言う。
「あなたに、どうしても今、言いたいことがあるんです」
「なんじゃ。恨み事なら聞くまいよ。
ひとりで、壁にでも言っているんじゃな」
あくまで冷たい――、
いや、突き放したスタンスを保とうとする、篠姫さんに言う。
「いえ。ぼくが言いたいのはお礼です」
慌てたように物音がなり、扉が開かれた。
「なんじゃそなた、正気か……?!」
泡を食ったようにその双眼は見開かれていた。
「わらわの、どこに感謝したというのじゃ。
わらわはそなたに、なにもしておらんだろう?」
本当に意外だったのだろう。
はた、と自分の失態に気づいたらしく、
わざとけなした言い方をする。
「むしろ、泣きをみさせるつもりでいたはずじゃが?
それとも、そなたはMの気でもあるのか?」
言い終わる頃には、いつもの、面白がるような口調に戻っていた。
「――いえ。きっとあの世界がなかったら、
ぼくは襲い来る喪失を受け止めることも、取り戻すことも……
辛い現実に立ち向かうことも、立ち上がることもできなかった。
――だからこそ、ぼくはあなたに……」
「――わらわは、あの世界の創造者ではないといったろう?
お礼を言うのは、お門違いというものじゃ。
それともそなたは、ここに来てまでも良い子ぶる気か?」
「――篠姫さん。悪者ぶるのはもうやめませんか?
あなたは、優しいひとです。
ぼくを子ども扱いしながらも、愛情を込めて接してくれた。
冷たい言葉の刃は、ぼくの目を覚まさせるため。
わざと意地の悪い言い方をするのは、あなたがあまりに純粋だから。
それしか、人との関わり方を知らないから……。
あなたは孤独を望みながらも、我が子を愛したい気持ちは、
誰かにその愛を注ぎたい気持ちは、誰よりも強かった。
そんな不器用で、素敵なお母さん<あなた>に……、
ぼくはだから、礼がいいたい。
あなたは、ぼくの悪役になってくれた。
ぼくをヒーローにしてくれて、
ぼくの目に真実という冷たい水を注ぎ、覚まさせてくれた。
なにより、ぼくの背中を押してくれた。
――あなたは、ぼくの、なによりの恩人です……」
篠姫さんの目をまっすぐみつめて、ぼくは微笑んだ。
「――篠姫さん。ありがとうございます……」
ほんとうに、ほんとうに。あなたと出会えて、よかった……。
「……そなたは」
篠姫さんは、少しだけ目を丸くして、そして……微笑った。
「まこと、――憎らしき坊じゃ……」
目を瞑ったようなその笑顔は、
春の女神のように、甘やかな喜びで満ちていた。
まなじりにはきらりとした露。
まるで、長い長い冬を越えて、ようやく咲いた花に、
心から感謝するような……。
“嬉しくて、嬉しくて――。もうどんな痛みも、悲しみも、恐れまいよ……”
声に出さなくとも、ぼくにはそう聞こえた。
その表情に、その嗚咽に、
もう、ぼくの胸はいっぱいになってしまって。
篠姫さんの――篠乃先生の手を取って、ぼくも泣いた。
こんなに素敵な出会いが、あるなんて……。
これまでの、そう、常闇の世界に行くまでのぼくには、
信じられなかっただろう。
現実は辛いばかりで。真実は冷たいばかりだと、思っていた。
両親に愛されず、その身を患い、友ひとりすらいない。
孤独なぼくが、なにかを得るなんて。
夢物語だと、白昼夢だと、思っていた。
けれど、そんなぼくに最初のぬくもりをくれたのが、
お母さん……お義母さんだとしたら。
最初の希望を、勇気をくれたのは、あの常闇の世界だったのだ。
たとえ呪われた世界でも。
あの世界こそ、ぼくの、<福音のはじまり>。
世界は、悪夢<ナイトメア>なんかじゃない。
本物の呪いは、ぼくたちの弱い心にだけ住んでいる魔物で。
本物の愛こそ、ぼくたちの本質だ。
運命がぼくらを縛るなら、そのぶんのしあわせを、咲かそう。
ぼくらは絶え間なく失いながらも、最後まで得続ける。
人生という、時に荒ぶる海を渡りながら、最後まで、舵を取れ。
ぼくたちの物語は、そうして続くのだ。
この喪失と奪還の物語を、きみに捧げよう。
『求めよ。されば得られん……』
この偉大なる祝詞を持って、
我が生涯の完成とする――。




