最終話 ~この冷たい現実で~
涙をぬぐったぼくが向かったのは、診察室だった。
扉の前で、ぼくは立ち尽くす。
今からぼくがすることが、正しいことなのか。
それはぼくにも、わからなかった――。
ただ、リクさんは教えてくれた。
『――筋を通しいや。
お前が今からすることが正しかろうが、間違っていようが、
そこを乗り越えんと、お前は前に進めない。
今、すべてを明らかにするんや。
この世界でお前がなにをすべきか――それを見つけてきい』
とん、と押された背が、羽を得たように軽くなったのは、
きっと気のせいじゃない。
――リクさん。黄の国の太陽王。
あなたの指は、素敵な機械を作るためだけにあるんじゃなくて。
誰かを勇気づける、魔法でも、あるんですね――。
とんとん、と扉をノックすると、
ああ、入ってこい。と、声が返された。
扉を開けると、目が覚めるような深い赤毛の、女性が座っている。
「――さて。その様子だと、うすうす感づいているようだな。
まあ、お前なら、遠からず気づくと思っていたが」
人を食ったように微笑む女性は、ずいぶんと印象が違っていたが、
ぼくはもう惑わされない。
「篠乃先生、いえ、――篠姫さん。あなたがすべての黒幕ですね?」
「――ああ。もちろんそうだとも。
わたしこそが、常闇の世界の理。
常闇の世界のすべての法則を定めたのはわたしだ……」
――やっぱり。ぼくの頭はきんとするほど冷えていった。
同時に、足がすくむ。このひとに、ぼくは敵うのか――?
「――だが涙花くん?
それがわかったとして、きみはどうする気なんだ?
向こうの世界と違って、きみにはなにもない。
超常の能力も、可愛い想い人も……
――あれほど大事だった相棒さえな?」
「いえ」
ぼくは、今度こそひるまない。
ここで負けるわけにはいかない。
そう、ぼくが戦うべきは――。
「ぼくたちは。絶望的なほど弱いけれど、だからこそ戦うことができる。
挑戦することができる。
望むなら、この世界を切り開くことだって――。
――紫緒が、ぼくに教えてくれたんです。
この世は、理不尽ばかりじゃない。
手を伸ばしてくれるひとだっている。
ただ、信じることを止めなければ……、
何度くじけても、立ち上がる勇気を持てば……
そして、その目をきちんと見開けば……必ず、みえるものがある!」
ぼくは手に持ったスケッチブックの切れ端を、勢いよく突きつけた――!
目を見開いたぼくの瞳が、瑠璃色の光を放つ――……!
「紫緒…! “ぼくを助けて―!!”」
『わかったでやんす……リシアン!』
時は巻き戻る――……。
「しかし、なぜ気づいた? お前はまことに賢き童じゃが。
それでも、ノーヒントで、ここまでたどり着いたとは思えんの」
「……ずっと不思議だったんです。
青の神であるあなたが……、
目の色も、髪も、青の色を持たなかったことが。
12の国の神は、12種類の、それぞれの色を冠する。
なのにあなたは青い羽衣をまとうのみで、
身体のどこにも、青色がなかった。
最初は、わかりませんでした。
そういう神さまもいるのかと。
――でも、グリシーヌは言いました。
力あるものほど、強く呪われる。
名前も、色も――わたしたちは、
誰一人、この呪いから逃れられない……と……。
――そう、あなたは青の王ではない……!
ましてやどの色の神でも――。
あなたはどの色にも縛られず、どの色にもなることができる――、
すべての色を司る、12の国の最高神、<虹の神>――!」
すべての勇気を振り絞り、猛々(たけだけ)しく言い放ったぼくに、
しかし篠姫さんは、動じない。
「……ほう。筋がいいのう。
まったくもって憎らしき男の子よ。
ただし、そなたはまだ気づいておらんだろう?
常闇の世界とはなんだったのか?
そして、なぜそなたに、超常の力が宿ったか……」
試すように笑う篠姫さんに、ぼくは、慎重に言葉を紡ぐ。
「それはわかりません――。
でも、リクさん――。
――かつてあの世界の、黄の国の王だったひと――は言いました。
あの世界は、この世界のもうひとつの顔で、真実の姿だと。
ぼくは、こう予測します。
きっとあの世界は、ぼくらの望んだ、もうひとつの世界――。
無力なぼくらが思い描いた、希望の世界だと――……」
「――なるほど、面白い。じゃが、それはもう過去のこと――。
夢は覚める。どんなに楽しかろうと、苦しかろうと……。
まあしかし、お前の夢は叶ったろう?
ひとりぼっちのお前が、かけがえのない相棒を得て、
物語の主人公よろしく、魔法使いになる夢を――。
よかったな、リシアン。
もう二度と戻れないが――……楽しかったろう?
これからはこの昼の世界で、
甘い夢を思い出しながら、ひとり楽しく過ごすんだな?」
茶化すように言う篠姫さんを、ぼくは静かにみつめた。
「――いいえ、篠姫さん。ぼくはもう、ひとりじゃない――」
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うずくまる篠姫さんを見下ろすように、ぼくは立つ。
紫緒は、たった一度、その力を解き放つと、消えてしまった。
残ったのは燃えたようにみすぼらしくなった、
スケッチブックの一枚だけ。
たぶん、この世界では二度と会えないだろう。
世界の理を無視して、無理やり契約をしたのだから。
『たった一度でいい。ぼくを助けて――!』
奇跡は起こった。
ぼくの力は、これでもう終わりだ。
蝋燭の灯しびと、リシアンはあちらの世界での話。
この世界でのぼくは、ただの涙花<無力な子ども>なのだから―。
「たわけが……わらわを倒しても、なにも変わらんというのに……」
よろめきながら、篠姫さんはつぶやく。
「この世界にヒトがある限り、恨みも怒りも、絶望も尽きない。
押し込めた闇が、形となり、またあの常闇の世界を作るだろう――。
覚めない夢の世界は、時に悪夢となり、
得た祝福のぶんだけ、呪いとなろうが、
それでもリシアン、そなたはあの世界で幸福だったはずじゃ――。
ならば、なぜこのわらわを裁く……?
そなたは結局、正義のヒーローでもやりたかったのか?」
「――いいえ。ぼくは、最初から最後まで、ヒーローにはなりません。
どんな悪人も、ほんとうは、飢えたひとだから。
ぼくが――ぼくらがすべきことは、幸せに飢え乾いたひとを、
それゆえに間違ってしまうひとを、なじることでも、倒すことでもない。
その手をとって、その乾いた口に、優しい水をさしてあげることです。
でも、ぼくにあなたは助けられないから。
……少しだけ、時間をください。
あなたがもし、
あの常闇の世界の理を編んだひとなら、
ぼくはきっと、あの世界こそ、ぼくたちの希望だったと信じたい。
きっと、みんなが求める願いが、あそこでは叶えられた。
あなたは言いました。陽には陰が……祝福には呪いが……。
それは、どうしようもない、世界の法則です。
片方だけでは、成立しえない、万物の法則です。
――ですが、それでもきっと、あなたは欲しかったはずです。
自分のお子さんが……。
――“粉雪”さんは、あなたが亡くした息子さんですね?
流産し、そのうえ子宮をなくしたあなたこそ、
あの世界を誰より求めていた――」
「……お見通しと言うわけか。
勝手に個人情報を盗み見るとは――。まことに生意気な坊じゃ。
――ならば、次にわらわが言う言葉もわかっていよう?」
「――はい。あの世界でまた会いましょう。
たとえ呪われた世界でも――
あそこには、ぼくたちの未来のかけらが眠っている。
あの世界はつまり……。
ぼくらが、現実に立ち向かうための、ひとときの揺りかご。
そして、ぼくたちはそこで知るんです。
ほんとうの願いと、その叶えかたを」
両親に見放されたぼくは、骨折を機に、病院に預けられた。
ぼくはもう知っている。そのまま、両親には二度と会えないと。
その代わり、この病院に、ひとりの女性が訪れるのも。
夜宮星乃さん――
――そう、ぼくの、お義母さん――。
いずれ、別れる定めとしても、ぼくはもう怖がったりしない。
何度だって愛そう。
喪失の痛みも、やがてはぼくらを強くする。
そして、そこにこそ、あたたかな救いがあるのだ。
ぼくらの望む未来を、取り戻そう。
夜の呪い<ナイトメア>はなくならない。
なぜなら、死は生の代償。悲しみは幸せの代償。
誰一人、なんの代償もなしに、なにかを得ることはできない。
死は生をはらみ、悲しみは幸せを生み……、
――だからこそぼくらは進んでいける。
終わりない旅をしよう。
そこには、願いと呪いと、祝福と希望があって……
喪失と奪還の物語はつづく。
ぼくらは諦めない。
たとえ、限られた命でも――いずれ咲き誇る権利までは、奪えない。
だから、精一杯生きて、その生をまっとうする。
愛して、憎んで、悲しんで、喜ぼう。
怒って、笑って、失って、得て。
そうだよね、紫緒。
たとえきみに会えなくても、きみがくれたものはなくならない――。
ぼくは、こぶしを握りしめた。
野ばらにそよぐ風。
窓の向こう、一匹の黒ねこが、にゃあん、と鳴いた――。




