最終話 ~きみの、ほんとうのなまえ~
『人は、後ろ向きで歩き続けていられるほど、よくできていない。
そもそも、そんなことになんの意味がある?
現在を捨て、現実を捨て、未来を捨て、
過去という幻のみと戯れて悲しみに浸る。
なんという悦楽、なんという愚かさよ!
正直に言おう。
我はお前を、そんな牢獄に残したくない。
悲しみにくれるお前を、みたくない。
わかってくれるか? ――“リシアンサス”――』
はじめて聞いた。
それは、ぼくの本当の名前だ――。
ぼくのなかのなにかが弾け、
すべてを消し飛ばすような、鮮烈なひかりがあたりを満たした。
目の前に、きらきらと瞬きながら、なにかが落ちてくる。
そうじゃ、とミソラは声に出さず、語る。
ぼくの――無くした鍵。
母さんの残した、最後のひとかけら。
『――“いずれ咲く、真青き清らの花”よ。
おまえに訪れる幾つの困難も、
必ずおまえを、栄光の未来へと導くだろう。
清らの花、ここに咲きたり。
すべては忘却の彼方より咲きし、到達の調べ―。
――今ここに……必然の誓約を謳う。
謡えや詠え。
根源より満ちる我が血潮よ、
洗礼を以ち、聖血を以て、この祝詞を呪え。
この歓喜と栄光が――祝福と幸福が、
愛しき我が子リシアンサスに受け継がれることを――
以て、
我が契約の成就と、為す――』
――そうだ。
あの日、洗礼の日に、――最初の約束の日に――
母さんは、確かにぼくにその呪いをくれたんだ。
ぼくの手を取り、その聖なる血を、力を、ぼくに注いでくれたんだ。
あのしあわせな鳥籠の日々より、
母さんのなによりのしあわせより、ぼくのしあわせを祈って。
ぼくのために、その命をくれたんだ。
そうだ。
あのとき、あの日――。
『……リシアン! ――……リシアン!!』
ぼくは流行り病で倒れ。
『リシアン……目を開けて……開けておくれ……!! 』
意識を失い。
『リシアン……っ!! 』
母さんの洗礼を、受けたのだ。
母さんはあの時――まるで子どもみたいに、ぼくにしがみ付き、
ぽろぽろと、はらはらと、涙をこぼし。
やがて、決意した。
我が子を失うという奈落の恐怖を、
必ず自分の命にかけ、救ってみせるという毅然さに包んで――。
その祝詞を、神に捧げたのだ。
(――きみも――それを知ってたんでしょ? 紫尾。
ううん……“紫緒”。)
紫色のしっぽの名前の、ぼくの従者。
ぼくとお母さんの契約を――。
約束を果たしてくれた、大切なともだち。
――名前は、「力」だ――。
名前という呪文は、名乗った瞬間から、あるいはそれを与えた瞬間から――。
そのものに、絶対の力を与える。
そう振る舞わずにはいられないという、
絶対の束縛と引き換えに、
常に、そのように振る舞うことができるという、
絶対の権利を与えてくれるのだ。
母さんが、ぼくの本当の名前を、
最後の鍵に、祈りの言葉にしてくれたように。
紫尾は、あの日、ぼくと契約したあのときから――、
紫緒として、ぼくのそばにいて、
導くことを、誓ってくれたのだ。
『……やれやれ、仕方がないでやんすね……』
その不器用な言葉と、最大の誠意を以て。
『……――分かった。誓うでやんす、“リシアンサス”』
助けて、という声にならない悲鳴を、
そのねことも、ワニともつかない、
爛々(らんらん)とした黄金の瞳をしばばたかせ…、
聞き届けて、くれたのだ。
ううん――それだけじゃない。
紫緒が叶えてくれたのは――それじゃない。
うすっぺらで、一時しのぎなその願いの向こう側の――。
“ほんとうの、願い”、だったんだ。
「何、泣いてるでやんす……」
紫尾が、ぼくの紫緒が、咎めるように言う。
「――違う。嬉しいんだ……」
ぼくは笑っていた。
笑いながら、ぽろぽろと雫をおとすぼくを、
紫緒は、どこか他人ごとのように見やって。
その触角を、照れくさそうにぴしゅん、として。
いつもの、ぷふん、をした。
やや蛇足ぎみの解説です。
読後感を崩すという方は、お読みにならないでください。
最終話の意味がよくわからなくて、
答えあわせをしたい、という方はつづきからどうぞ。
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「紫尾」と「紫緒」の違い。
本文だけではわかりにくいかと思うので、少し解説をば。
尾…しっぽ
緒… 繊維をよった細長い線状のものの総称。糸やひもなど
長く続くこと。また、そのもの。「息の―が絶える」
命。生命。
魂をつなぐもの。玉の緒。
そして、この話での「緒」は、このすべてを含んだ意味なのです。
約束の糸、絆であり。
それはいつまでも、ながくながく続くものであり。
命を懸けた誓いであり。
それはつまるところ、魂と魂を繋ぐ、約束なのです。
どうでしょうか?
リシアンはそれをもっとシンプルな言葉で語っています。
「ぼくの傍にいて、導くことを、誓ってくれたのだ。」
そう。紫の“緒”は、一緒の「緒」なのです。
そしてそれこそが、紫尾がリシアンに贈る、
さいしょでさいごの、“ほんとうの願い”への答えで、応えなのでした。
以上、蛇足ながらも、最終話の解説でした!〃▽〃♥




