〈2.地雨〉
昨日、由佳利を家に送り届け帰宅すると、急に雨が降り出した。
『明日は学校もないし、ゆっくり休んで。また、連絡する』
それだけ伝えて、由佳利が家に入るのを見届けた。
その後の帰りのことは、あまり記憶がない。
ただ、何か特別に運動したわけでもないのに、体が鉛のように重かったことだけは覚えている。
由佳利にとっても、俺にとっても、今日が土曜ということは非常にありがたかった。
由佳利は今、何をしているのだろう?
一体、何を考えているのだろう?
>体調どう?
そう、一言だけメールを送った。
それから、俺はベットに寝転んで、昨日のことを思い出していた。
"千早つぐみ"とは誰なのか?
どうして由佳利が動揺したのか?
由佳利とどういう関係なのか?
わからないことばかりだった。
おそらく、中学時代の知り合いなのだろうということくらいは分かった。
高校に入ってからの知り合いなら、俺も知っているはずだからだ。
そういえば、ユミは由佳利と同じ中学だったはずだ。
そのことを思い出してユミに連絡を取ろうとしたけど、やめた。
というより、できなかった。
理由は、ユミの連絡先を知らなかったから。
俺とユミは、それなりに話はするが、あくまで由佳利つながりの友達だ。
個人で連絡を取り合うほどの仲でもない。
いくら気になるからとはいえ、我ながら冷静さが皆無だと思った。
ケータイを握りしめてゴロゴロしていると、急に音楽が鳴り出してびっくりした。
メールの送り主は郁哉だ。
>明日ひま?
直斗と遊びに行くんだけど、諒平も来る?
由佳利のことが心配だったけど、郁哉たちにも少し相談に乗って欲しかったから、俺はそれを承諾した。
それからというもの、土曜はこれといって何もせず、ただただ唸って過ごしただけだった。
日曜日。
俺たちは駅で待ち合わせ、ボーリング場へと向かっていた。
今日のメンバーは俺、郁哉、直斗の三人。
いわゆるいつものメンバーだ。
俺たちはクラスの中で一番仲がいい。
郁哉とは一年の時から同じクラスだったし、二年に上がった今も、郁哉と直斗が同じ中学出身で仲がいいことから、ほとんど毎日を三人でつるんでいる。
ちなみに高島直斗というのは、超絶イケメンのモテ男である。
派手で整った顔立ちとは裏腹なクールな性格が、より女子の人気を凄まじいものにしていた。
さっきから、街行く女性はみんな直斗を二度見している。
これも、いつものことだった。
多分、ただのイケメンならば俺も直斗を嫌っていたと思う。
しかし、直斗は女子にあまり興味がない。
もう少し詳しく言うと、とても一途なのだ。
それが、男子からも嫌われない理由だった。
そんな俺たちが遊びでいつも行くところ、それがボーリング場だった。
なぜかって、郁哉がボーリングが大好きだからだ。
マイシューズなんかも持っているくらいに。
以前『いつかはマイボールも買うつもりだ』と真顔で言っていた。
彼は今、そのためにバイトもしている。
この、駅前のボーリング場で…。
だから郁哉が移動の最中に荷物を持っていないのも、バイト先にマイシューズを置かせてもらっているからなのだ。
まったく、なんて要領のいいやつなんだろう。
俺と直斗は、そんな郁哉をよそに、貸し出しのシューズとボールを選んでいた。
ゲームが始まって少ししてから、直斗が俺に話を振った。
「諒平、なんかあった?やっぱ今日、ちょっと元気ないな」
直斗の優しさが身にしみた。
けれど、俺は二人に昨日のことを話すのをためらっていた。
あれは誰か第三者に相談してもいいことなんだろうか?
そんな疑問が頭をよぎったからだ。
「榎本のこと?」
郁哉の突然の言葉に、少し驚いた。
やっぱり、俺はわかりやすいんだと思う。
まぁ、郁哉はもともと観察力が優れているのだが。
「…うん」
自信のなさが、そのまま声に現れていた。
郁哉は軽々スペアをとって見せると、俺の隣に腰掛けた。
「今回は結構深刻そうだな」
「え?」
「ほら、お前の悩みって、いつもは世間的に考えてすごく小さいことばっかだから」
「郁哉、俺今けっこー参ってるんだけど。もうちょっとオブラートに包んでよ」
こいつは言動がストレートすぎるんだ。
「そうだよ。そんなにはっきり言ったら、諒平がかわいそうじゃん」
そこにプラスで直斗の天然ドSが加わるともう駄目。
俺の心は傷むばかりだ。
「まぁ、いい。こんな前振りはさておき、それで、どうしたんだよ?」
クールな中にも優しさが光る郁哉は、やっぱりかっこいいよ。
「由佳利のこと」
「うん」
それから俺は、昨日のことを全て二人に話した。
ボーリングはいつもより早めに切り上げ、ファミレスに移動して話の続きをした。
「千早つぐみ、ね…」
郁哉がボソリとつぶやいた。
「俺は聞いたことないな」
「俺も」
直斗も首を横に振った。
「でも、話を聞く限りだと、その千早つぐみってのと榎本との間に、何かあったってことなんだろうな」
「たぶん….」
一度下を向いた頭は、重くてなかなか上がらなかった。
「随分、自信ないみたいだな」
否定などできなかった。
「自信なんてないよ」
「ふーん?お前の彼女は完全無欠のスーパーレディじゃなかったっけ?」
今はその言葉が嘘にしか聞こえなかった。
「普段はさ、俺も舞い上がっちゃって、そんなことばっか言ってるけど、今回のことで実感させられた。由佳利もやっぱり人間だから…」
「まぁ、そういう彼女に対する認識の自信っていうかももちろんだけど、そうじゃなくて、お前はどうなの?」
郁哉の言っていることがよく分からなかった。
でも、次の言葉は容赦無く俺を突き刺した。
「お前は、榎本の彼氏としての自信、ちゃんと残ってんの?」
彼氏としての自信。
果たして俺には、それがあるのだろうか?
昨日の出来事で、あの一瞬で、消え失せてしまったのではないか?
そんな不安が身体中を駆け巡っていた。
俺には、yesと答える勇気がなかった。
「俺はあるよ」
直斗だった。
「俺はちゃんと、彼氏としての自信あるよ」
迷いのない、真っ直ぐな声だった。
「俺は彼女を守ってみせる。もちろん、泣かせることだってあると思う。でも、やっぱり彼女には笑顔でいて欲しいから、俺が笑顔にしたいから」
同じ気持ちだった。
ただ純粋に、その気持ちがあればよかったんだ。
俺は、どうしてそんな簡単なことに気づけなかったんだろう?
本当に、自分が嫌になる。
「諒平は?」
「俺も、由佳利を笑顔にしたい」
今度こそ、真っ直ぐな答えだった。
それからは、いつも通り、いや、いつも以上に明るく振舞った。
落ちていた気持ちを立て直すため。
明日、学校でユミに聞こう。
"千早つぐみ"という人物について。
そう決心した。
月曜日。
期末テストが終わって、夏休みまでは、残すところ二週間。
今週も来週も、授業は半日までとなっていた。
ユミにいつ聞こうか?
そのことばかりが、頭の中でグルグル渦巻く。
ユミは、というより、由佳利を含めたあの五人は、大抵いつも一緒にいる。
そのため、由佳利を除いてユミとだけ接触するのは、なかなかに難しいことだった。
しかし、二限目と三限目の間、俺は廊下でわずかな希望を見つける。
「ユミ!」
トイレから出てきたユミに、すかさず声をかけた。
「諒平くん⁉︎いきなり呼ばないでよ〜、びっくりしたじゃん」
周りに誰もいないことを確認する。
「今ひとり?由佳利は?」
一応、ユミ本人にも確認する。
「ひとりだけど。由佳利ならみんなと教室にいると思う。呼んでこようか?」
「いや、いい!ユミに聞きたいことがあったんだ!」
呼んでこようかと言われたことにびっくりして、俺は慌ててユミを引き止めた。
「聞きたいことって?由佳利のこと?」
「うん、まぁ、そんなとこ…」
「何?」
「ユミってさ、由佳利と同じ中学だよな?」
「そうだよ」
ユミは不思議そうな顔をしている。
そして俺は、声を少しだけ小さくした。
「ユミ、千早つぐみって人知ってる?」
驚いた顔だった。
やっぱり、知っているんだ。
ユミの表情で確信した。
「なんで?なんで諒平くんがその名前知ってるの…?」
ユミもやはり、いつも通りではなく、焦っているように見えた。
「たまたまだけど…」
「そうなんだ。その子は、中学の時のただのクラスメート」
明らかな嘘だった。
それくらい、俺にもわかった。
「それじゃ」
ユミはそう言って、さっと俺に背を向けた。
「え、ちょっと待って!」
「そうだ」
止めようとした俺を、ユミの言葉が遮った。
「今日、みんなで遊びに行くから。だから放課後、由佳利 借りるね」
ユミは笑顔でそう言った。
「あと、由佳利が本当に大事なら、その名前はもう忘れて」
静かな声が、鋭く刺さった。
地雨…しとしとと,何時間にもわたって降り続く雨。