〈1.氷雨〉
日々、生きていく中で、人と人との衝突は避けられません。
ほんの些細な感情が、大きな亀裂を生んでしまう。
人間関係はいとも容易く壊れてしまう。
しかし、人が生んだ亀裂や、壊れてしまった人間関係を治すのも、また人間なのだと思います。
この日も、俺はいつもと変わらない日常を過ごすのだと、これからも、それが当たり前なのだと、そう思っていた…。
授業終了のチャイムが鳴ると、途端に教室中がざわめきだす。
勉強からの解放感。
伸びをしたくなるのも、もっともだ。
しかし、そんな空気の中で、俺はせっせと荷物をカバンに詰め込んでいた。
なぜかって、そんなの決まっている。
今日の放課後に、期待で胸を膨らませていたからだ。
「諒平、もう帰んの?」
そんな俺に声をかける男が一人。
俺の前の席に座る、咲嶋郁哉だった。
「まぁな」
「ああ、今日もデートか」
郁哉はいつも飄々としていて、つかみどころがない。
今だって、本当なら嬉しさで緩んでしまいそうな口元を抑え、わざと余裕ぶって見せた俺を、全く意に介さない返答だった。
けど、郁哉はとても信頼のおけるいい友達だ。
「そ、そうだけど」
一度うろたえた心を立て直し、少し口を尖らせてそう答えてみる。
たったこれだけのやり取りを振り返っても、郁哉と俺のどちらの方が大人かだなんて、誰でもわかる話だろう。
郁哉はそんな俺を見て小さく笑った。
時折、郁哉のクールさが羨ましい。
「呼び止めて悪かった。むこう、もうお前のこと待ってんじゃない?」
その言葉にハッとする。
そうだ、俺は一体、何のために急いで帰る用意をしてたんだよ。
「そうだった!じゃあな、郁哉」
そうして郁哉に送り出され、俺は二つ隣の教室へと向かった。
このクラスも、まだ生徒が半数ほど残っていてざわついている。
俺は入り口に立って、その中から彼女を探した。
まぁ、探すと言っても大したことはない。
なにせ、彼女はいつだって多くの友達に囲まれて、楽しそうに笑っているのだから。
つまり、教室の中で一番大きな集団を探せば、たいてい彼女もそこにいるのだ。
俺は集団の一歩手前ほどまで足を進めて、彼女を呼んだ。
「由佳利」
肩の下まで伸びた黒髪が、さらさらと揺れる。
「諒平!」
さっきまでとは違う、俺に向けられた、特別な笑顔だった。
「ごめん、遅くなった」
そう言った俺に、いくつもの視線が集まっていた。
その内の一人が口を開く。
「いいなぁ、由佳利。今日もまた彼氏のお迎えかー」
いつも通りの会話だった。
「ほんと、羨ましいよね」
「私も早く彼氏ほしい!」
そう口々に話すのは、由佳利と仲の良いユミ、アヤコ、アカネ、ミホの女子四人組だ。
「大丈夫だよ、みんなも絶対いい人見つかるから」
そう言ってフォローする由佳利に、そうそうと相槌を打ったのはミホだった。
マイは確か、他校に中学からの彼氏がいるんだとか。
「そうかなぁ?」
あとの三人は、二人のフォローで少し立ち直った模様。
「そうだよね、前向きにいかないとね!」
そんな女子高生のやり取りが終わり、俺たちは教室を後にした。
「いつもごめんね」
由佳利が申し訳なさそうな顔をしていた。
「いや、いいよ。高校生なんてあんなもんだろ。それに、羨ましがられるのも案外悪くないしな」
俺は由佳利に笑いかけた。
「そうだね」
由佳利もそれに笑顔で返してくれた。
俺の彼女、榎本由佳利は素晴らしい。
綺麗に整った顔に、白い肌、健康的で細い体、さらさらの黒髪。
おまけに頭もそこそこ良く、人当たりの良さから友達も多い。
俺の自慢の彼女だ。
もっと言ってしまえば、こんな完全無欠の彼女が、俺と付き合ってること自体不思議に思える。
そして、自分でそんなことを思いながら、俺は時折一人で落ち込む。
なんて情けないんだろう。
でも、由佳利はこんな俺のことが好きだと言ってくれた。
もちろん俺も由佳利が大好きだ。
とても大切に思っている。
なくてはならない存在なんだ。
それでは、話を日常に戻そうか。
俺たちは玄関で靴を履き替え、外に出たところでもう一度落ちあった。
俺が自然と差し出した手に、由佳利も自分の手を合わせて、俺たちは駅の方面へと歩き出す。
「放課後が楽しみすぎて、今日のホームルーム、全然話が耳に入ってこなかった」
そう話す彼女は本当に楽しそうに笑っている。
もちろん俺も、そんな彼女を見ているのが楽しくて、いつの間にか自然と笑顔になっていた。
今日の俺たちの目的地は、昨日オープンした駅前のカフェだ。
どうも、開店前からいくつかの雑誌に取り上げられていたらしく、由佳利とずっと行く約束をしていた。
由佳利はスイーツが大好きだし、俺も甘いものは好きだから、食べ物の好みが似ている。
だから、ケーキが美味しいと聞いて、俺もそのカフェのことは気になっていたんだ。
本当は、開店日の昨日に行きたかった。
でも、昨日は一学期の期末テスト真っ只中で、お互いカフェでゆったりしている暇などなかった。(特に俺が…)
しかし、その期末テストも今日で終わり、ようやくお目当てのカフェに行くことができる。
俺たちは久々に他愛もない会話をして、カフェにあっという間に到着した。
ドアを開けると、カランコロンとかわいらしい鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
鈴の音を聞いた店員が清々しい笑顔で出てくる。
「お二人様でしょうか?」
「はい」
「わかりました。すぐにご案内いたします」
それを聞いて、俺と由佳利は同時にホッと息を吐いた。
お互いそれに驚いて目を見合わせ、小さく笑う。
「こちらのお席にどうぞ」
店員に案内されたのは、窓際の一番奥の席。
お互い向き合う形でイスに座った。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声かけください」
店員はにこやかに一例すると、また店の奥へと入って行った。
由佳利がメニューで口元を覆って、クスクスと笑う。
俺も目立たないように小さく笑っていた。
「びっくりしちゃった」
「うん、俺も」
「お店に入った時にね、席が空いてるか探して見たんだけど見当たらなくて、入れないかと思ってたの」
「うん」
「でも、店員さんがすぐに案内するって言ったから、安心しちゃって」
「俺もだよ。全く同んなじことしてた」
「本当?」
「うん」
「おもしろいね。長く一緒にいると仕草が似てくるっていうけど、これもそうなのかな?もしそうだとしたら、ちょっと嬉しい」
「俺も」
俺たちはもう一度笑いあった。
それからランチのセットメニューを頼んで、存分に頬張った。
「このドリア美味いよ!食べる?」
「うん、ちょうだい。私のパスタと交換ね」
最後に出てきたデザートも少しずつ交換して、俺たちは昼を済ませ、店を出た。
「小物もオシャレで、ご飯も美味しかったし、すごくいいお店だったね!」
「うん、ケーキも美味かった」
「また来よう?」
「そうだな」
「やった!」
由佳利は俺といると、いつもよりも少し子供っぽくなる。
いつもは本当にしっかりしていて、だれからも頼りにされているような由佳利がだ。
これも、彼氏の特権なんだろう。
こういう時、嬉しさで口元が緩んでしまう。
「どうしたの?」
ニヤニヤしているのが由佳利にばれた。
彼女が俺の顔を覗き込む。
「なーんでもないよ」
「気になる!」
「ほら、あそこのベンチ座ろ」
俺のカバンをグイグイ引っ張る彼女の頭を、ポンポンと軽く叩いて、はぐらかす。
ベンチに腰掛けた俺たちは、それからしばらく話をして、食後の休憩をとった。
それまでどんな話をしていたっけ?
あの一瞬で、俺はそこまでの会話をいとも容易く忘れてしまった。
些細だけど、俺にとってそれは、それだけ大きな事だったんだ。
どういう話の流れだったかで、なぜか俺たちは由佳利のケータイでアドレス帳を眺めていた。
「由佳利も五十音順にしてるんだ」
「うん。グループ分けにしちゃうと、どうしても学校のグループばっかり多くなるから」
「確かにそうだよなー。これは?足立祥子」
「それは、中学の時の友達」
「じゃあこれも?小川徹」
「うん。それも」
「あ、菊池、俺こいつ知ってる!」
「そうなの?」
「塾が一緒だったんだ」
「へー!」
そんな風にして、俺たちはどんどん画面をスクロールさせた。
由佳利の昔の話も聞けたし、俺と由佳利との思わぬつながりも知ることができたから、こんな他愛もない話でも、十分に楽しかった。
「これはユミだな。あ、これも知らない…」
でも、この名前が、由佳利の表情に影を落とした。
「千早つぐみ」
さっきまでのように、すぐに返事が返ってこなくなり、俺は不思議に思って、うつむく彼女を覗き込む。
そして、驚いた。
某然としているような、今にも泣き出しそうな、今にも怒り出しそうな、いや、違うか?
言葉なんかじゃ到底言い表せない、今までに見たことのない由佳利がそこにいた。
それはきっと、とてつもなく激しい動揺だったのだと思う。
由佳利は、俺には理解できない感情を必死に堪えているようだった。
こんな時、俺は一体どうしたらいいんだろう。
手探りの言動だった。
「由佳利、体調悪くなった?」
今の俺には、このくらいしか頭に浮かんでこなかった。
名前を呼ばれたからだろう、由佳利はハッとして俺を見た。
いつも通りに色白というわけではない、真っ青な顔だった。
「…やっぱり、体調悪そうだ。今日はもう帰ろう」
「……うん」
それは、やっとの思いで絞り出された声だった。
「送ってく」
俺はそっと由佳利の手を引いた。
由佳利の腕が、いつもよりも細く感じられた。
だんだんと雲が増えてきていた。
雨が降り出しそうだった。
※氷雨…夏の初めに降る雹のこと。