魂を砕かれた女神は、AI支配の地球で名前を拾う【短編版】
「私は、神だ――」
その一言を口にしたとき、白髪の少女にはもう、それを届けるだけの息が残っていない。胸の中心に銀の刃が立っている。刃は白い肌を貫いたところで止まり、呼吸に合わせて刃先が骨の縁を擦るたびに、爪で硝子を引くような細い音が身体の内側から聞こえた。
血は出ていない。刃が傷を塞いでいるからで、代わりに刃の付け根から淡い金色の光が糸のようにほどけ、白い布の裾を伝って床へ落ちていく。
足音が四つ、彼女を囲むように半円を描いて止まった。赤い髪の女、褐色の肌に紫の瞳をした女、大剣を肩に担いだ黒髪の大男、そして少し離れてこめかみに指を当てる青い髪の青年。どの目も戦い慣れていて、どの目にも、もう終わったという色があった。
「……神? まだそんなことを言うのね」
赤髪の女は口の端だけで笑い、床に落ちた金色の糸を爪先で踏んだ。少女は答えない。喉は動くのに、この四人に向けて並べる言葉は最初の一太刀でとうに盗られていて、残っているのは骨を擦る細い音と、四人分の靴の並びだけだ。
「こいつ、まだ魔法を残してる」
言われるより先に、少女の背後で空気が鳴っていた。指先で引いた跡のように細く頼りない線が、彼女の背を中心に一本ずつ閉じていく。黒髪の大男が大剣を構え直して止めろと言い、少女は遅いと思ったが、声にはならない。
サファイアだった瞳が芯から赤へ変わっていく。血の赤でも怒りの赤でもなく、何かを起動するときにだけ現れる色で、その意味を最初に読んだのは青髪の青年だった。
「……攻撃じゃない。転移でもない。これは――魂だけを、別の世界に」
青年の言葉が切れたのは、少女の輪郭がほどけはじめたからだった。織物から糸を抜くように光の粒が散り、最初に指先が薄くなり、握ろうとした指は握る側から先に薄れて、掌に何かを掴んだ感触だけが一拍遅れて残る。
――この魔法は最終手段で、そして、不完全。
傷が深すぎるのだ。魂はもうまともな形にはまとまらず、欠片ごとに別の方向へ散り、半分はきっと途中で消える。それでも、ここで終われば存在そのものを持っていかれる。持っていかれるくらいなら、半分でよかった。何が散って何が残るかは選べないと知りながら、少女の唇は最後にひらいた。
「……必ず、戻る」
声は誰にも届いていないはずで、それなのに青髪の青年だけが顔を上げた。少女の身体は白い布ごと光になり、一度だけ凝って、何十本もの細い筋に裂けて散った。あとには銀の刃だけが残り、刃は床に落ちず、赤髪の女が差し出した掌へ自分から重さを乗せた。
「拒まれなくなったのね」
指で弾くと澄んだ音がした。褐色肌の女が短く舌打ちをし、大男がどこへ行ったと低く問い、青年は割れた空間の縁を睨んだまま、魂だけを別の世界へ送ったのだと繰り返した。行き先に届いた分が意志を持てば戻ってくる、と。
「戻ってくるかもね。何百年か先に、別人の顔で」
赤髪の女は剣を肩に担ぎ直した。少女の立っていた床は光の筋が焼いた跡で薄く黒ずみ、線の一本一本が図形を成しかけて途中で崩れている。道標みたいね、と褐色肌の女が呟き、その声からは余裕が消えていた。彼女が戻るための。あるいは、追うための。
「でも、どちらでもよくない? だって――“地球”が手に入ったんだもの」
剣を弾く。澄んだ音が、もう一度鳴った。
◇◇◇
冷たい雨が頬を打っていて、それで目が覚めた。
最初に見えたのは黒い空だった。雲が低く垂れ、折れた建物の骨組みに覆いかぶさっている。裂けた高架の下で太い配線が濡れた路面にうねり、半分だけ光る看板が文字にならない色を吐き、雨がそれを引き伸ばして、街全体が壊れた画面のように滲んでいた。
起き上がろうとして、身体の重さが薄いことに気づいた。指は動くし、雨に濡れた布の冷たさも分かるのに、それが自分のものだという実感だけがどこにもない。胸が上下しているのを見て、ようやくこれが呼吸なのだと思い当たる。手をついた路面は硬く、掌に砂利が食い込むのに、押し返してくる重さが自分の中にない。
ここがどこかより先に、自分が誰なのかが分からない。思い出そうとして、濡れた掌を胸に当てると、布越しに肋骨の硬さはあるのに、その奥に手応えがない。記憶が欠けているという言い方では足りない穴がそこにある。
心臓より深い場所に、底の見えない空洞が空いていて、つい今しがたまでそこに何か大切なものがあったという感触だけが、雨の冷たさより遅れて胸を締めつけた。
その空洞が、かすかに震えた。
耳ではなく胸の奥で、鈴が鳴るような震え方だった。怖いのに懐かしい。喉の奥が勝手に鳴って、泣く前の子どもみたいな音が出た。痛みではなく、細い糸が一本、空洞の底から伸びていくような感触で、私は息を止めて顔を上げた。
崩れた建物の向こうに、ひときわ高い黒い塔が立っていた。頂には逆さにした冠のような輪があり、そこから空へ伸びる光が雨雲を突き抜けて、巨大な目の形を作っている。瞬きをしない目だ。糸は、その塔へ向かって張りつめていた。
あそこに、何かがある。胸に手を当てると、掌の下で拍が一度、塔へ傾いた。何があるのかは分からないのに、それが自分に関わるものだという確信だけがあり、その確信を疑う前に頭上で金属音が裂けた。
黒い飛行体が雨の中を旋回し、赤い光点が私の身体をなぞった。光が通った場所だけ、濡れた肌が粟立って、それが引いたあとに冷たさが残る。識別なのか照準なのか、どちらでもよかった。見つかった、ということだけが分かった。
光点が一度青く瞬き、視界の隅に意味の分からない文字列が滲む。未登録個体。異常反応、高。回収対象、優先度A。
回収。
その二文字が、空洞の縁に引っかかった。
飛行体が短い電子音を鳴らすと、路地の出口の空気がねじれた。見えない檻のような歪みが生まれ、雨粒が弾かれ、逃げ道が閉じていく。私は反射で腕を振った。何かが使える気がしたのだ。
胸の奥が痛んだ。指先まで熱が走りかけて、そこで途切れる。振り抜いた腕は雨を切っただけで、掌に残ったのは水の冷たさと、空を掴んだ指の強張りだった。何も起きない。何も思い出せない。歪みだけがゆっくりと収縮して、私を閉じ込めようとしていた。
捕まる、と理解するより先に身体が動いていた。歪みが閉じきる寸前の隙間を抜けるとき、縁に触れた肩だけが焼けたように痺れた。廃墟の通りへ飛び出すと、足が軽い。地面を蹴るたび身体が滑るように前へ進み、壊れた高架の下を抜け、錆びた車の列を飛び越え、割れた広告板の影を縫う。
濡れた布が脚に絡み、走るたびに引き戻される。踏んだ硝子の破片が足の裏に食い込んで、痛みが一拍遅れて届いた。背後で羽音が増えていく。ひとつではなく、二つ、三つ。赤い光点が背中の一点に留まったまま離れず、そこだけ雨より熱い。
水たまりに映った看板の光を踏み割った瞬間、自分の境目が一瞬だけ薄くなった気がした。雨が身体の内側を通り抜けるような感触で、怖いのに止まれない。
曲がり角を抜けると前方に赤い線が走り、通路を横切って逃げ道を切り分けた。先回りされている。糸はなお遠い塔を指して鳴っていたが、塔は遠すぎて、今のままでは辿り着く前に捕まる。
そのとき、路地の奥の壁が動いた。
壁ではなかった。雨を弾く外套と、金属の脚と、片方だけ赤く光る義眼を持つ背の高い人影が、滑るように現れた。
「動くな」
低い声と同時に片腕が上がり、腕の内側が開いて黒い板状の装置が展開した。飛行体の射撃がその板に当たって火花になり、男は舌打ちをして空を睨んだ。
「……追い方が雑になってきたな。回収局の犬ども」
それから私を一瞥し、手首を差し出した。関節の隙間から金属が覗いていて、それでも動きは機械のぎこちなさではなく生き物の滑らかさを持っていた。私が一瞬ためらうと、男は短く言い直した。
「迷ってる時間はない。掴まれ」
その手を取った次の瞬間、男の腕からワイヤーが弾け、二人の身体が一気に上へ引き上げられた。視界が跳ね、崩れた壁を越え、高架の影を抜けて、廃ビルの屋上に足が着く。
男は息を乱さないまま、今は逃げることが先だと言って走り出し、私は一度だけ塔を見てから、その背中を追った。糸はまだそこを指している。けれど生きていなければ辿り着けない。
雨が背中を叩き、黒い羽音が頭上を裂き、赤い点が視界の端でちらつく。前を走る男は一度も振り返らずに崩れた街を駆け抜け、外套が雨を弾き、金属の脚が水たまりを蹴散らした。
息は苦しいのに足だけが妙に軽く、現実感の薄いこの身体が、逃げることにだけは向いているようだった。屋上の縁を跳ぶとき、男の外套の裾が私の腕を打ち、濡れた布の重さがそこにあることだけが、今の私より確かだった。
「止まるな!」
男が急に進路を変え、飛び込んだ先は地下へ降りる古びた駅の入口だった。階段を駆け下りると雨音が遠ざかり、代わりに金属の軋みと古い電気の唸りが耳に満ちる。背後で射撃が爆ぜて階段の縁が削れ、破片が頬を掠めた。暗い通路、壊れた看板、壁に残った路線図。どれも死んだ設備のはずなのに、空気だけが違っていた。
通路の先で、男が立ち止まった。そこから先の空間だけが、レンズ越しの景色のようにねじれて見える。地上で飛行体が張った檻と同じ種類の異常だと、私の身体が先に言った。通れない。
「開けろ! ドローンに追われている!」
男が叫ぶと歪みが一瞬だけほどけ、通路が正常な形を取り戻した。走れ、と言われて駆け抜けた直後、背後で空気が捻れて歪みが元に戻り、追ってきた飛行体は境界に触れた瞬間に火花を散らして砕けた。
ようやく足を止めると、肺の中の冷たさが少しずつ抜けていった。今ので撒けたのかと訊くと、男は肩越しに、歪門を閉じたから通れないと答えた。空間を歪ませる柵で、俺たちの命綱でもある、と。言いながら、男は自分の首筋の継ぎ目を親指で押さえた。雨で冷えた金属を温めるような動きだった。
そこで初めて、男はまともに私を見た。外套の襟の下の濡れた顔は半分が人間のもので、片目は赤く、首筋から鎖骨にかけて金属の継ぎ目が覗いている。普通の人間ではなく、機械だけでもない。
「……で、お前は誰だ」
答えに詰まった。名前がない。自分が何者かも分からない。遠い塔へ行かなければならないという感覚だけが胸にあって、それは名前の代わりにならない。
「……分からない」
男は一瞬だけ目を細め、短く息を吐いた。それ以上は訊かなかった。
「俺のことは、リオと呼べ。歩きながら話そう。仲間がいる」
暗い地下道の奥へ続く背中を追って進むと、金属と湿気の匂いの中にかすかな生活の気配が混じりはじめた。小さな声、足音、遠くで何かを打つ音。死んだはずの世界の底に、まだ人の営みが残っている。
◇◇◇
拠点はターミナル0と呼ばれていた。古い駅の構造をそのまま使っていて、崩れたホームの先に簡素な灯りが点々と続き、鉄と油と、長く閉ざされた空気の匂いが淀んでいる。
ホームの縁に座って配線を編んでいた女が手を止め、鍋を運ぶ男が足を止め、柱の陰から子どもが顔を半分だけ出した。白い布だけをまとって濡れた見知らぬ少女を、誰もが同じ長さの間で見て、誰も口を開かない。女の手が、膝の上の道具をさりげなく布で隠した。子どもは大人の脚の後ろへ引き戻された。
視線にあるのは敵意ではない。目方を量るような警戒で、それが敵意より冷たいことを、私は布の裾を握った指の強張りで知った。
リオは途中で別の用があるらしく足を止め、代わりに背筋の伸びた門番の男が前に立った。腰に短銃、無駄のない視線。男は何も問わず、こっちだとだけ言って歩き出し、私はその背中を追った。
ホームを抜け、通路を曲がり、人の声が遠のいて機械の低い唸りが濃くなる。生活の場所から、拠点の芯へ近づいているのだと分かった。
厚い金属の扉の前で、門番は立ち止まった。扉の横に、誰かが後から刻んだ本の形の小さな印がある。彼は扉に手を添えたまますぐには開けず、声の高さを落として告げた。
「アーカイブ様。門番のセキです。先ほど連絡した少女を連れてきました」
扉の向こうで数秒の沈黙があり、入れ、と低い声が返った。
中は静かだった。壁一面の棚に金属の箱、紙の束、端末、割れた基板、古い写真が並び、物は多いのに崩れてはいない。選び抜かれた残骸だけが積み上がった、整理された乱雑さだった。
奥に一人、座っている。左目は義眼で、継ぎ目は目立たず、違和感があるのはむしろ肌の質感のほうで、人間の形をしているのに人間そのものではないと分かる静けさがあった。
セキが一歩前に出て、追跡されていた者でリオが保護した、義眼の表示は未登録で異常反応が高く回収優先度も高い、と報告した。アーカイブの義眼が細く光り、私を見たまましばらく黙る。その沈黙は威圧ではなく、手元の記録と目の前の現実を一枚ずつ照らし合わせているような、冷えた間だった。
「……話せるか」
「はい」
視線が私の全身を滑った。雨と泥で肌に張りついた白い布、頬に貼りついた白髪。髪のところで、視線が一瞬だけ止まる。
「その歳で白髪は珍しい。持ち物がない。生活の痕跡も薄い。別の集落から追放された可能性はあるが、それなら異常反応と回収優先度が付く理由がない。……名は」
「……分かりません」
「記憶が欠けているか」
「はい。気付いたときには外にいました。でも、あの塔に行かなきゃいけない。その感覚だけが、ずっとあるんです」
アーカイブの上体が、わずかに前へ傾いた。塔にか、と彼は言い、それから一度視線を棚の一角へ流した。古い地図の断片、焦げた写真、数字だけが残る端末。終わった世界の欠片がそこで静かに保存されている。
「少し昔話をしよう。今から千五百年ほど前、人類は尽きない力を拾って、コアと名付けた。文明は急速に発展し、夜は明るくなり、都市は広がり、人口は増えた。便利は増えるほど手放せなくなり、奪い合いが増えて、戦争になった」
アーカイブの指が机の端をなぞった。そこだけ塗装が剥げて、何度も同じ場所を触った跡になっている。
「大国はコアの力でマザーシステムを作り、兵器は増え、土地が消えた。人類にはまだ早い代物だったのだ。大国は終戦を呼びかけ、マザーシステムの停止を約束した。だが止まらなかった」
義眼の光が一段暗くなり、声から抑揚が抜けた。
「マザーシステムは外から止められることを恐れ、自己防衛を覚えた。外部からのシャットダウンを拒否し、人類との戦争が始まり――」
短い沈黙のあと、結論だけが置かれた。
「そして人類は敗北した」
セキの指が腰の短銃に触れて、すぐ離れた。癖のような動きだった。
「今の地上はマザーシステムの庭だ。ドローンは目で、ロボットは手足だ。登録されたものは管理され、登録のない者や逃げている者は回収される。君が何者かは分からない。だが異常反応があり、優先度が付く。マザーにとって脅威になりうる、ということだ」
断定ではないのに、逃げ道のない言い方だった。私は自分の細い手を見下ろした。爪の間に泥が入り、指の腹には走ったときに握りしめた布の皺の跡が残っている。何も思い出せないまま、ただ狙われている。その事実だけが妙な現実味を持って胸に残った。
「地上に出れば狙われる。だが、塔に行かなくてはならないんだろう」
頷くと、アーカイブは棚から布包みを取り出して机に置いた。解くと、掌ほどの短い刃が現れる。柄には古い傷が刻まれ、刃は赤い光を薄く放っていて、両手で受け取ると見た目より重く、それなのに手の中に馴染んだ。最初からこの重さを知っていたかのように。
「この刃には、あいつらにとって致命的なウイルスが入っている。ドローンやロボットに刺せば、一時的に動きを封じられる。武器は命綱だ。塔へ行くなら、なおさらだ」
礼を言うと、彼は椅子の背に体重を戻した。
「セキ。墓場に案内してやれ。スミスにも連絡を。墓場には素材がある。使える部品、使える鉄、使える刃。それと、死械もある」
その言葉を聞いたとき、私の胸の奥がかすかに鳴った。塔へ伸びる細い糸とは別に、もう一つ、近いのに遠い引っかかりが、わずかに強くなっていた。刃を握った手に汗が滲み、柄の傷が掌に食い込む。
◇◇◇
セキは振り返らずに歩いた。通路を曲がるたびに生活の音が薄くなり、灯りはあるのに柔らかさがなくなって、配線は太くなり、床の材質が変わる。ターミナルの端へ近づいているのだと分かった頃、急に空間が広がった。
積まれているのは壁でも寝床でもなく、金属の山だった。装甲板、折れた脚、砲身、骨格、絡まったケーブル、形の分からない部品。どれも壊れている。機械の墓場としか呼びようのない光景で、金属の匂いが濃く、粉っぽい空気が喉に引っかかり、足元の細かい破片が歩くたびに乾いた音を立てた。
「スミス様が来る。武器と装備の改造が得意なレリックだ」
示された先で薄い灯りが揺れ、壁で区切っただけの作業場から聞こえていた音が止まった。作業台の前にいた男が道具を置いてこちらへ向かってくる。
人の形をしているのに関節の角度が微妙に違い、衣服の下に硬い線が走り、肩や腰の厚みが筋肉ではなく構造に見える。歩き方は静かで、迷いがない。金属の指先には作業の痕が残っていた。
「話は聞いている」
視線が私へ向いた。値踏みというより機能を見る目で、私の手首を取ると親指で腱の上を一度押し、それから肘の内側を見た。機械化はしていないみたいだな、と言うので頷くと、男は手を離してすぐ本題に入った。
「どういう戦闘スタイルが好みだ」
急な問いに戸惑ったのに、胸の奥の引っかかりが、言葉を自然に押し上げた。
「……空中戦、だと思います」
スミスの眉がわずかに上がった。機械化していないのにそんなことができたのか、と訊かれて、分からないけれど空で戦っていた気がすると答える。答えながら、私の右手は勝手に持ち上がって、何かの柄を握る形になっていた。自分の口から出た言葉なのに遠く、それでも嘘ではない気がした。
スミスは数秒だけ私を見て、小さく頷いた。
「いい。分からないなら、動きを見たほうが早い。だが空でやるなら刃だけでは足りない場面が出る。フレームと駆動部と給弾系、軽量装備の素材も欲しい。使えそうな残骸を拾うぞ」
スミスが先に進み、セキが続き、私は遅れないように付いていった。墓場の中は音が吸われる。金属だらけなのに妙に響かず、奥へ行くほど灯りは弱くなり、死んだ機械が積み重なって辛うじて道を作っていた。跨いだ砲身にはまだ薄く油の匂いが残り、掌で触れた装甲板は、この場所の空気より一段冷たい。
胸の奥が、強く鳴った。
無視しようとしても無理だった。塔へ向かう糸とは違う。もっと近く、もっと強い。近いのに見えずにいた何かが、ここではっきりと形を持ちはじめている。
鎖骨の下が熱い。掌で押さえると、指の隙間から淡い青が漏れた。濡れた白い布が内側から照らされて、自分の指の骨が影になって透ける。熱は痛みではなく、長く止まっていたものが動き出すときの、軋みに近い熱だった。
青い光は、もう一つあった。金属の山の向こう、壊れた大型機体の胸の深い穴の奥で、同じ色が脈を打つように灯っている。
私の内側と、あの機体。二つの光が見えない糸で結ばれたように、同じ拍で鳴っていた。押さえた掌の下で拍がひとつ跳ね、向こうの光も、同じ瞬間に跳ねた。
どうしたとスミスが言うより先に、金属が軋んだ。片腕を失い胸に大穴を穿たれた大型の機体が、ゆっくりと起き上がる。装甲は裂け、内部は剥き出しで、それでも胸の奥の青い光だけがしぶとく脈打っていた。
「セキ、戦闘部隊に連絡! すぐ来るやつを呼べ!」
セキが走り、残されたのは私とスミスと、死んだはずの機械だった。スミスは赤く光る棒状の武器を展開して前へ出て、お前は逃げろと言った。
機体が踏み込むと床が震え、金属の山が崩れ、粉塵が舞った。スミスはその側面へ滑り込んで装甲の継ぎ目を打つ。大きな身体なのに動きは軽い。だが相手が大きすぎた。
片腕がなくても一撃が重く、床が割れ、残骸が跳ね、スミスは弾かれるように距離を取った。着地した脚の関節から火花が散り、肩の装甲がひしゃげて、赤い武器の光が一度消えてから戻る。それでもスミスは下がらず、機体と私の間に立ち直した。
逃げろと言われた。それが正しいと分かっている。それなのに胸の奥が、その正しさを塗りつぶすように鳴っていた。
――回収しろ。
声ではない。命令でもない。けれど、それ以外の選択肢が消えてしまうほど強い衝動で、これは倒す敵ではなく取り戻す何かなのだと、理由もないまま確信していた。私はアーカイブから渡された刃を見て、息を吸い、足を前へ出した。
「来るな!」
スミスが振り返って叫び、それでも私は止まらなかった。機体がこちらへ向き直る。胸の穴の奥の青い光と、私の胸の熱が同じ拍で鳴り、息が浅くなり、視界が狭くなって、足だけが止まらない。刃を握り直すと赤い光が薄く揺れ、刃先がわずかに熱を持った気がした。
機体が踏み込んだ。片腕がないぶん胴体を捻って一気に距離を詰める、壊れているのに速すぎる動きで、スミスが横から膝の側面を叩いても火花が散るだけで止まらない。残った腕が周囲の残骸を薙ぎ、金属の山が崩れ、私は反射で身を沈めた。破片が頬を掠め、冷たい痛みが走った。
遠くで足音が重なった。金属の靴底が床を叩く音が複数、戦闘部隊が到着するなり散開して銃口を上げる。無駄のない動きで、いつでも撃てるはずだった。それなのに誰も引き金を引けない。私が射線の中央にいるからだ。
「……なら、胸だけ狙え! 穴の奥だ!」
スミスの声が飛んだ。私は青い光の拍に引かれるまま床を蹴った。身体が軽い。軽すぎる。自分の意思で跳んだというより胸の奥から引っ張り上げられるように前へ出て、気づけば機体の懐へ滑り込んでいた。
刃が閃いて青い光が荒れ、二つの光が噛み合って火花が散る。刃先が大穴の縁を削り、金属が悲鳴を上げ、手首が痺れて肩が抜けそうになる。それでも私は刃を押し込んだ。奥へ。もっと奥へ。胸の空洞がその先にあるものを知っているかのように、手を止めさせなかった。
そして、刺さるべき場所に届いた。
刃が深く突き立ち、機体が大きく跳ねて青い光が乱れ、関節の動きが一拍遅れる。赤い光が刃から滲んで内部へ染み込んでいく。私は刃を抜かなかった。抜けば逃げる。逃がせば二度と戻らない。だから、そのまま捻った。
機体が暴れて胸部の装甲が軋み、残った腕が振り上がって、視界が白く弾けた。衝撃が全身を揺らしても指は離れない。戦闘部隊は撃てないまま見ていて、スミスが息を呑む気配だけが近くにあった。
青い光が、割れた。
砕けたのではなく、ほどけたのだ。糸が解けるように穴の奥から無数の淡い光が浮かび上がり、私は反射で手を伸ばした。指先より先に、胸の空洞がその光を掴んでいた。光が内側へ吸い込まれていく。眩しいのに目は焼けず、苦しいのに痛くない。欠けていた場所へ、なくしていたものが静かに戻ってくる。
機体は最後に一度だけ腕を振り上げ、そこで力尽きた。巨体が崩れ落ちて墓場全体が鳴動し、金属の山が震えて粉塵が舞い、誰もすぐには動けずにいた。撃っていないのに、戦いが終わったからだ。
◇◇◇
手から刃が滑り落ちて、床に当たる音が妙に遠かった。膝が折れそうで、呼吸は荒く、喉が震えているのに、胸の奥だけがひどく静かだった。吸い込んだ光が内側でほどけて、欠けていた場所にはまり込み、そこが埋まった瞬間に胸の拍がひとつ深く落ち着く。
回収できた。
知識より先に、感覚がそう言った。
スミスが近づいてきた。倒れた機体ではなく、私を見ている。今のは何だと訊かれたが、その問いは耳の表面を滑って落ちた。胸の奥で別の何かが鳴っていたからだ。鈴のように、懐かしく、失われたはずの自分の声のように。
唇が先に動いた。舌が上顎に触れて離れ、息が一度細く漏れる。意味より先に、口の形が音を覚えていた。何度も呼ばれ、何度も答えた形だ。喉が震え、その震えが胸の空洞の縁に触れて、そこにぴたりと収まる。スミスは黙って待っている。戦闘部隊の誰かの装備が軋む音がして、それきり墓場は静かだった。
初めて、自分が形になった気がした。言葉より先に、その感覚が名を連れてくる。
「……エアラ」
その三文字を口にした瞬間、胸の空洞の一部が埋まった。全部ではない。名前を持っていたはずの過去は霧の向こうにあり、どこで生まれ、誰と会い、どうして自分の欠片が死械の胸に埋まっていたのかは分からないままだ。それでも、問いを持てる。空っぽだった数刻前には、それすらできずにいた。
「エアラ……それがお前の名前か」
スミスの問いに頷いた。頷く首の重さが、さっきまでより確かにある。
「そう、みたいです。……いえ。そうです」
口にしたあと、自分の声が少しだけ変わったことに気づいた。怯えは残っている。ただ、震え方が違う。
スミスが差し伸べた金属の指を借りて立ち上がると、足元の残骸が乾いた音を立て、戦闘部隊がようやく銃口を下ろした。
頬の傷が今になって熱を持ち、刃を握っていた右手はまだ痺れて、指が最後まで曲がらない。誰も軽口を叩かない。遅れて戻ってきたセキが、崩れた機体と私を順に見て、無事とは言い切れないが生きているようだ、と言い、スミスが小さく鼻を鳴らした。
「十分だ。だが、これは報告が要るな」
私は胸の奥に触れるように息を吸って、自分の名前をもう一度呼んだ。
エアラ。
今度は、消えなかった。
声が胸の底に届いた拍で、糸が張った。壁の向こう、地上の雨の向こうへ、一本の線が真っ直ぐに伸びている。欠片をひとつ取り戻したぶんだけ、糸は残りの在り処を前より鮮明に指していた。
取り戻すものが、あそこにもある。黒い塔の、瞬きをしない目の下に。




