第2話 氷点下の同居人
妖魔は、人の心から生まれる。
そう言われるようになったのは、ここ数十年のことだ。
それまでは、妖怪だの、悪魔だの、怪異だの、土地神だの、国や文化によって好き勝手に名前をつけられていた。正体のわからないものに名前をつけることで、人は安心しようとする習性にあるらしい。
でも名前をつけたところで、そいつらがいなくなるわけじゃない。
夜道で人を攫うもの。
山に迷い込んだ子供を二度と帰さないもの。
海で船を沈めるもの。
そして街の中で、人間のふりをして生きているもの。
妖魔は、ずっと人間の隣にいた。
僕たちが知らなかっただけで。
いや正確には、知らないふりをしてきただけなのかもしれない。
だって考えてみてほしい。
もし妖魔が、人の心から生まれるのだとしたら。
もし妖魔が、人間と同じものを根に持っている存在なのだとしたら。
僕たちは一体、何を討伐していることになるのだろう。
悪か。
災害か。
それとも、人間そのものの影か。
そういうことを考えるたびに、僕はいつも決まって同じ場所に戻ってくる。
マイナス十八度の部屋。
白い息がこぼれるクーラールーム。
そこに座り込んで、氷おにぎりを両手で抱えながら、ゲーム画面に向かって文句を言っている雪女の姿に。
「スバル、回復」
「自分でやってよ」
「手がふさがってる」
「氷おにぎり食べてるだけじゃん」
「今、人生で大事な瞬間だから」
「ゲームの中の話でしょ」
「ゲームの中の人生も人生だよ」
真顔でそんなことを言う彼女を見ていると、世界魔物対策討伐機関だの、妖魔対策法だの、A級認定個体だの、そういう物騒な言葉が全部どうでもよくなってくる。
少なくとも、今この瞬間だけは。
「はいはい。回復ね」
僕はコントローラーの片方を握り直し、彼女のキャラクターに回復魔法を飛ばした。
画面の中では、やたら重装備の女騎士が巨大なドラゴンに踏み潰されかけている。ちなみにその女騎士の名前は「ゆきおんな最強」。たまが自分でつけた名前だ。
最強って名前をつけたわりに、プレイはかなり雑だった。
「あ、死んだ」
「回復したじゃん」
「足りなかった」
「足りなかったんじゃなくて避けてないんだよ」
「避けるの苦手」
「じゃあなんで前衛キャラ使ってるの?」
「かっこいいから」
そう言って、たまは氷おにぎりをまた一口かじった。
バリッ、という音がした。
普通の人間なら歯が欠けそうな音だった。
いや、たぶん欠ける。僕が同じことをやったら歯医者に行く羽目になる。そもそも僕は氷をおにぎりみたいに丸めて食べるという発想自体がよくわからない。
氷おにぎり。
たまの好物。
作り方は単純だ。綺麗な水を専用の型に入れて、冷凍する。以上。
それなのに彼女は、なぜかこれを「料理」と呼ぶ。
「次は塩味がいい」
「氷に塩かけるの?」
「違う。海水っぽいやつ」
「それ、ほぼただのしょっぱい氷じゃん」
「しょっぱい氷おにぎり」
「名前を変えただけだろ」
「味が違う」
たまはやけに真剣だった。
僕はため息をついた。白い息が目の前でふわっと広がり、そのまま冷気の中に溶けていく。
クーラールームにいると、季節感が狂う。
外は七月だ。夏だ。アスファルトは焼けているし、蝉はうるさいし、ニュースでは連日、観測史上最高気温だの、熱中症警戒アラートだの、そういう言葉ばかり流れている。
それなのにこの部屋だけは冬どころか、冷凍倉庫だった。
壁には断熱材が何層にも貼られ、天井には業務用の冷却ユニットが二基。床には滑り止めのマットが敷かれているが、その端には霜が降りている。
机も椅子も、普通の家具ではない。
博士がどこからか取り寄せた、低温環境用の特殊樹脂製らしい。
僕にはよくわからないけど、とにかく高かったということだけは知っている。なぜならその請求書を見たとき、僕は三分くらい言葉を失ったからだ。
「ねえ、スバル」
「なに」
「寒い?」
「寒いに決まってるだろ」
「そっか」
たまは少しだけ嬉しそうにした。
「なんで嬉しそうなんだよ」
「寒いって言われると、ちゃんと寒い部屋なんだなって安心する」
「こっちは命の危機を感じてるんだけど」
「大げさ」
「大げさじゃない。人間はマイナス十八度の部屋で長時間ゲームしないんだよ」
「でもスバル、毎日来るじゃん」
「来ないと君が氷おにぎり氷おにぎりうるさいからだよ」
「違うよ」
たまは画面を見たまま、ぽつりと言った。
「スバルは、私が寂しくないように来てるんでしょ」
思わず、言葉が詰まった。
ゲームの効果音だけが部屋に響いた。さっき死んだ女騎士が、拠点の焚き火みたいな場所で復活している。炎のエフェクトが画面の中で揺れているのに、現実の部屋はやっぱり凍えるほど寒い。
「……別に」
僕はそっぽを向いた。
「氷おにぎりを持ってきてるだけ」
「ふうん」
「なにその顔」
「べつに」
たまは小さく笑った。
こういうところがある。
普段は面倒くさがりで、ゲームばかりしていて、朝起きるのも遅くて、掃除もしない。洗濯物は冷気でカチカチに凍らせるし、冷蔵庫の中身は勝手に食べるし、僕のアイスまで「これは共同財産」とか言って食べる。
でも、時々。
本当に時々だけど。
たまは僕が隠していることを、何でもないみたいに言い当てる。
それが雪女だからなのか。
妖魔だからなのか。
それとも、ただ長く一緒にいるからなのかはわからない。
「おーい、生きているかね、若人たち」
その時、クーラールームの外から声がした。
扉の小窓が白く曇っている。向こう側から、誰かがコンコンとノックしていた。
「博士だ」
「開けていい?」
「ちょっと待って。温度差でメガネが死ぬ」
僕は立ち上がり、扉の近くに置いてある防寒用の手袋を掴んだ。クーラールームの扉は分厚い。冷気を逃がさないように二重構造になっていて、開け閉めするだけでも少しコツがいる。
レバーを下ろすと、外の空気がふわっと入り込んできた。
その瞬間、たまが露骨に嫌そうな顔をする。
「あつい」
「まだ開けたばっかりだよ」
「熱風」
「普通の廊下の空気だよ」
「地獄」
外に立っていたのは、白衣姿の中年男性だった。
ぼさぼさの髪。無精髭。丸眼鏡。手には湯気の立つマグカップ。
彼こそが、僕とたまの同居人であり、僕の保護者であり、そして世界でもかなり珍しい妖魔生態学の研究者——通称、博士である。
本名はある。
あるのだけど、博士と呼ぶのに慣れすぎて、僕は日常会話でほとんど本名を使わない。
「いやあ、涼しいねえ」
「博士、半袖で入ってこないでください。死にますよ」
「なに、私はまだまだ若いからね」
「昨日、階段で腰痛いって言ってたじゃないですか」
「あれは階段が悪い」
「階段に罪をなすりつけないでください」
博士は笑いながら部屋に入ってきた。
入ってきた瞬間、眼鏡が真っ白に曇った。
「おお、何も見えん」
「だから言ったのに」
「たまくん、今日も元気そうで何よりだ」
「博士、スバルがケチ」
「ほう。何をしたんだね、スバルくん」
「水族館に連れていけって言われたんです」
「ああ、影鰐くんか」
博士は眼鏡を外し、白衣の裾で拭きながら言った。
水族館の大型水槽に紛れて暮らしている妖魔——影鰐。
サメの姿をしているけど、本物のサメではない。立派な妖魔だ。影を泳ぐ鰐と書いて影鰐。見た目はサメに近いのに鰐と呼ばれているあたり、昔の人の名付けセンスはよくわからない。
彼は普段、水槽の底のほうにいる。
客から見れば、少し大きくて少し不気味な魚にしか見えない。大学の関係者にも、正体を知っている人間はほとんどいない。
たまはたまに、彼に会いに行きたがる。
同じ妖魔だから、という理由だけではないと思う。
たぶんたまにとって影鰐は、「外にいる妖魔」なのだ。
人間に見つかるかもしれない危険の中で、ひっそりと暮らしている存在。
自分と似ているようで、自分とは違う存在。
「影鰐くんの様子は、確かに見ておいたほうがいいかもしれないね」
「ほら」
たまが勝ち誇った顔で僕を見た。
「博士もこう言ってる」
「博士はだいたい妖魔優先なんだよ」
「研究者だからね」
「保護者でもあるんですけど」
「もちろん。だから君の昼食も作っておいた」
「あ、焼きそば美味しかったです」
「それはよかった。少し塩を入れすぎた気もしたが」
「たまなら食べられるんじゃないですか。塩味氷おにぎりとか言ってるし」
「焼きそばは熱いからやだ」
たまは即答した。
博士はくつくつと笑った。
「相変わらずだねえ」
「博士」
僕は防寒着の袖に手を突っ込みながら言った。
「影鰐、本当に危ないんですか?」
「危ないか危なくないかで言えば、常に危ない」
「それは妖魔だから?」
「違う。人間社会の中にいるからだ」
博士はいつもの調子で、さらっと怖いことを言う。
「妖魔そのものの危険性と、妖魔が発見された時に生じる危険性は別物だ。影鰐くんが誰かを襲う可能性は低い。だが、発見されればN.D.C.S.Oの地方支部に通報が入る。そうなれば、現場は封鎖。退魔師が派遣され、捕獲、封印、あるいは討伐の判断が下されるじゃろう」
「……討伐」
「そうだ」
その言葉に、たまの手が少し止まった。
ほんの少しだけ。
でも僕は気づいた。
彼女は妖魔だ。
A級妖魔、雪女。
本来なら、退魔師である僕が真っ先に討伐対象として見なければいけない存在。
だけど、僕はそうしていない。
それどころか、一緒に暮らしている。
これを誰かに知られたら、僕は間違いなく退魔師失格だ。大阪府立退魔師養成高校に通っているどころじゃない。妖魔対策法違反で捕まるか、最悪、N.D.C.S.Oの監視対象になる。
いや、僕だけならまだいい。
たまはたぶん、連れていかれる。
研究材料としてか危険個体としてか、それはわからない。
でも少なくとも、今みたいに氷おにぎりを食べながらゲームをする生活には戻れないだろう。
「たまくん」
博士は穏やかな声で言った。
「影鰐くんに会いたい理由を聞いてもいいかな」
「理由?」
「うん。ただ様子を見たいだけかね。それとも、何か気になることがあるのかね」
たまはしばらく黙った。
画面の中で、たまのキャラクターが壁に向かって走り続けている。操作する手が止まっているのに、スティックだけ傾いたままだった。
「昨日、夢を見た」
「夢?」
僕は思わず聞き返した。
妖魔も夢を見るのか。
いや、見るのかもしれない。たまは寝るし、寝ぼけるし、たまに僕の布団を凍らせる。夢くらい見てもおかしくない。
でも、たまが自分から夢の話をするのは珍しかった。
「水の中に、黒い影があった」
たまは言った。
「影鰐が、ずっと同じところを回ってた。水槽じゃなかった。もっと暗くて、広くて、寒くない水。声が聞こえた」
「声?」
「うん」
「なんて?」
たまは眉を寄せた。
「……帰りたい、って」
クーラールームの中が、少しだけ静かになった気がした。
冷却ユニットの低い駆動音。ゲーム機のファンの音。博士のマグカップから立つ湯気。
その全部が遠くなったように感じた。
「影鰐がそう言ったの?」
「わからない。でも、そういう感じだった」
たまは氷おにぎりを膝の上に置いた。
「妖魔って、どこに帰ればいいのかな」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
たまは、外の世界をあまり知らない。
正確に言えば“ある程度知っている”けど、自由には歩けない。
人間のふりをすれば街にも出られる。実際、何度か一緒に出かけたこともある。帽子をかぶって、髪を隠して、目立たない服を着て、暑さに耐えながら。
でも、それはあくまで「人間のふり」だ。
雪女としての彼女が、雪女のままいられる場所はこのクーラールームしかない。
マイナス十八度の狭い部屋。
外から見れば、ただの特殊設備。
でもたまにとっては、家であり、檻でもある。
「……ごめん」
気づいたら、僕はそう言っていた。
たまがきょとんとする。
「なんでスバルが謝るの」
「いや、なんとなく」
「変なの」
「君に言われたくない」
たまは少し笑った。
博士はそんな僕たちを見て、何も言わずにマグカップを口に運んだ。
たぶん、博士はわかっている。
僕がたまに対して、ずっと後ろめたさを感じていること。
守っているつもりで、閉じ込めているのではないかと思っていること。
いつか妖魔が自由に暮らせる場所を見つける。
僕はたまにそう言った。
幼い頃、まだ退魔師になるなんて考えもしなかった頃に。
でも、あれから何年も経った。
僕は退魔師養成高校に通い、N.D.C.S.Oの制度を学び、妖魔の危険性も、妖魔によって人生を壊された人たちのことも知った。
そして同時に、たまのような妖魔がいることも知っている。
だから余計にわからなくなる。
何が正しいのか。
誰を守ればいいのか。
どこからが悪で、どこからが救うべき命なのか。
「まあ、影鰐くんの様子を見る必要があるのは事実だ」
博士は眼鏡をかけ直した。
曇りが取れ、レンズの奥の目が少しだけ真剣になる。
「最近、静岡市内のアクシオン濃度が不安定になっている」
「え?」
「君にはまだ言っていなかったかな」
「聞いてません」
「そうか。なら今言った」
「軽いなぁ……」
博士は白衣のポケットから小型端末を取り出した。画面には、街の地図らしきものが表示されている。いくつかの地点に色付きの点があり、その周囲に波紋のようなグラフが広がっていた。
「これは私が個人的に設置している観測装置のデータだ。正式なものではないから、N.D.C.S.Oには提出していない」
「提出してくださいよ」
「提出したら、君とたまくんの生活が終わる可能性がある」
「……それは困ります」
「だろう?」
博士はさらっと言った。
この人はたまに、倫理観がまともなのか壊れているのかわからなくなる。
「ここ数日、海沿いのアクシオン濃度が上昇している。特に水族館付近だ」
「影鰐が原因ってことですか?」
「可能性の一つだね。ただ、影鰐くんは本来、周囲に強い汚染を広げるタイプではない。彼は影に潜み、静かに生きる妖魔だ。餌も魚で足りる。人を襲う理由がない」
「じゃあ、別の妖魔?」
「それも可能性の一つ」
「可能性ばっかりですね」
「研究とは、可能性を一つずつ潰していく作業だよ」
博士はそう言って、地図を拡大した。
海沿いの一点が赤く点滅している。
水族館。
たまがじっと画面を見つめた。
「影鰐、苦しんでるのかな」
「わからない」
博士は正直に言った。
「だが、何かが起きているのは確かだ」
「……じゃあ行こう」
「簡単に言うなって」
僕は頭を抱えた。
「たま、外は暑いんだよ。しかも昼間。君、前にコンビニ行っただけで倒れかけたじゃん」
「あれはアイス売り場が弱かった」
「アイス売り場のせいにするな」
「あと日差しが悪い」
「それはそう」
たまは雪女だ。
暑さに弱い。
弱いというか、もはや弱点だった。
夏場に外へ出る時は、冷却パックを仕込んだ服を着せ、帽子をかぶせ、日傘を差し、できるだけ日陰を歩かせる。それでも長時間は無理だ。
しかも、人目の問題もある。
たまは見た目だけなら普通の少女に見える。青い髪と青い瞳を隠せば、まあ少し色白で綺麗な子、くらいで済む。
でも、体温が低すぎる。
吐く息が夏でも白い。
触れたものが凍ることもある。
本人が油断すると、足元に霜が降りる。
どう考えても目立つ。
「夜にしましょう」
僕は博士に言った。
「閉館後の水族館に忍び込むとか、そういう犯罪っぽいやつは無しで」
「既に妖魔を匿っている君がそれを言うのかね」
「それとこれとは別です」
「まあ、夜間見学の許可なら取れる」
「取れるんですか?」
「大学側に知り合いがいる。私は昔、あそこの研究棟に出入りしていたからね」
博士の人脈はたまに怖い。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「君も来ること」
「それは最初からそのつもりですけど」
「退魔師候補生としてではなく、笹瀬スバルとして来ること」
博士の声が少し低くなった。
「もし影鰐くんに異常が起きていたとしても、すぐに討伐対象として見ないこと。観察し、対話し、必要なら助ける。できるかね」
僕はすぐに答えられなかった。
できる、と言うのは簡単だ。
でも僕は、退魔師の卵だ。
大阪府立退魔師養成高校で教わることは、妖魔への対処法だ。封印術、結界術、対妖魔戦闘、危険度分類、避難誘導、捕縛手順。
そこに「妖魔と仲良くする方法」なんて授業はない。
妖魔を前にした時、まず考えるべきは被害の拡大防止。
それが原則。
その原則を無視すれば、人が死ぬこともある。
僕の両親のように。
「……努力はします」
そう答えるのが精一杯だった。
博士は頷いた。
「それでいい」
「いいんですか」
「断言する者ほど危うい。迷える者のほうが、まだ観察の余地がある」
「僕は研究対象ですか」
「もちろん」
「保護者ですよね?」
「それももちろん」
この人、本当にさらっと言う。
たまは僕の袖を引っ張った。
「スバル」
「なに」
「夜までに、しょっぱい氷おにぎり作って」
「話聞いてた?」
「聞いてた。影鰐にお土産」
「サメに氷おにぎり渡すの?」
「影鰐は食べるかもしれない」
「食べないと思う」
「わからないじゃん」
確かに、わからない。
妖魔の生態はわからないことだらけだ。
雪女が氷おにぎりを好むなら、影鰐がしょっぱい氷おにぎりを好む可能性も完全には否定できない。
いや、たぶんないけど。
「……一個だけね」
「三個」
「一個」
「二個」
「一個」
「じゃあ大きいやつ」
「交渉が小学生なんだよ」
たまは満足そうに頷いた。
その顔を見ていると、少しだけ力が抜けた。
水族館。
影鰐。
上昇するアクシオン濃度。
そして、たまが見た夢。
不穏な要素は揃っている。
それでも、僕たちの日常はこうして続いていく。
氷おにぎりを作って、電気代に怯えて、博士のよくわからない説明を聞いて、たまのわがままに振り回される。
たぶん僕は、この日常を守りたいのだと思う。
世界のためとか。
人類のためとか。
妖魔との共存とか。
そういう大きな言葉よりも先に。
マイナス十八度の部屋で、ゲームに負けてむくれている彼女の顔を、明日も見たい。
ただ、それだけなのかもしれない。
夜までの時間、僕は台所で氷おにぎりを作ることになった。
専用の丸型容器に水を入れ、少しだけ塩を混ぜる。
分量は適当だ。
そもそも正解がわからない。
海水っぽい味と言われても、僕は海水を飲み比べたことがない。たぶん普通の人間はないと思う。
「スバルくん」
背後から博士が声をかけてきた。
僕は振り向いた。
博士は台所の椅子に座り、ノートパソコンを開いている。画面には大量の数式とグラフが並んでいた。見ただけで頭が痛くなるやつだ。
「たまくんは?」
「部屋でゲームしてます」
「そうか」
「博士」
「ん?」
「たまが見た夢って、ただの夢なんですか?」
博士は少しだけ手を止めた。
「難しい質問だね」
「妖魔も夢を見るんですか」
「見る個体もいる。見ない個体もいる。そもそも夢という現象を人間と同じ意味で定義していいのかも怪しい」
「また難しいことを……」
「簡単に言えば、たまくんの夢はただの夢ではない可能性がある」
僕は水を入れた容器の蓋を閉めながら、博士を見た。
「妖魔同士の共鳴ですか?」
「その可能性が高い」
博士は頷いた。
「妖魔はアクシオン粒子によって構成された肉体を持つ。アクシオンは感情の揺らぎに強く反応する。特に、孤独、恐怖、帰属欲求、喪失感。そういった負の感情は密度成長を起こしやすい」
「影鰐が苦しんでいるとしたら、それをたまが感じ取った?」
「あり得る」
「たまも同じような感情を持っているから?」
博士は、すぐには答えなかった。
その沈黙で、僕は答えを知ってしまった気がした。
「スバルくん」
「はい」
「たまくんは、君が思っているよりもずっと我慢している」
「……わかってます」
「いや、たぶんわかっていない」
博士の声は責めるものではなかった。
だからこそ、胸に刺さった。
「君は優しい。だから彼女を守ろうとしている。だが、守ることと閉じ込めることは、時々よく似た形をしてしまう」
「……」
「もちろん、外へ出せば危険がある。N.D.C.S.Oに見つかれば終わりだ。退魔師協会に知られても終わりだ。近所の人間に怪しまれても危うい。だから今の生活は、現実的な妥協点ではある」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
少し強い声になってしまった。
自分でもわかった。
博士は怒らなかった。
「わからない」
「博士でも?」
「私でもだ」
博士は苦笑した。
「私は妖魔を研究している。だが、妖魔と共に生きる正しい方法を知っているわけではない。たまくんのことも、影鰐くんのことも、私はまだ何もわかっていない」
「何もってことはないでしょう」
「いや。何も、じゃよ」
博士は画面を閉じた。
「研究者はね、スバルくん。わかったふりをした瞬間に終わるんだ」
その言葉は、妙に重かった。
「君のご両親を奪った妖魔のことも、私はまだ調べている」
心臓が、少し跳ねた。
両親。
その言葉が出ると、どうしても体が固くなる。
五歳の頃。
僕の家族は妖魔に殺された。
それは変えようのない事実だ。
血の匂い。
壊れた玄関。
割れた食器。
母さんの声。
父さんの手。
断片的な記憶が、今でも時々夢に出る。
あの時、僕は何もできなかった。
ただ震えていただけだった。
そしてその後に出会ったのが、たまだった。
雪の降らない街で、白い息を吐いていた小さな妖魔。
僕と同じくらいの年に見えた少女。
彼女は僕を襲わなかった。
むしろ泣いている僕の隣に座り、何も言わずに一緒にいてくれた。
それが、僕とたまの始まりだった。
「博士」
「うん」
「僕は、たまを信じたいです」
「うん」
「でも、妖魔が怖くないわけじゃない」
「それでいい」
博士は静かに言った。
「怖いと思う心を否定してはいけない。恐怖は、人を守るための感情でもある。ただし、その恐怖だけで相手を決めつけてはいけない」
「……難しいですね」
「難しいとも」
博士は少し笑った。
「だから人類は、何千年も妖魔と向き合い損ねている」
冷凍庫に容器を入れる。
しょっぱい氷おにぎり。
影鰐へのお土産。
そんな馬鹿みたいなものを真剣に作っている自分が、少しおかしかった。
でも、こういう馬鹿みたいなことの積み重ねが、たぶん日常なのだと思う。
夕方になり、外の暑さが少しだけ和らいだ頃。
僕たちは水族館へ向かう準備を始めた。
たまは外出用の服に着替えた。
白いパーカー。薄いジーンズ。大きめの帽子。髪は内側にしまい、青い瞳は薄い色のサングラスで隠す。
首元には博士が作った小型冷却装置。
見た目は少しごついネッククーラー程度だが、中身はかなり特殊らしい。たまの体温上昇を防ぐため、微弱な冷気を持続的に発生させる装置だ。
「重い」
「我慢して」
「肩こる」
「外で溶けるよりマシでしょ」
「雪女は溶けない」
「この前、溶けるって自分で言ってたじゃん」
「あれは気分」
「紛らわしいな」
博士は大きなリュックを背負った。
中には観測機器やら、携帯結界装置やら、応急用の封印札やらが入っているらしい。
僕も退魔師用の道具を持った。
訓練用の符。簡易結界針。小型の妖力測定器。
本来なら、学校の許可なく持ち出すのはあまり褒められたことではない。でも、今さらだ。僕の生活はだいたい最初から褒められたものじゃない。
「スバル」
玄関で靴を履いていると、たまが声をかけてきた。
「なに」
「今日、手つないでいい?」
僕は固まった。
「……は?」
「外、暑いから」
「いや、理由になってるようでなってないけど」
「スバル、冷却材持ってるでしょ」
「ああ、そういうこと」
少しだけ変な期待をした自分が恥ずかしい。
僕はポケットに入れていた冷却パックを取り出した。たまはそれを受け取らず、僕の手ごと握った。
冷たい。
相変わらず、びっくりするくらい冷たい手だった。
「これでいい」
「歩きにくくない?」
「大丈夫」
「人に見られたら」
「兄妹ってことにすればいい」
「似てないだろ」
「じゃあ恋人」
「もっと無理」
「なんで」
「なんでって……」
言い返そうとして、やめた。
たまは別に照れている様子もなく、ただ本当に暑さ対策として僕の手を握っているだけだった。
たぶん。
たぶん、そうだ。
博士が後ろでにやにやしていたので、僕は見なかったことにした。
外へ出ると、むわっとした熱気が体を包んだ。
夏の夕方。
日差しは傾いているのに、地面からはまだ熱が上がっている。遠くで蝉が鳴いていた。車の音。自転車のベル。どこかの家から漂う夕飯の匂い。
普通の街。
普通の夏。
その中を、僕たちは歩いていく。
人間の少年と、雪女と、妖魔研究者。
客観的に見ると、かなり変な組み合わせだ。
「暑い」
たまが小声で言った。
「まだ五歩しか歩いてない」
「五歩も歩いた」
「先が思いやられる」
「おんぶ」
「しない」
「ケチ」
「ケチじゃない」
そんなやり取りをしながら、僕たちは駅へ向かった。
夜の水族館で何が待っているのか。
影鰐は本当に助けを求めているのか。
上昇するアクシオン濃度の原因は何なのか。
わからないことばかりだった。
でも、たまの手は僕の手を握ったままだった。
冷たくて、細くて、少しだけ頼りない手。
その手を離さないように、僕は歩幅を合わせて歩いた。
妖魔は、人の心から生まれる。
もしそれが本当なら。
たまの中にも、影鰐の中にも、僕たち人間と同じような何かがあるのだろう。
帰りたいと願う心。
寂しいと思う心。
誰かと一緒にいたいと思う心。
それを討伐対象という一言で片づけるには、僕はもう、たまのことを知りすぎていた。
そしてたぶん。
知らなければよかったとは、もう思えない。
水族館へ向かうバスが、停留所に滑り込んでくる。
開いたドアの向こうから、冷房の風が漏れた。
たまが少しだけ目を輝かせる。
「スバル」
「なに」
「バス、好き」
「冷房があるから?」
「うん」
「わかりやすいな」
僕たちはバスに乗った。
窓の外で、夕焼けが街を赤く染めている。
その向こうに、海が見えた。
青黒く沈み始めた水面。
そこに、ほんの一瞬だけ。
巨大な影が揺れたような気がした。
僕は目を凝らした。
でも次の瞬間には、何も見えなくなっていた。
「どうしたの?」
たまが聞いてくる。
「いや」
僕は首を振った。
「何でもない」
そう答えたけれど。
胸の奥で、嫌な予感がゆっくりと凍りついていくのを感じていた。




