戦のあと、妻は『幸せは私が決めます』と言った
妻のシリが出産してから、三週間が経った。
産室で休む彼女に逢いたくて、オレは一日に何度もそこへ足を運ぶ。
春の日差しの中、シリは微笑んでいた。
その頬の色、細い指の動き――すべてが、命の奇跡のように見えた。
「惹きつける瞳だわ」
生まれたばかりの赤子・ウイの瞳は、光の加減によって色が違って見えた。
時に灰色、時に淡い青。そして、黒色。
オレとシリの瞳の色を混ぜた色。
結婚して二年。
オレたちには、三人の子がいる。
一人目は前妻との子、男の子のシン。
二人目は、シリと彼女の兄とのあいだに生まれた娘、ユウ。
そして三人目が、生まれたばかりのウイ。
――オレとシリの、初めての子ども。
「お前たちの妹だ」
オレは子どもたちを呼び寄せ、ウイを抱き上げて見せた。
二歳のシンと一歳のユウは、戸惑いながらもじっと覗き込んでいる。
小さな指が伸び、ウイの頬にそっと触れた。
春の光が部屋に満ちていた。
湖から吹く風はやわらかく、庭の枝先には新しい芽が光っていた。
――ようやく、本当の家族になれた。
そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。
この時間が永遠に続けばいいと願った。
けれど、産室の扉を閉めて一歩外へ出た途端、オレの顔から笑みは消えた。
廊下の空気が重く、冷たい。
遠くから人の声が交じり合い、城全体が落ち着かないざわめきに包まれている。
幸福の光がまぶしいほどに――その影が、すでに忍び寄っていた。
◇
昨夜、北の見張りから報せが届いた。
ミンスタ領の軍が、ワストの街道を無断で通過したという。
先頭に立っていたのは、シリの兄――ゼンシだった。
その行き先は、シズル領。
友人トナカが治める、ワスト領の同盟地だ。
本来、ワストとミンスタの間には「シズル領を許可なく攻撃しない」という取り決めがあった。
その約束こそ、シリとの婚姻を決めた理由だった。
だが、結婚して二年。
義兄ゼンシは、その約束をあっさりと破った。
その瞬間から、平穏だった日々は崩れはじめた。
オレは机に広げられた地図を見つめ、何度も息を吐いた。
ワストとシズル、そしてミンスタ。
保っていた均衡が、音もなく崩れはじめている。
家臣たちは口々に言った。
「ゼンシを撃て」と。
怒りはすでに限界に達していた。
もともと、ゼンシの妹――シリとの政略結婚に反対していた者は多い。
そのゼンシが、ワストの街道を無断で使い、約束を破った。
彼を庇うことは、領の民を見捨てるに等しい。
重臣オーエンは机を叩き、声を荒げた。
「グユウ様、もはや見過ごせませぬ!」
その気迫に、部屋の空気が震えた。
ーーシリの生家であるミンスタ領と争いたくない。
それが、オレの本音だった。
けれど、そんな本音を通せば家臣たちは背く。
そして、それはすなわち――領が割れるということだ。
領を守るためには、避けられない。
領主として、それが正しい判断なのだろう。
だが――
シリを思えば、胸の奥が焼けるように痛んだ。
兄を討つ。
生家と争う。
それを妻に告げねばならない。
あの青い瞳が曇る顔を思うだけで、息が詰まった。
「・・・グユウ様」
重臣ジムの声が、決断を促すように静かに響く。
オレは黙って頷いた。
「明朝、出陣する」
言葉にした途端、胸の内で何かが崩れた。
――シリと、娘たちを生かさなければ。
この戦に、彼女を巻き込んではならない。
会議の後、オレは机から立ち上がり、静かな決意を胸に産室へ向かった。
扉の前で一度だけ深く息を吸う。
シリに、別れを告げるために。
いや――生かすために、別れを選ぶのだ。
◇
産室の扉を開けると、春の光が差し込んでいた。
シリは窓辺の椅子に座り、ウイを抱いていた。
その頬には穏やかな紅が差していて、髪に透ける光が柔らかく揺れている。
あまりにも静かで、あまりにも美しい光景だった。
このまま時が止まればいい――ほんの一瞬、そんな愚かな願いを抱いた。
「グユウさん」
シリが顔を上げる。
オレの姿を見つけて、安堵の笑みを浮かべた。
「今日は遅かったですね」
その声の優しさに、胸が痛んだ。
結婚して、まもなく二年になる。
それでもオレは、シリが本当に自分の妻になったことを、どこかでまだ信じきれずにいた。
美しく、聡明で、誰からも敬われる女が、
この自分を好いてくれる――それは、夢のような出来事だった。
夢が壊れぬようにと、
オレの心はいまだにシリの前では、爪先立つ思いだった。
「シリ、話したいことがある」
彼女の腕の中で、眠っていたウイがかすかに身じろぎする。
小さな命のぬくもりが、産室の空気をやわらげた。
シリが顔を上げる。
その青い瞳に見つめられ、言葉が一瞬、喉に詰まる。
けれど、言わねばならない。
オレはシリのそばに屈み、まっすぐにその瞳を見た。
「ゼンシ様が・・・シズル領を攻めた」
言葉にした瞬間、幸福の空気が砕けた。
シリの指先が震えた。
ただ、真っ直ぐにオレを見つめている。
「兄が・・・約束を破ったのですね」
オレは静かに頷いた。
「家臣たちは憤っている。ゼンシ様を撃つと決まった。明朝、出陣する」
沈黙が落ちた。
窓の外の春の光が、まるで遠い日の記憶のように冷たく見えた。
「・・・そんな」
小さな声が震える。
その声が、心の奥を切り裂いた。
「シリ、この城から逃げてくれ。ゼンシ様に、ワストの兵が動くと伝えるんだ。
そして・・・そのまま、生家に帰れ」
シリの瞳が大きく見開かれた。
驚きと痛みが交錯する。
「どうして・・・?」
「生き延びるためだ」
掠れた声が、自分のものとは思えなかった。
「シリがこの城に残れば、ゼンシ様の怒りが向く。その前に・・・逃げてくれ」
シリは聡い女だ。
オレの治めるワスト領が、武でも富でもミンスタ領に敵わぬことを、誰よりも知っている。
滅びるとわかっている城に、
彼女と子どもたちを残すことなどできるはずがない。
シリは唇を噛み、膝の上のウイを抱きしめた。
その指先が、かすかに震えていた。
「・・・どうして、そんなことを。私が兄に報告をしたら、ワスト領は滅びるのですよ。
私に内緒にして・・・明日出陣をすればよかったのに」
オレは首を振った。
「オレは、お前に嘘をつかないと決めた。だから言う」
シリの青い瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「守るためだ。お前と、子どもたちを」
その言葉を言うだけで、胸が裂けそうだった。
「グユウさん・・・」
シリの瞳は涙で揺らいだ。
「領主としてのオレは未熟だ」
オレは、子供ごと、シリを軽く抱きしめた。
「シリ・・・好いているという言葉では足りない。
オレのところに嫁いで・・・子を産んでくれてありがとう」
ーー離したくない。
けれど、それは許されないことだった。
オレも、そして、シリも責任がある立場なのだ。
「馬車を一台用意してある。オレが出陣をしたら、すぐにユウとウイを連れてこの城を出てくれ」
そう話すと、彼女は蒼白な顔をして俯いた。
政略結婚、それは愛でも情でもなくーーお互いの家を結びつける結婚。
シリは、生家にオレの裏切りを伝える義務があるのだ。
「・・・シリ。どんな形でもいい。
お前が無事に生きてくれたら、オレはそれでいい」
そう伝え、産室から出て行った。
胸の奥が切なさと悲しみで疼く。
ーーこれで良いのだ。
そう言い聞かせた。
その夜、シリはユウとウイの乳母たちと共に、
城を離れるための支度を進めていた。
衣を畳む音、包みを結ぶ音が、寝室から途切れ途切れに響いていた。
誰も言葉を発しない。
それぞれが、胸の奥で何かを噛みしめていた。
◇
翌朝――出陣を前に、オレはもう一度だけ産室を訪れた。
扉を開けると、シリがいた。
髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い影が落ちている。
一睡もできなかったのだろう。
それでも、彼女は立ち上がり、まっすぐにオレを見た。
最後の別れの時が来た。
最初にユウを抱いた。
青い瞳、輝く金髪――シリにそっくりな子だ。
けれどその父は、シリの兄。
今まさに、オレが戦おうとしている男だった。
小さな体を抱き上げると、ユウはじっとオレを見つめた。
その真っ直ぐな視線に、思わず胸が締めつけられる。
「ユウ、大きくなったら、父を忘れてしまうかもしれないな」
ぽつりとこぼれた言葉に、自分でも驚いた。
抱きしめる腕に、自然と力がこもる。
「けれど・・・オレは、一日たりともお前を忘れない」
ユウは何も言わず、ただその瞳でオレを見返していた。
まるで、すべてを理解しているかのように。
そのあと、産まれてまだ二十日しか経たぬウイを抱いた。
オレとシリにとって、初めての子ども。
何も知らないその子は、幸せそうな顔で眠っていた。
この小さな命が、オレのことを覚えているはずもない。
オレはそっと抱きしめ、愛おしげに目を閉じた。
「・・・ウイのことを、頼む」
乳母にウイを渡すと、彼女は唇を噛み、涙をこらえながら深く頭を下げた。
乳母たちは肩を震わせながら、静かに部屋を出ていった。
やがて、産室にはオレとシリだけが残った。
「シリ・・・」
オレは彼女の顔を両手で包み込んだ。
「ユウとウイのことを頼む」
シリはオレの瞳をまっすぐに見つめ、黙って頷いた。
――もう決めているのだ。
この城を出ることも、子を連れて行くことも。
そして、きっとオレの前で泣かないことも。
その強さが、余計に胸を締めつけた。
オレはそっと近づき、彼女の細い肩に手を置いた。
その時、シリが静かに言った。
「・・・グユウさん。最後に、口づけをしてください」
予想もしなかった言葉だった。
一瞬、息が止まる。
離れたくない――その想いが、胸の奥で音を立てた。
どちらからともなく目を閉じ、唇が触れ合った。
これ以上続ければ、きっと離れられなくなる。
オレはすぐに唇を離した。
けれど――
「もっと・・・」
シリが、震える声で願った。
「もっと、してください」
その瞳に込められた想いに、もう抗えなかった。
唇を重ねる。
深く、長く。
息が足りなくなっても、離れたくなかった。
苦しくて、それでも離れたくなくて、オレたちは何度も唇を重ねた。
――離れたくない。
ドアを優しく叩く音がした。
家臣ジムの気配。
もう時間だ。
唇を離し、扉の外に向かって声をかける。
「もう少し、待ってくれ」
産室に差し込む春の光のなかで、もう一度、シリを見下ろした。
淡い日差しを受けた彼女の髪は光を帯び、
青い瞳には、人を魅するほどの強い光が宿っていた。
「シリ・・・どこにいても、シリの幸せを願っている」
涙で揺れる瞳をつくづく見つめ、それだけを言い残して、身を離した。
行かなくてはならない。
背を向け、扉へ歩み出す。
背後で、かすかな衣擦れの音。
シリが、静かにその場にしゃがみ込んだのがわかった。
――駆け寄ることはできない。
扉を閉める。
閉じた瞬間、
「・・・あぁ」
絞り出すような声が、内側から聞こえた。
シリの泣き声を背に、オレは目を閉じた。
「・・・グユウ様」
ジムが、静かに声をかける。
オレは顔を上げ、心を押し殺して歩き出した。
領主として、民のため、家臣のために――戦わなければならない。
ホールでは、すでに家臣たちの雄叫びが響いていた。
それは、戦の始まりを告げる音。
兵たちの足音が、重々しくレーク城を離れていく。
――シリ。どうか、幸せに。
その想いを胸に、オレは戦場へ向かった。
◇
「逃した」
シズル領・領主でもあり、友人のトナカが忌々しげに吐き捨てた。
「あぁ」
オレも、短く返すしかなかった。
義兄――ゼンシ様は、オレの裏切りに激昂した。
「グユウめ! 義兄を撃つとは何事だ!」
怒号が響き、彼は挟み撃ちを恐れて険しい山道へと逃げた。
討ち取ることは叶わなかったが、戦はワストとシズルの勝利で終わった。
トナカが息を整えながら問う。
「シリは、どうした?」
「ミンスタ領に返した」
そう答えたが、胸の奥が軋んだ。
オレの口調に、トナカは察したようにうなずく。
「シリが・・・幸せに過ごせるなら、それでいい」
自分に言い聞かせるように呟く。
「必ずゼンシを撃とう」
トナカが差し出した手を、オレは強く握り返した。
「あぁ」
握り返したその手の温もりだけが、戦の余韻の中で唯一の救いだった。
◇
翌朝、城に帰る道のりは沈んだものだった。
春の風がゆるやかに吹き、草木の匂いが馬の息づかいに混じる。
戦が終わったというのに、胸の奥の重さは消えなかった。
義兄を裏切り、シリを失った。
勝ったはずの戦が、何ひとつ誇れない。
いつもは・・・遠出のたびに、シリがいる城に早く帰りたくて、馬を飛ばした。
ーーもう、シリはいない。
レーク城が見えてきた。
ジムが隣で小さく言った。
「・・・グユウ様、少しお休みを」
オレは無言で頷き、馬を降りた。
城門が開く。
見慣れた木壁と、懐かしい空気。
それなのに、もう帰る場所ではないように感じた。
玄関の扉を押す。
ひんやりとした空気が頬を撫でた。
その瞬間――
「・・・お帰りなさい」
静かな声が、風に溶けるように響いた。
目の前にシリがいた。
白いエプロン姿で、まるで侍女のように控えめな装い。
けれど、その青い瞳だけが、すべてを物語っていた。
一瞬、言葉が出なかった。
息をすることさえ忘れた。
「勝利・・・おめでとうございます」
シリは微笑んだ。
夢ではない。
けれど現実だと受け止めるには、まだ時間が足りなかった。
逃したはずだった。
命に変えてでも守りたかったシリ、安全な故郷に戻るように指示をしたはず。
「シリ・・・なぜ」
掠れた声で尋ねると、彼女は答えなかった。
ただ、穏やかな笑みを浮かべ、後ろに控える家臣たちに声をかける。
「皆さんの食事を準備しています」
焼きたてのパンの香りが漂い、
ハーブの効いたスープの匂いがホールに満ちていく。
戦いを終えた兵たちは、戸惑いながらもその香りに目を細めた。
シリは、全員の前に立ち、静かに頭を下げた。
「皆さま、お疲れさまでした。今日はどうか、身体を休めてください」
その声に、ざわついていた空気が次第に静まり、やがてホールは不思議な温かさに包まれた。
料理人と女中たちが、次々と器にチキンスープを注いでいく。
シリが一歩前へ出て、両手でスープの器をオレに差し出した。
「どうか召し上がってください」
その優しい声に、ほんの一瞬、戦場の記憶が遠のいた。
スープを口にしようとしたそのとき――
「グユウ様! お待ちください!」
オーエンが血相を変えて駆け込んできた。
「毒かもしれません! もし全員が食べれば、ワスト領は――」
場が一気に凍りついた。
「毒など入れていません」
シリがきっぱりと言い放つ。
その勝気な瞳に、オーエンは言葉を失った。
「それでも不安なら、私が証明します」
シリはオレの手から器を取り戻すと、その場でスープを啜り、パンをちぎって食べた。
静まり返った空間に、スープを飲む音だけが響いた。
「皆で作りました。安心して召し上がってください」
毅然とした声がホールに響く。
兵たちが顔を見合わせ、やがて一人、また一人と器を手に取った。
温かい香りと笑い声が広がり、
戦の直後とは思えぬほど、和やかな空気が満ちていく。
オーエンは恥ずかしそうにうつむいた。
「オーエン」
シリが穏やかに呼びかけた。
「あなたは良い家臣です」
「出過ぎた真似をしました」
オーエンは悔しげに頭を下げる。
「あなたがいれば、グユウさんは安心です」
見上げると、
シリの青い瞳は、さっきまでの強さとは違う光で、
やさしくオーエンを包み込んでいた。
その姿を見つめながら、
オレは胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。
――この人は、強くて、賢い。
どんな男よりも勇敢で、そして、美しい。
だからこそ、気になる。
なぜ――この城に残ったのか。
今すぐシリの肩を掴んで問い詰めたかった。
けれど、その時間はなかった。
領主には、片付けねばならない仕事が山のようにある。
すべてを終え、高鳴る胸を押さえながら寝室へ向かった。
扉を開けると、そこにシリがいた。
背筋をまっすぐに伸ばし、強く、美しい瞳でオレを見つめていた。
星のような光を宿した目から、
負けず、曲げず、諦めない意志が滲んでいた。
――この瞳に、何度心を奪われてきたことか。
シリはいつも、疑問を口にし、前に向かって行動で答える女だった。
だからこそ、オレが流されてはいけない。
彼女の幸せを考えれば、なおさら。
「シリ・・・どうして逃げなかったんだ」
静かに問うと、彼女は一歩も引かずに言った。
「逃げません」
その瞳は、相変わらず強く光っていた。
「私はここにいます」
「シリ、ここにいてはダメだ。
近いうちに、ゼンシ様はこの城を攻めてくる」
思わず彼女の肩をつかんだ。
「攻めるでしょう。兄上なら」
「逃げた方がいい。オレは・・・シリに幸せになってほしい」
シリは黙ったまま、じっとオレを見つめた。
その青い瞳の奥に、かすかな哀しみが揺れた気がした。
美しいその目を見て、オレの心がわずかに揺らぐ。
けれど、すぐに気持ちを押し殺す。
「シリ、今なら間に合う。ミンスタ領に戻れ」
シリは静かに首を振った。
「殺されてしまうかもしれないのだぞ」
懇願するような声が、自分のものとは思えなかった。
「戻ったとしても・・・私はまだ二十二歳。
子を産める女には、利用価値があります。
生家に戻れば、兄に命じられ、また別の男に嫁ぐでしょう。
グユウさんを想いながら、知らない男に抱かれる。それが幸せだと思いますか?」
言葉が出なかった。
シリを手放す覚悟はしていたはずなのに。
その先のことなど、考えたこともなかった。
オレの答えを待たずに、シリは再び口を開いた。
「それとも・・・兄上の慰み者になるかもしれませんね」
その言葉に胸が痛んだ。
喉が焼けるようで、言葉が出なかった。
「幸せって、なんでしょうか」
シリが遠くを見つめて呟く。
「安全な場所で、知らない男に抱かれることでしょうか」
挑むような瞳が、まっすぐにオレを射抜いた。
「女は嫁ぎ先を選べません。
けれど、どう生きたいかは選べます。選べるのなら、私はこの場所を選びたい」
そう言って、シリは立ち上がった。
一歩、また一歩と歩み寄り、オレの前で止まる。
「私はこの城に残ります」
強い光を宿した瞳が、すぐ目の前にあった。
あまりに美しくて、言葉を失った。
「幸せは他人が決めることではありません。私が決めます」
次の瞬間、オレは衝動のままに彼女を抱き寄せていた。
「シリ・・・なんてことを言うんだ」
声が震え、泣き声に近かった。
「いいんです」
「・・・きっと後悔する」
「しません」
シリの首筋に顔を埋め、さらに抱きしめる。
そのぬくもりに、心が軋む。
「・・・グユウさん」
「シリ・・・未熟ですまない。けれど、オレは嬉しい」
「口づけを、してもらえますか」
その声に、オレは息を呑んだ。
恐る恐る唇を寄せ、そっと触れるように口づけをした。
離れた瞬間、シリが囁く。
「もっと・・・してください」
迷いのないその瞳が、闇の中でもはっきりと見えた。
再び唇を重ねる。
時間の感覚が遠のいていく。
吐息が混じり、呼吸が乱れる。
気づけば、二人はベッドにもつれ込んでいた。
見上げるシリが微笑む。
それだけで、心が震えた。
――彼女が選んだ道に、自分はふさわしいのか。
彼女を幸せにできるのか。
自信がなかった。
「グユウさん」
シリが身体を起こし、穏やかに言った。
「私が決めたことです。迷わないでください」
その強い言葉に、思わず吹き出す。
「シリは・・・強いな」
「それは、グユウさんが隣にいるからですよ」
囁きながら、彼女は微笑んだ。
オレは息を呑んだ。
「・・・オレのそばにいて、いいのか」
「グユウさんじゃないと、ダメなんです」
彼女の瞳に宿る決意に、胸が締めつけられた。
この人は、自分よりもずっと強い。
守るために手放そうとした。
けれど――
自分のいない場所で彼女が泣くことの方が、何倍も怖いと知ってしまった。
気づけば、もう一度抱き寄せていた。
◇
「無理をさせてしまった・・・身体は大丈夫か」
息を整えながら問いかけると、シリは少し息を弾ませてオレの手を握った。
「大丈夫です」
力のない声でそう言い、幸せそうに微笑んで瞼を閉じた。
その横顔を見つめながら、オレは静かに息を吐いた。
――もう離さない。
この人が望む場所に、オレも共に立とう。
未熟な領主だとしても、
彼女に相応しい男に、夫に、そして父親になろう。
腕の中のシリを、もう二度と離さぬように強く抱きしめた。
春の風が、窓の隙間から静かに吹き込んだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、グユウ視点によるエピソードです。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
完結済み、政略結婚から始まる恋と戦と家族の物語です。
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、数日後に短編集に追加予定です。
※後書きの後書き
この作品の対になる短編が好評です。
乳母 エマ視点の物語。
『幸せは、私が決める――逃げなかった妃の物語』
https://ncode.syosetu.com/n5564li/
戦に背を向けず、愛と誇りを貫いた妃の決意を描いています。
良かったらご一緒にどうぞ。




