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戦のあと、妻は『幸せは私が決めます』と言った

作者: 雨日

妻のシリが出産してから、三週間が経った。

産室で休む彼女に逢いたくて、オレは一日に何度もそこへ足を運ぶ。


春の日差しの中、シリは微笑んでいた。

その頬の色、細い指の動き――すべてが、命の奇跡のように見えた。


「惹きつける瞳だわ」


生まれたばかりの赤子・ウイの瞳は、光の加減によって色が違って見えた。

時に灰色、時に淡い青。そして、黒色。


オレとシリの瞳の色を混ぜた色。


結婚して二年。

オレたちには、三人の子がいる。


一人目は前妻との子、男の子のシン。

二人目は、シリと彼女の兄とのあいだに生まれた娘、ユウ。


そして三人目が、生まれたばかりのウイ。


――オレとシリの、初めての子ども。


「お前たちの妹だ」

オレは子どもたちを呼び寄せ、ウイを抱き上げて見せた。


二歳のシンと一歳のユウは、戸惑いながらもじっと覗き込んでいる。

小さな指が伸び、ウイの頬にそっと触れた。


春の光が部屋に満ちていた。

湖から吹く風はやわらかく、庭の枝先には新しい芽が光っていた。


――ようやく、本当の家族になれた。


そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。


この時間が永遠に続けばいいと願った。


けれど、産室の扉を閉めて一歩外へ出た途端、オレの顔から笑みは消えた。


廊下の空気が重く、冷たい。


遠くから人の声が交じり合い、城全体が落ち着かないざわめきに包まれている。


幸福の光がまぶしいほどに――その影が、すでに忍び寄っていた。



昨夜、北の見張りから報せが届いた。


ミンスタ領の軍が、ワストの街道を無断で通過したという。


先頭に立っていたのは、シリの兄――ゼンシだった。


その行き先は、シズル領。

友人トナカが治める、ワスト領の同盟地だ。


本来、ワストとミンスタの間には「シズル領を許可なく攻撃しない」という取り決めがあった。


その約束こそ、シリとの婚姻を決めた理由だった。


だが、結婚して二年。

義兄ゼンシは、その約束をあっさりと破った。


その瞬間から、平穏だった日々は崩れはじめた。


オレは机に広げられた地図を見つめ、何度も息を吐いた。


ワストとシズル、そしてミンスタ。


保っていた均衡が、音もなく崩れはじめている。


家臣たちは口々に言った。


「ゼンシを撃て」と。


怒りはすでに限界に達していた。


もともと、ゼンシの妹――シリとの政略結婚に反対していた者は多い。


そのゼンシが、ワストの街道を無断で使い、約束を破った。


彼を庇うことは、領の民を見捨てるに等しい。


重臣オーエンは机を叩き、声を荒げた。


「グユウ様、もはや見過ごせませぬ!」


その気迫に、部屋の空気が震えた。


ーーシリの生家であるミンスタ領と争いたくない。


それが、オレの本音だった。


けれど、そんな本音を通せば家臣たちは背く。


そして、それはすなわち――領が割れるということだ。


領を守るためには、避けられない。


領主として、それが正しい判断なのだろう。


だが――


シリを思えば、胸の奥が焼けるように痛んだ。


兄を討つ。

生家と争う。

それを妻に告げねばならない。


あの青い瞳が曇る顔を思うだけで、息が詰まった。


「・・・グユウ様」


重臣ジムの声が、決断を促すように静かに響く。


オレは黙って頷いた。


「明朝、出陣する」


言葉にした途端、胸の内で何かが崩れた。


――シリと、娘たちを生かさなければ。


この戦に、彼女を巻き込んではならない。


会議の後、オレは机から立ち上がり、静かな決意を胸に産室へ向かった。


扉の前で一度だけ深く息を吸う。


シリに、別れを告げるために。


いや――生かすために、別れを選ぶのだ。



産室の扉を開けると、春の光が差し込んでいた。


シリは窓辺の椅子に座り、ウイを抱いていた。


その頬には穏やかな紅が差していて、髪に透ける光が柔らかく揺れている。


あまりにも静かで、あまりにも美しい光景だった。


このまま時が止まればいい――ほんの一瞬、そんな愚かな願いを抱いた。


「グユウさん」

シリが顔を上げる。


オレの姿を見つけて、安堵の笑みを浮かべた。


「今日は遅かったですね」


その声の優しさに、胸が痛んだ。


結婚して、まもなく二年になる。


それでもオレは、シリが本当に自分の妻になったことを、どこかでまだ信じきれずにいた。


美しく、聡明で、誰からも敬われる女が、

この自分を好いてくれる――それは、夢のような出来事だった。


夢が壊れぬようにと、

オレの心はいまだにシリの前では、爪先立つ思いだった。


「シリ、話したいことがある」


彼女の腕の中で、眠っていたウイがかすかに身じろぎする。

小さな命のぬくもりが、産室の空気をやわらげた。


シリが顔を上げる。


その青い瞳に見つめられ、言葉が一瞬、喉に詰まる。


けれど、言わねばならない。


オレはシリのそばに屈み、まっすぐにその瞳を見た。


「ゼンシ様が・・・シズル領を攻めた」


言葉にした瞬間、幸福の空気が砕けた。


シリの指先が震えた。

ただ、真っ直ぐにオレを見つめている。


「兄が・・・約束を破ったのですね」


オレは静かに頷いた。


「家臣たちは憤っている。ゼンシ様を撃つと決まった。明朝、出陣する」


沈黙が落ちた。


窓の外の春の光が、まるで遠い日の記憶のように冷たく見えた。


「・・・そんな」

小さな声が震える。


その声が、心の奥を切り裂いた。


「シリ、この城から逃げてくれ。ゼンシ様に、ワストの兵が動くと伝えるんだ。

そして・・・そのまま、生家に帰れ」


シリの瞳が大きく見開かれた。


驚きと痛みが交錯する。


「どうして・・・?」


「生き延びるためだ」


掠れた声が、自分のものとは思えなかった。


「シリがこの城に残れば、ゼンシ様の怒りが向く。その前に・・・逃げてくれ」


シリは聡い女だ。


オレの治めるワスト領が、武でも富でもミンスタ領に敵わぬことを、誰よりも知っている。


滅びるとわかっている城に、

彼女と子どもたちを残すことなどできるはずがない。


シリは唇を噛み、膝の上のウイを抱きしめた。


その指先が、かすかに震えていた。


「・・・どうして、そんなことを。私が兄に報告をしたら、ワスト領は滅びるのですよ。

私に内緒にして・・・明日出陣をすればよかったのに」


オレは首を振った。


「オレは、お前に嘘をつかないと決めた。だから言う」


シリの青い瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。


「守るためだ。お前と、子どもたちを」


その言葉を言うだけで、胸が裂けそうだった。


「グユウさん・・・」

シリの瞳は涙で揺らいだ。


「領主としてのオレは未熟だ」

オレは、子供ごと、シリを軽く抱きしめた。


「シリ・・・好いているという言葉では足りない。

オレのところに嫁いで・・・子を産んでくれてありがとう」


ーー離したくない。


けれど、それは許されないことだった。


オレも、そして、シリも責任がある立場なのだ。


「馬車を一台用意してある。オレが出陣をしたら、すぐにユウとウイを連れてこの城を出てくれ」


そう話すと、彼女は蒼白な顔をして俯いた。


政略結婚、それは愛でも情でもなくーーお互いの家を結びつける結婚。


シリは、生家にオレの裏切りを伝える義務があるのだ。


「・・・シリ。どんな形でもいい。

お前が無事に生きてくれたら、オレはそれでいい」


そう伝え、産室から出て行った。


胸の奥が切なさと悲しみで疼く。


ーーこれで良いのだ。


そう言い聞かせた。


その夜、シリはユウとウイの乳母たちと共に、

城を離れるための支度を進めていた。


衣を畳む音、包みを結ぶ音が、寝室から途切れ途切れに響いていた。


誰も言葉を発しない。


それぞれが、胸の奥で何かを噛みしめていた。



翌朝――出陣を前に、オレはもう一度だけ産室を訪れた。


扉を開けると、シリがいた。


髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い影が落ちている。


一睡もできなかったのだろう。


それでも、彼女は立ち上がり、まっすぐにオレを見た。


最後の別れの時が来た。


最初にユウを抱いた。


青い瞳、輝く金髪――シリにそっくりな子だ。

けれどその父は、シリの兄。

今まさに、オレが戦おうとしている男だった。


小さな体を抱き上げると、ユウはじっとオレを見つめた。


その真っ直ぐな視線に、思わず胸が締めつけられる。


「ユウ、大きくなったら、父を忘れてしまうかもしれないな」

ぽつりとこぼれた言葉に、自分でも驚いた。

抱きしめる腕に、自然と力がこもる。


「けれど・・・オレは、一日たりともお前を忘れない」


ユウは何も言わず、ただその瞳でオレを見返していた。


まるで、すべてを理解しているかのように。


そのあと、産まれてまだ二十日しか経たぬウイを抱いた。


オレとシリにとって、初めての子ども。


何も知らないその子は、幸せそうな顔で眠っていた。


この小さな命が、オレのことを覚えているはずもない。


オレはそっと抱きしめ、愛おしげに目を閉じた。


「・・・ウイのことを、頼む」


乳母にウイを渡すと、彼女は唇を噛み、涙をこらえながら深く頭を下げた。


乳母たちは肩を震わせながら、静かに部屋を出ていった。


やがて、産室にはオレとシリだけが残った。


「シリ・・・」

オレは彼女の顔を両手で包み込んだ。


「ユウとウイのことを頼む」


シリはオレの瞳をまっすぐに見つめ、黙って頷いた。


――もう決めているのだ。


この城を出ることも、子を連れて行くことも。


そして、きっとオレの前で泣かないことも。


その強さが、余計に胸を締めつけた。


オレはそっと近づき、彼女の細い肩に手を置いた。


その時、シリが静かに言った。


「・・・グユウさん。最後に、口づけをしてください」


予想もしなかった言葉だった。


一瞬、息が止まる。


離れたくない――その想いが、胸の奥で音を立てた。


どちらからともなく目を閉じ、唇が触れ合った。


これ以上続ければ、きっと離れられなくなる。


オレはすぐに唇を離した。


けれど――


「もっと・・・」

シリが、震える声で願った。


「もっと、してください」


その瞳に込められた想いに、もう抗えなかった。


唇を重ねる。

深く、長く。

息が足りなくなっても、離れたくなかった。


苦しくて、それでも離れたくなくて、オレたちは何度も唇を重ねた。


――離れたくない。


ドアを優しく叩く音がした。


家臣ジムの気配。


もう時間だ。


唇を離し、扉の外に向かって声をかける。


「もう少し、待ってくれ」


産室に差し込む春の光のなかで、もう一度、シリを見下ろした。


淡い日差しを受けた彼女の髪は光を帯び、

青い瞳には、人を魅するほどの強い光が宿っていた。


「シリ・・・どこにいても、シリの幸せを願っている」


涙で揺れる瞳をつくづく見つめ、それだけを言い残して、身を離した。


行かなくてはならない。


背を向け、扉へ歩み出す。


背後で、かすかな衣擦れの音。


シリが、静かにその場にしゃがみ込んだのがわかった。


――駆け寄ることはできない。


扉を閉める。


閉じた瞬間、

「・・・あぁ」

絞り出すような声が、内側から聞こえた。


シリの泣き声を背に、オレは目を閉じた。


「・・・グユウ様」

ジムが、静かに声をかける。


オレは顔を上げ、心を押し殺して歩き出した。


領主として、民のため、家臣のために――戦わなければならない。


ホールでは、すでに家臣たちの雄叫びが響いていた。


それは、戦の始まりを告げる音。


兵たちの足音が、重々しくレーク城を離れていく。


――シリ。どうか、幸せに。


その想いを胸に、オレは戦場へ向かった。



「逃した」

シズル領・領主でもあり、友人のトナカが忌々しげに吐き捨てた。


「あぁ」

オレも、短く返すしかなかった。


義兄――ゼンシ様は、オレの裏切りに激昂した。


「グユウめ! 義兄を撃つとは何事だ!」

怒号が響き、彼は挟み撃ちを恐れて険しい山道へと逃げた。


討ち取ることは叶わなかったが、戦はワストとシズルの勝利で終わった。


トナカが息を整えながら問う。

「シリは、どうした?」


「ミンスタ領に返した」

そう答えたが、胸の奥が軋んだ。


オレの口調に、トナカは察したようにうなずく。


「シリが・・・幸せに過ごせるなら、それでいい」

自分に言い聞かせるように呟く。


「必ずゼンシを撃とう」

トナカが差し出した手を、オレは強く握り返した。


「あぁ」


握り返したその手の温もりだけが、戦の余韻の中で唯一の救いだった。



翌朝、城に帰る道のりは沈んだものだった。


春の風がゆるやかに吹き、草木の匂いが馬の息づかいに混じる。


戦が終わったというのに、胸の奥の重さは消えなかった。


義兄を裏切り、シリを失った。


勝ったはずの戦が、何ひとつ誇れない。


いつもは・・・遠出のたびに、シリがいる城に早く帰りたくて、馬を飛ばした。


ーーもう、シリはいない。


レーク城が見えてきた。


ジムが隣で小さく言った。


「・・・グユウ様、少しお休みを」

オレは無言で頷き、馬を降りた。


城門が開く。


見慣れた木壁と、懐かしい空気。


それなのに、もう帰る場所ではないように感じた。


玄関の扉を押す。

ひんやりとした空気が頬を撫でた。


その瞬間――


「・・・お帰りなさい」


静かな声が、風に溶けるように響いた。


目の前にシリがいた。


白いエプロン姿で、まるで侍女のように控えめな装い。


けれど、その青い瞳だけが、すべてを物語っていた。


一瞬、言葉が出なかった。


息をすることさえ忘れた。


「勝利・・・おめでとうございます」

シリは微笑んだ。


夢ではない。


けれど現実だと受け止めるには、まだ時間が足りなかった。


逃したはずだった。


命に変えてでも守りたかったシリ、安全な故郷に戻るように指示をしたはず。


「シリ・・・なぜ」


掠れた声で尋ねると、彼女は答えなかった。


ただ、穏やかな笑みを浮かべ、後ろに控える家臣たちに声をかける。


「皆さんの食事を準備しています」


焼きたてのパンの香りが漂い、

ハーブの効いたスープの匂いがホールに満ちていく。


戦いを終えた兵たちは、戸惑いながらもその香りに目を細めた。


シリは、全員の前に立ち、静かに頭を下げた。


「皆さま、お疲れさまでした。今日はどうか、身体を休めてください」


その声に、ざわついていた空気が次第に静まり、やがてホールは不思議な温かさに包まれた。


料理人と女中たちが、次々と器にチキンスープを注いでいく。


シリが一歩前へ出て、両手でスープの器をオレに差し出した。


「どうか召し上がってください」


その優しい声に、ほんの一瞬、戦場の記憶が遠のいた。


スープを口にしようとしたそのとき――


「グユウ様! お待ちください!」

オーエンが血相を変えて駆け込んできた。


「毒かもしれません! もし全員が食べれば、ワスト領は――」


場が一気に凍りついた。


「毒など入れていません」

シリがきっぱりと言い放つ。


その勝気な瞳に、オーエンは言葉を失った。


「それでも不安なら、私が証明します」


シリはオレの手から器を取り戻すと、その場でスープを啜り、パンをちぎって食べた。


静まり返った空間に、スープを飲む音だけが響いた。


「皆で作りました。安心して召し上がってください」


毅然とした声がホールに響く。


兵たちが顔を見合わせ、やがて一人、また一人と器を手に取った。


温かい香りと笑い声が広がり、

戦の直後とは思えぬほど、和やかな空気が満ちていく。


オーエンは恥ずかしそうにうつむいた。


「オーエン」

シリが穏やかに呼びかけた。


「あなたは良い家臣です」


「出過ぎた真似をしました」

オーエンは悔しげに頭を下げる。


「あなたがいれば、グユウさんは安心です」


見上げると、

シリの青い瞳は、さっきまでの強さとは違う光で、

やさしくオーエンを包み込んでいた。


その姿を見つめながら、

オレは胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。


――この人は、強くて、賢い。

どんな男よりも勇敢で、そして、美しい。


だからこそ、気になる。


なぜ――この城に残ったのか。


今すぐシリの肩を掴んで問い詰めたかった。


けれど、その時間はなかった。


領主には、片付けねばならない仕事が山のようにある。


すべてを終え、高鳴る胸を押さえながら寝室へ向かった。


扉を開けると、そこにシリがいた。


背筋をまっすぐに伸ばし、強く、美しい瞳でオレを見つめていた。


星のような光を宿した目から、

負けず、曲げず、諦めない意志が滲んでいた。


――この瞳に、何度心を奪われてきたことか。


シリはいつも、疑問を口にし、前に向かって行動で答える女だった。


だからこそ、オレが流されてはいけない。


彼女の幸せを考えれば、なおさら。


「シリ・・・どうして逃げなかったんだ」

静かに問うと、彼女は一歩も引かずに言った。


「逃げません」

その瞳は、相変わらず強く光っていた。


「私はここにいます」


「シリ、ここにいてはダメだ。

近いうちに、ゼンシ様はこの城を攻めてくる」

思わず彼女の肩をつかんだ。


「攻めるでしょう。兄上なら」


「逃げた方がいい。オレは・・・シリに幸せになってほしい」


シリは黙ったまま、じっとオレを見つめた。


その青い瞳の奥に、かすかな哀しみが揺れた気がした。


美しいその目を見て、オレの心がわずかに揺らぐ。


けれど、すぐに気持ちを押し殺す。


「シリ、今なら間に合う。ミンスタ領に戻れ」


シリは静かに首を振った。


「殺されてしまうかもしれないのだぞ」

懇願するような声が、自分のものとは思えなかった。


「戻ったとしても・・・私はまだ二十二歳。

子を産める女には、利用価値があります。

生家に戻れば、兄に命じられ、また別の男に嫁ぐでしょう。

グユウさんを想いながら、知らない男に抱かれる。それが幸せだと思いますか?」


言葉が出なかった。


シリを手放す覚悟はしていたはずなのに。


その先のことなど、考えたこともなかった。


オレの答えを待たずに、シリは再び口を開いた。


「それとも・・・兄上の慰み者になるかもしれませんね」


その言葉に胸が痛んだ。


喉が焼けるようで、言葉が出なかった。


「幸せって、なんでしょうか」

シリが遠くを見つめて呟く。


「安全な場所で、知らない男に抱かれることでしょうか」

挑むような瞳が、まっすぐにオレを射抜いた。


「女は嫁ぎ先を選べません。

けれど、どう生きたいかは選べます。選べるのなら、私はこの場所を選びたい」


そう言って、シリは立ち上がった。


一歩、また一歩と歩み寄り、オレの前で止まる。


「私はこの城に残ります」


強い光を宿した瞳が、すぐ目の前にあった。


あまりに美しくて、言葉を失った。


「幸せは他人が決めることではありません。私が決めます」


次の瞬間、オレは衝動のままに彼女を抱き寄せていた。


「シリ・・・なんてことを言うんだ」

声が震え、泣き声に近かった。


「いいんです」


「・・・きっと後悔する」

「しません」


シリの首筋に顔を埋め、さらに抱きしめる。


そのぬくもりに、心が軋む。


「・・・グユウさん」

「シリ・・・未熟ですまない。けれど、オレは嬉しい」


「口づけを、してもらえますか」

その声に、オレは息を呑んだ。


恐る恐る唇を寄せ、そっと触れるように口づけをした。


離れた瞬間、シリが囁く。


「もっと・・・してください」


迷いのないその瞳が、闇の中でもはっきりと見えた。


再び唇を重ねる。

時間の感覚が遠のいていく。


吐息が混じり、呼吸が乱れる。


気づけば、二人はベッドにもつれ込んでいた。


見上げるシリが微笑む。


それだけで、心が震えた。


――彼女が選んだ道に、自分はふさわしいのか。


彼女を幸せにできるのか。


自信がなかった。


「グユウさん」

シリが身体を起こし、穏やかに言った。


「私が決めたことです。迷わないでください」


その強い言葉に、思わず吹き出す。


「シリは・・・強いな」


「それは、グユウさんが隣にいるからですよ」

囁きながら、彼女は微笑んだ。


オレは息を呑んだ。


「・・・オレのそばにいて、いいのか」


「グユウさんじゃないと、ダメなんです」


彼女の瞳に宿る決意に、胸が締めつけられた。


この人は、自分よりもずっと強い。


守るために手放そうとした。


けれど――


自分のいない場所で彼女が泣くことの方が、何倍も怖いと知ってしまった。


気づけば、もう一度抱き寄せていた。



「無理をさせてしまった・・・身体は大丈夫か」


息を整えながら問いかけると、シリは少し息を弾ませてオレの手を握った。


「大丈夫です」

力のない声でそう言い、幸せそうに微笑んで瞼を閉じた。


その横顔を見つめながら、オレは静かに息を吐いた。


――もう離さない。


この人が望む場所に、オレも共に立とう。


未熟な領主だとしても、

彼女に相応しい男に、夫に、そして父親になろう。


腕の中のシリを、もう二度と離さぬように強く抱きしめた。


春の風が、窓の隙間から静かに吹き込んだ。



ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、グユウ視点によるエピソードです。


短編だけでもお楽しみいただけますが、

本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。


本編はこちら

『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)

https://ncode.syosetu.com/n2799jo/


完結済み、政略結婚から始まる恋と戦と家族の物語です。


そして、この短編を気に入ってくださった方へ。


短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。

https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/


※この短編も、数日後に短編集に追加予定です。


※後書きの後書き

この作品の対になる短編が好評です。


乳母 エマ視点の物語。


『幸せは、私が決める――逃げなかった妃の物語』

https://ncode.syosetu.com/n5564li/


戦に背を向けず、愛と誇りを貫いた妃の決意を描いています。


良かったらご一緒にどうぞ。

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