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逃避行

掲載日:2025/10/28

 哲夫は、寝台列車に揺られていた。寝台は狭かったので、ちょっと気分転換しようと、通路に出た。どうやら、通路で、タバコは吸えるらしい。彼は、喫煙車に乗っていたのだ。一本、セブンスターを抜き出すと、火をつける。煙が目にしみた。

 哲夫は、都内の自宅で、妻の幸恵を殺害していた。妻の不倫がきっかけの痴話喧嘩の果ての衝動的な犯行であった。彼が刺したナイフは、幸恵の脇腹に深々と突き刺さった。血が溢れて、彼の両手を真っ赤に染めたのを今でも鮮明に覚えている。しかし、彼は、後悔していた。殺したとはいえ、長年の間、一緒に付き添ってきた妻である。そこに、愛情がないとはいえないのである。

 しかし、今は逃げたかった。少しでも遠くに行きたい。現場から姿を消したことで、彼に指名手配の手が及ぶことは、彼自身が充分に承知していた。それでも、忘れたい。あの事件を忘れたい思いが彼を、この列車に乗せたのだ。

 哲夫は、煙草の火を灰皿スタンドでもみ消した。あたりに、煙草の紫煙が漂って、まるで霧のようであった。それは彼の心模様に似ていた。彼は、手で煙を払うと、急にトイレに行きたくなって、列車の連結部に向かった。

 トイレを出ると、外の通路に、窓にもたれて、教科書を見ている娘に出会った。彼女は、教科書から顔を上げて、ニッコリと笑い、彼に話しかけてきた。

「おじさん、積分の解き方、覚えてる?」

「積分?ふうむ、もう忘れたかなあ?どうしたんだい?」

「この問題、出そうなんだ。おじさんなら、頭良さそうだから、知ってるかなと思ってさ?」

 気立ての良さそうな娘だった。年は、16、7だろうか、おかっぱ頭のくせに、妙に大人びた外見である。性的な魅力すら感じさせる娘であった。彼女は、ニットのセーターのすそを引っ張りながら、

「おじさんは、旅行なの?」

と、尋ねてきた。彼は、やや口ごもって、

「あ、ああ、ちょっとね?」

と、誤魔化した。

「それよりも、君は?ひとりで、卒業旅行かい?」

「あたし?あたしは、これから大学受験の会場に行くところなの。北海道大学を受けるんだ。ひとりで寂しいけれど、これ、持ってさ」

と言って、手のひらの小さなお守りを見せて、

「高校の彼氏に貰ったんだ。大事にしてるんだから。彼とは、もう十年以上の付き合いなんだ」

「ふうん、そうか、それはいい。そうだ。ちょっと話すかい?この先に、食堂車がある。チョコパフェを奢って上げるよ、どうだい?」

「いいよ。おじさん、悪い人じゃなさそうだし、あたし、ついていく」

 悪い人じゃない、か。笑えるな。哲夫は、ちょっと微笑みながら、娘を連れて、食堂車に向かった。

 食堂車は、ガラガラに空いていた。客は、ほとんどいない。哲夫は、奥の席につくと、来た車掌に、コーヒーとチョコパフェを頼んで、娘を見た。

「あたし、久実、間宮久実っていうの。兵庫県から来たのよ。北海道までは、まだまだ遠いよね?」

 久実は、屈託なく笑った。その笑顔が、哲夫には、まぶしいくらいであった。

「でさ、君、浪人したの?」

「ううん、バリバリの現役だよ。一発で、合格する自信はあるんだ、こうみえてね?」

「志望学部は?」

「文学部。子供の頃から、あたし、読書が趣味なんだ。それと、ジョギング。でさ、文学部で、ドストエフスキーを専攻しようと思ってんの。彼の「罪と罰」って、読んだことある?」

「うん、昔ね。懐かしいな」

 そう言いながら、哲夫は、苦笑いした。罪と罰か...............。

 その時に、注文が来た。哲夫が、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる間に、久実は、パクパクとパフェを食べている。あっという間だ。食べ終えて、上げた久美の顔の鼻先にクリームがついている。気づかないようだ。

「ごちそうさま。おいしかった。あれ、どうして笑ってるの?」

「おい、鼻にクリームついてるぞ、格好悪いよ」

「いけない。取らなきゃ」

 それから以後、しばらく、久美の高校性生活のことや、彼氏とのデートの思い出、将来の夢について語り合った。終始、久実は、真面目に哲夫を笑わせた。風変わりな娘であった。

「じゃあ、あたし、席に戻るわ。おじさん、いい人だね。どうも、付き合ってくれてありがとう。じゃあね!」

 そう言って、久実は、食堂車から去っていった。そして、哲夫も、寝台車へと向かった。


 哲夫は、寝台に寝転がって考えていた。悪い人じゃない。いい人ね。久実の言葉を思い返していた。それから、何度か、寝返りを打ち、煙草を吸いに通路に出た。2本目の煙草を吸い終えた頃には、彼の決意は固まっていた。

 彼は、持っていた荷物をまとめると、片手に提げて、次の駅で降りようと、連結部に出た。

 すると、また、教科書を持った久実に出会った。

「あれ、おじさん、降りるの?北へ行くんじゃないの?どうして?」

「うん、ちょっと気が変わってね。帰ろうと思うんだ。東京へね?」

「そうなんだ。分かった。じゃあ、東京によろしく!」

 哲夫は笑って、列車を降りた。

 自首しよう。それでいい。気分は爽やかだった。爽快だ。

 東京に軽く頭を下げて、彼は、歩き出した.................。

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